064_永禄七年(1564年) 西近江への道
小谷を発って数日。長政率いる浅井軍は引き続き西近江を進んでいた。
目的は今津城にこもる山中氏の討伐。
長政としてはその道中で城を構える国衆を降伏させて浅井に恭順させる腹積もりだ。
もしここで浅井に従わず、城にこもるようならば迷わず攻め落とす。
そうして空いた土地に長政の息がかかった者達を入れ、西近江を着実に併呑していく考えだ。
これまでの長政のやり方に比べるとずいぶん強引だが、その強引な手を容認せざるを得ないほどに今の長政には焦りが募りつつあった。
既に永禄は七年。史実の信長の上洛は永禄十一年。その時まで残りは四年だ。
長政が初陣を迎えた野良田の戦いからも今年でちょうど四年、折り返しの時期に差し掛かる。
この四年は瞬く間に過ぎ去ったが、長政の運命が史実から外れた様子はない。
長政としては未来の知識を存分に活用し、なんとか運命を変えようともがいてきたつもりだったが、この四年で変わった事と言えばせいぜい北近江が史実より発展している程度。
そしてそれは、いずれ信長が成し遂げたはずの偉業を数年先取りしているだけにすぎず、明確な変化とはいいがたい。
もしこの調子で残る四年が過ぎ去れば、あっという間に史実に追いつかれ、そして浅井は滅亡の憂き目にあってしまうだろう。
その未来だけは、何としても避けなければならないのだ。
しかし、始めは長政の焦りを映し出すかのように進撃していた浅井軍の足が、今は明確に鈍っていた。
「遅すぎる」
苛立ちの色が混ざりながら長政が呟く。
元々独り言のつもりだったため返事は求めていなかったが、いつもならここに赤尾清綱や遠藤直経、浅井政澄と言った者達の答えがあるため、返事がないのも寂しく感じた。
元々、精鋭揃いで小谷を発った浅井軍は、北近江の国衆や北近江に近い場所に居を構える、親浅井の西近江国衆が合流するにつれて兵の数がみるみるうちに増えた。
しかし増えた兵の数に比例するようにして、進軍の速度もみるみる遅くなっていく。
彼らが連れてくる兵は碌な訓練を受けていない、いわゆる雑兵。そのため読み書きすらできない彼らを率いて進軍するのは困難を極める。
進軍方向を変えようとすればもたもたと時間を食い、休むための支度を指示すればもたもたと時間をかける。
しかし勘違いしてはならないのは、彼らの兵の質が悪いわけではなく、本来はこれが普通と言う事だ。
それどころか、近江では大小様々な戦いが頻発しているため、他の国に比べれば彼らは戦いなれている方である。
長政の指示が一瞬で行き届き、速度と正確さを兼ね備えた動きができる蒼鷹を始めとした鷹の兵が異常なのである。
しかしそんな雑兵でも居ないよりはずっと良い。兵の数はそのまま相手を脅す武力になる。
ましてやこの西近江、長政のことを快く思っていない者たちも多数いる。
ほとんどの者達は初めから浅井と戦うつもりなどなく、早々に恭順の意を示して浅井軍に合流するのだが、中にはそれを良しとせずに浅井の進軍を阻もうと城に籠る者も居た。
そんな彼らの城を蒼鷹隊で瞬く間に攻め立てれば、田植えの真っ最中である彼らは碌な抵抗もできずにそのまま城を開けた。
兵数の誇張が当然のこの時代、浅井が春先に五千の兵を起こしたと聞いてもハッタリだと思う者ばかりらしく、実際にその陣容を目撃した者達は恐れ慄くためだ。
そのためここまでで目立った戦いは起きていない。
結果、合流した西近江国衆の兵を合わせて七千にも迫る軍勢となった浅井軍は更に進軍を続ける事となる。
しかし当初の兵数から倍に、それも元は長政の指揮下に居なかった者達ばかりが増えたとなれば問題が起こるのも必然。
案の定とでもいうべきか、そんな進撃を続ける長政の元へ下らない揉め事の知らせが届いたのだった。
「何? 乱取りを?」
「はっ、西近江の村々から米を略奪する者がおるようで。我ら蒼鷹が警邏をしてはおりますが、なにぶん全てに目を届かせるには人手が足らず。面目ありませぬ」
