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065_永禄七年(1564年) 陣中の夜

「――九朗様、新九郎様」


 ゆさゆさと、体を揺らされる感覚に長政は瞼を上げる。

 気づけば陣中で座ったまま片肘を付き、そのまま眠りこけていたようだ。


 顔を上げると、ゆらゆらと揺れるたいまつの炎が目に入る。夜行性の虫やカエルの鳴き声があちこちから聞こえ、今が夜である事を思い出した。


 ――こんな事、昔もあったな。


 いつか経験したような感覚を覚えながら、眠りにつく前の記憶をさかのぼる。


 そういえば、魚津に布陣して各部隊の編制の確認や兵站へいたんの確保など指示を飛ばした後、ようやく本業とばかりにはきはき働き始めた弟の政元に後を任せて本陣で一息ついた記憶がある。


 そこで手持無沙汰になり、そのまま寝入ってしまったようだ。


「新九郎様。お疲れのところ申し訳ありません、政元様が早急にお耳に入れたい知らせがあるとの事です」


 見れば先ほどから長政の名前を呼ぶのは八重のようだった。


「ふあ……んん、いや構わん。どうした?」


 彼女の後ろには弟の政元と、その護衛を務める田中吉政の姿。どうやら吉政も政元の補佐をしていたようだ。


 彼が政元の側近を務められるだけの技量と知識を蓄え、しっかりと手柄を上げれば譜代の家臣として取り立てる事も視野に入れられるだろう。


「はい。どうやら近くに女郎じょろうが居るようで、兵が騒いでおります。軍規の乱れや油断に繋がるため女郎を払うべきかと思いましたが、下手に払えば兵の不満が爆発しかねず、いかにすべきかと……」


 政元の言葉で長政はすぐさま事態を把握した。


「刺客か?」


 八重に視線を送ると、彼女は静かに首を横に振る。


「申し訳ありません、私一人では手が足りずそこまでは……しかし、狙ったように現れているため、無いとは言い切れません」


 彼女の言葉に長政は少しばかり考え込んだ。


 女郎とはこの時代における遊女の事である。

 出陣前はゲン担ぎのために女人禁制となるこの時代でも、出陣後はその辺りが緩くなるようで、兵を相手に商売をする遊女が戦場で寄ってくる事も珍しくなかった。


 何日も出陣していれば溜まるものは溜まるもので、彼女たちのように戦場までやってくる女郎、御陣ごじん女郎じょろう存在は重宝されていた。


 男も女も最後に売るのは自分の体だ。男は兵士として戦場で手柄を上げて稼ぐように、女は女郎として夜に男を相手にして稼ぐのである。


 しかしそれだけ戦場で需要がある存在ならば、利用しようと考える大名が出るのもこの時代の常である。

 この御陣女郎に紛れて刺客を送る大名も居たという。


 兵や将の相手をしながら情報を聞き出したり、わざと時間をかける事で気を抜かせて、その間に他の兵が奇襲を仕掛けるといった具合だ。


 武田たけだ信玄しんげんが情報を集めるために組織したと言われる歩き巫女も、そんな女郎の集まりだったのではないかといわれている。


 この時代の彼女たちはただ体を売るだけでなく、諜報と言う面でも重要な役割を担っていたのだ。


 そんな刺客が今回現れた女郎の中に居ないとも限らない。


 本来はその辺りを調べ上げたいところだが、現状その役目を担えるのが八重しかおらず、その八重は長政の護衛に回されているため持ち場を離れるわけにはいかない。


 内政面での人手不足は弟の政元と叔父の政澄まさずみが回しているためなんとかなっていたが、こういった部分の人手不足は未だに解消しきれていないのが浅井家の実情だ。


 蒼鷹隊や大鷹隊を組織してもなお、長政は人手不足に悩まされていた。


「女郎を追い払えば兵の不満が爆発しような……わかった、虎高に女郎を囲ってやるよう知らせを送れ。余計な事を喋らぬよう兵達に徹底し、不審な者は必ず捕らえろともな。それから、支払いは全て浅井で持ってやれ。女郎には多めに金か米を渡して損をさせぬようにな。変に渋って敵の城に駆け込まれても敵わん。それから――」