そう頭を下げる藤堂虎高からもたらされたのは、浅井軍に合流した者の中に乱取りを行う者がいるという知らせだった。
乱取りとは戦の際に敵地に押し入った農兵達が敵地の民家に火をつけたりして荒らし、そこから米や酒など金目のものを奪い去る火事場泥棒的行為の事だ。
百姓たちは基本的に敵を討ち取るなどの手柄を上げない限り報酬をもらう事ができないが、この乱取りは別。
戦場となる場所、それも敵地からであれば直接奪い取って自分の懐に収める事ができる。
中にはこの乱取りに夢中で逆に敵に隙を突かれたという話もあるほどで、彼ら戦国に生きる者達にとってはいわば取り放題のボーナスのようなものだ。
越後の上杉謙信などは厳しい冬や狩り入れ前で食料の足りない夏の間、関東に出兵して乱取りを許すことで百姓たちの飢えを凌いでいたという話もある。
そのため一概に、乱取りは全て悪と言いきる訳にはいかないが、それでも浅井軍では原則的にこの乱取りを禁止していた。
やがて西近江を手にしようという長政にとって、要らぬ恨みを買う事は避けたいからだ。
そのため今回の乱取り問題は、直ちに解決する必要があった。
「仕方あるまい。乱取りを働いた者を必ず探し出せ。他の者には改めて、乱取りを行わぬよう周知させよ。今後乱取りを行ったものは長政の名において首を刎ねるともな」
「ははっ!」
今や近江半国を治める浅井家とは言え、長政の手足の様に動かせる兵は多くない。
雑兵の数が増えれば増えるほど、こう言った問題が起こるのは必然と言えた。
それから蒼鷹隊が捜索を始め、その日の午後に犯人と思わしき者数名が縄に縛られた状態で長政の前に引き出された。
そしてそんな彼らと共に現れたのは阿閉貞征だった。
話を聞くに、どうやら乱取りを行った犯人は彼の兵らしい。
乱取りを働いた者らは頭を地面にこすり付けており、言い訳すらない様子。そして彼らの前には阿閉貞征が片膝を付いて頭を下げていた。
「私は普段から、乱取りは行わぬようにと厳命しておいたはずだが?」
一刻も早く西近江征伐を終わらせ、若狭へ進出を狙いたい長政に、こんなくだらない問題で足を止めている暇はないというのに。
長政の言葉にはそんな苛立ちの色がにじみ出ていた。
一方の阿閉貞征は頭を下げたまま口を開く。
「申し訳もございませぬ。それがしが目を離した隙に軍を抜け出していたようで。必要でございますれば、この者共の首を刎ねましょう」
冷酷にも思える阿閉貞征の言葉に、縛られた兵達の表情は凍り付いた。しかし戦と飢饉で食料が足りていないこの時代、人の命は酷く軽い。
信じられない話だが、この時代には人身売買も当然のように行われているし、この頃になると度重なる戦乱で市場に奴隷が溢れに溢れ、一人の値段は三十文(約4500円)まで値下がっていたほどだ。
生かしていても金にならず、それどころか秩序を乱すような者は殺してしまえばいい。そんな理屈がまかり通ってしまうのがこの戦国時代なのである。
しかし長政は、阿閉貞征のそんな言い分に不快感を覚えた。
長政の感覚は現代人のそれだ。この時代に生きてもうじき二十年になろうかと言うところだが、それでも命を軽視するこの時代の考えには賛同できない。
武士の意地だの誇りだの、そんな物のために当然のように腹を切る考え方すら理解できないというのに、乱取りを行ったとは言えその者達を斬って終わりにしようという貞征の態度も気に入らない。
進軍の遅れや焦りで苛立ちが隠せなかった長政の怒りに阿閉貞征の態度が油を注いだ形となってしまい、その八つ当たりをするように長政は言い放った。
「要らぬ。それより、自身の兵にすら目も届かぬくせに陣中に女子がどうのと言っておったのか。八重が陣に居ることよりそなたのような間抜けが居る事のほうが、よほど負けに繋がるのではないか」
そんな長政の言葉にカチンと来たのか、今度は阿閉貞征が「お言葉にござるが」と口を開く。
「ただでさえ兵達は連日の強行軍に疲弊しております。その上、充分な休みもなく乱取りまでも禁止となれば、兵達の不満はいずれ爆発しましょう。西近江征伐を急ぎたい殿のお気持ちもわかりますが、そもそもこの進軍自体に無理があるのではござらんか」
阿閉貞征の言い分は最もだ。連日の強行軍は普段から訓練されている蒼鷹隊だからこそついてこれるような進軍速度で、そんな訓練を受けていない雑兵らにはあまりにきつい。
その上、ある意味賞与とも言える乱取りを禁止されているのだから兵に不満が溜まるのも当然と言えた。
幸い、食料は淡海を使って小谷から米が送られてくるため兵糧不足に陥る心配は今のところないが、既に進軍を始めて数日。男ばかりの男所帯では女を求める者も出てくる頃だろう。
だと言うのに息抜き一つ許されないとなれば、不平が貯まるのも仕方ない話だった。
普段の長政であれば、冷静に受け入れられたであろうその指摘。
しかし、今の長政には図星だからこそ頭に来る指摘だった
「こいつ――ッ!」
ついカッとなり、膝をついている阿閉貞行を蹴り飛ばしてやろうと長政は勢いよく立ち上がる。
しかし、それを止めたのは他ならぬ八重であった。
「新九郎様。ご自身で気付いておられないようですが、新九郎様も相当お疲れのご様子です。ここは一度、お休みになられるべきかと」
立ち上がった長政の握り締められた左手に、そっと柔らかな手が重ねられる。
その手には全く力は込められていないと言うのに、触れられた瞬間、長政は身動きが取れなくなってしまう。
声は小さいがよく通る、低く、それでいて心地の良い声音。
普段、こう言う場では八重は全く口を開かない。あくまで自分は賤しい身分であり、前に出てはならないと言う自戒があるからだ。
そんな彼女が声を発するほど、今の長政は行ってはならない過ちを犯そうとしていた。
不思議なことに、長政の胸中に先ほどまで燃え上がっていた怒りの炎は一瞬にして掻き消えた。
八重に静かに、休むべきだと諭されると確かにそうかもしれないという気持ちになってくる。
「……左様、か。……阿閉殿、兵達には次は無いと厳命し、乱取りを行った村へ米を返しに行かせよ、色をつけてな。切り捨てて終わりにはさせん。その代わり、もし逃げたなら仕方ない。斬って良い」
「ははっ、仰せの通りに」
どかっと腰を下ろし、疲れたような声音で告げる長政。
冷や水を頭からぶっかけられたような思いで、居心地の悪さを感じる。
とは言え不貞腐れるわけにもいかないため言葉を続けた。
「それから、全軍に一度休息を取らせる。継潤、この近くに開けた場所が無いか、西近江の者らから聞き上げよ。一度陣を布き、二日ほど休みとする」
長政が告げると、事の次第を黙ってみていた宮部継潤が「承知致しました」と頭を下げた。
それから細かい指示を出した長政は、バタバタと慌ただしくなる中で一人大きなため息を付く。
「新九郎様、ご立派でした」
「すまんな八重、助かった……余計なことをするところだった」
「いえ、私は何も」
「謙遜するな、八重を連れてきて正解だった……普段は叔父上か清綱がいるから何とかなっていたが……」
叔父上とは浅井政澄の事だ。
普段は政澄か清綱のどちらかが副将として細かな采配を振るっているため、総大将たる長政の負担は少なく、それ故に疲労を感じることも多くはなかった。
疲れのせいにするつもりはないが、確かに疲れが溜まっていたのだろう。冷静になってみるとどうしてあそこまで血が上ったのか自分でもわからない。
こうしていざ居なくなると、彼らの存在にどれだけ助けられていたのかが身に染みる。
せめてもう一人、彼らとは別に長政の意図を正しく察し、細かな補佐をしてくれる軍師のような者が居てくれれば、もう少し自由が効くようになるのだろうが、と思ってしまう。
「……軍師、か……」
長政の呟きは陣中に溶ける。そんな長政の元へ、近くに魚津と呼ばれる平地がある事が知らされた。
早速長政は、魚津まで軍を進めると陣を布くよう支持を飛ばす。
二日間の短い休みの時が浅井軍に訪れようとしていた。