 ひとしきりしたところでニヤりとわらった長政は続ける。


「――お主らも行ってきて構わんぞ。そろそろ女を知っておきたい年頃だろう?」


 途端、政元と吉政はバツが悪そうに視線をさ迷わせ、「と、藤堂殿に知らせて参ります!」と逃げるように陣を去っていった。


 知らぬうちに政元も大人になったものだな。改めて時の流れを実感する。


「くっくっくっ。どう思う? あの二人は女郎の元へ行くと思うか?」


 自身が初陣を果たしたころは、まだまだ子供だと思っていたのに。などと感慨深くふけっていると、八重がぼそりと呟いた。


「新九郎様も行かれるので?」


「ぶふっ! ゴホッゴホッゴホッ! んんん! 急に何を言い出す!」


「行かれないのですか?」


「行くわけないだろう! 万が一にでも小夜の耳に入ったらどうする、怖いでは済まんぞ!」


 一夫多妻が認められるこの時代でも浮気という概念は存在する。戦国時代でも大名が気の迷いで侍女と一夜を共にし、正室に怒られたという話は多い。


 長政の次女として生を受ける筈のお初なんか、史実では夫が浮気した際には怒り狂い、浮気相手の侍女とその子供を殺害しようとした、などと言う逸話が残されているほどだ。


 そもそも側室自体も正室が認めた場合にのみ設けられるものであって、気に入った者が居ればすぐに側室に、とはいかないのである。


 そして立場上側室とは言え、長政の実質的な正室である小夜は、非常に……非常に嫉妬深い。


 長政の傍に長政の母である小野殿と八重以外の女が居る事を決して許さず、あろうことか姉の慶にさえ敵愾心を丸出しにしている始末。


 慶も慶で小夜の事が気に入らないのか笑顔で嫌みを言っているため長政から言わせればどっちもどっちだが、そんな小夜が万が一にでも長政の浮気を知ったらどうなるかなど考えるだけで恐ろしい。


 そんな事をした日には史実を無視して、畳の上で死ぬ事になるかもしれないのだ。文字通りの意味で。


「それか、私がお相手致しますが――」


「馬鹿者。冗談でも言っていいことと悪い事があるぞ」


 小夜の妊娠がわかって早二ヶ月ほど。その間、長政は全くやることをやっていない。


 辛い事この上無いが、現代を知る長政にとってはこの時代の春画で致すわけにもいかず悶々とした日々を忙しさでごまかしているような状態だ。


 そんな時に八重に誘われれば長政の理性が耐えられるか定かでない。とても冗談で済ませられる内容ではないのだが――


「小夜様にはいざという時には私が新九郎様のお相手をするように、と厳命されております故」


「ぶっはっ!」


 どうやら外堀は埋められているようだった。


「どういうことだ!?」


「小夜様は新九郎様が小姓こしょうを置かれない事をご心配されています。相手が男であれば許せるが、女であれば許せるかわからないと。ですから、いざという時に新九郎様の目が女子に向いた際は私が相手を務めてほしいとも」


 小姓こしょうとは一般に主君の護衛や身の回りの世話を務める若い男の事を指すが、彼女が言う小姓はこの場合、衆道しゅどうの相手となる色小姓の事を指しているのだろう。


 衆道とは平たく言えばこの時代における男色の事で、色小姓とはその相手をする若い男たちの事だ。


 衆道の文化は根深く、起源は鎌倉時代や室町時代までさかのぼると言われているが、最も重要なのはこの時代において、武家の男は衆道をたしなむのが教養の一つとされていた事だ。


 織田信長における森蘭丸、徳川家康における井伊直政などが有名だがこの時代の武家の男は皆色小姓を傍に置いていて、衆道を嗜んでいない男は豊臣秀吉ただ一人であるとさえ言われている。


 秀吉が衆道を好まなかったのは単純に、彼が武家の生まれではないからだ。


 元は百姓の生まれである秀吉は幼い頃からの教養が無く、衆道の文化に触れる事もなかったのだ。


 彼の教養の無さは他にも嫁選びに色濃く出ており、『処女や若い女や身分の高い女よりも、未亡人や年上の女の方が大名の妻には相応しい』と言うのが通説だった当時に置いて、彼は若い女を、特に身分の高い女ばかりを側室にしていた。


 徳川家康は熟女好きとして知られ、夫を失った未亡人ばかりを側室にしていた事で有名だが、それもこういった武家としての教育の賜物だったのだろう。


 長政も当然、そういった教育を受けてはいる。


 しかし如何せん現代人としての感覚が抜けきっていない節があり、小姓に対して抵抗があるのもそんな理由からだった。


「……私は小夜に信用されていないのか?」


「信用されているからこそでございましょう。信用しているからこそ裏切られた時の事を考えるとそういう手を用意しておかなければ、という乙女心にございます」


 頭を抱える長政の横で淡々と、八重は表情の一つも動かさずに告げる。長政としては複雑な心境だが、身重の小夜は情緒が不安定になっているのかもしれない。


 ただでさえ初めての妊娠で不安だろうに、夫の長政は政務や出陣で留守にすることが多いのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。


「……小夜は良いとしても八重はそれで良いのか。まだ未婚だろうに」


「私も生娘と言うわけではありませんから」


「なッ!?」


「? 何か?」


 西洋の処女信仰の文化もまだ流入していない今、生娘かどうかはあまり重視されない時代だ。


 そのため大した事ではないように八重はそう告げたが、やはり現代人の感覚を持つ長政には衝撃的な事実だった。


 例えるならば、そう――


「……幼い頃に憧れた事もある、近所の年上の幼馴染が実は経験済みだったと知り、もやもやした何とも言えぬ感情が胸の中をめぐる感覚だ」


「はぁ……?」


 長政の言葉に八重は首を傾げるが、幼い頃から彼の傍にいる八重とって長政の意味がわからない言動は日常茶飯事。

 それ以上言及するだけ無駄である事を知っているためか、気にした風もなく続けた。


「それに私も既に二十二。この顔ですから、子を成すことは諦めています」


 どこか憂いを帯びたその横顔に、長政は複雑な感情を抱く。


 八重は長政や小夜の二つ年上。

 二十二と言えば現代ならばまだ学生でもおかしくない年齢だが、十六や十七で嫁ぐ事が当たり前のこの時代では、既に行き遅れ扱いされてしまう。


 離婚も珍しくないこの時代、初婚は二十までに済ませるものである。

 そこまでに嫁に出せないという事は、余程本人に問題があると考えられてしまうのだ。


 現代でこそ女の幸せは結婚だけではないと言えるが、この時代においては該当しない。


 女の仕事は子作りであり、それが出来ないならば役立たずと罵られる。戦に弱い男に居場所が無いのと同じ理屈だ。


 長政としては彼女にも幸せになってほしいが、現実問題として彼女の結婚には障害が多すぎる。


 この時代の結婚は家と家との結びつきを重視するものであるため、彼女の結婚相手にとって彼女の家との結びつきに価値がなければならない。


 しかし彼女は、六角家に仕える甲賀の出だ。


 忍びの出と言うだけで武家よりいくつも格が落ちるのに、浅井の宿敵である六角の出となれば要らぬ疑いをかけられる恐れまである。


 そんな危険を冒してまで彼女を嫁に、と言う者は浅井には居ないだろう。


 かと言って今更、六角へ戻ったところで今まで縁談が無かったところからもどう言った扱いになるかは明白。


 庶民の間では恋愛結婚も珍しく無かったが、彼女には顔半分を失う火傷のせいでそれさえも難しい。


 小夜の懐妊がわかって浮かれていた長政だったが、幼馴染の二人がそんな幸せの中に居るのを蚊帳の外から眺めるしかない八重の思いはいかばかりかを考えると、胸が詰まるような気がした。


 せめて現代であったなら……或いは、長政と同じ感性を持つ者が居さえすれば。

 彼女も子を持つ幸せを知る事ができたかもしれないと言うのに。


「……ままならんな」


 独り言のつもりで呟くと、八重はそれに応えた。


「この世はままならぬことばかりにて。だからこそ仏教を信じる者が山ほどいるのでしょう」


「……左様か」


 二人がそれ以上の言葉を交わすことは無く、夜は静かに更けていくのだった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] えー-- 八重さんと、ここで、まぐ合わないなんて非道だよ。 八重さん、かわいそう!!!!!
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