006_永禄三年(1560年) 野良田の戦い後処理
激動の野良田、そして家督相続から更に数日。
長政は今、浅井屋敷の執務室で頭を悩ませていた。
「ううむ……ままならんな」
うんざりとした様子で書状に目を通しながら呟くと、傍に控えていた浅井政澄が口を開く。
「仕方ありますまい。国衆とて、浅井と六角のどちらにつくべきか頭を悩ませているのです。一歩間違えれば御家の存続に関わりますからな。だからこそ、こうして――」
「わかっている。わかってはいるが……愚痴の一つも言いたくなるわ」
そうぼやくと、長政は大きくため息をついたのだった。
長政の頭を悩ませる原因、それは東近江における混乱である。
南近江の覇者、六角義賢の敗北により、肥田城城主の高野瀬秀隆は、改めて浅井への臣従を表明した。
結果、浅井家の領土は現在、肥田城を最前線とし、肥田城の西を流れる愛知川の辺りまで拡大した。
これはある意味、東近江をすっ飛ばして南近江の一部までを浅井領としているようなもの。
東近江の者達からすれば突然自分達の真後ろに浅井の味方が現れ、挟み撃ちされたような状態になったのだ。混乱するのも無理はない。
かと言って囲碁のように、敵の領地を挟んだからと、そこまでの領地全ての敵を取り除けるわけではないのがこの戦国時代の厄介なところ。
かつて北近江を治めていた守護家、京極家がそうであったように、今は勢い付いていても明日にはどうなるかわからない。
彼ら国衆からすれば、このまま浅井家に尻尾を振ったとして、その翌日には六角家によって浅井家が滅ぼされる事もあり得るためすぐに鞍替えする訳にも行かないのである。
とは言えいつまでも浅井家に従わず六角家に従い続ければ、浅井の逆鱗に触れて攻め滅ぼされる可能性もある。
そうなってから慌てて浅井家へ臣従を表明したところで認められる訳もない。
どちらに付くにしても難しい判断を迫られている東近江の国衆たちは、結果として殆どが示し合わせたかのように『家中の意見をまとめてから返答する』の一点張りでいた。
お蔭で長政は一人でも多くの国衆を味方につけるための政務に連日追われ、想像していた殿様生活には全く似つかない多忙の日々を過ごしていたのだった。
「せめてもう少し、文官が居ればな……」
長政が愚痴ると、政澄が苦笑いを浮かべる。
「昔から我ら浅井家臣団は武官ばかりですからな……武勇に優れた者は多くとも、政務に優れた者はあまりおらぬ家風にて」
「おじい様と言い父上と言い、当主自らが政務を行うからこそ余計な知恵が巡る者はいらんと言う事なのだろうが……お蔭で私だけでなく、叔父上まで駆り出されている始末。槍働きだけで褒められる者達がうらやましいな」
叔父上こと浅井政澄はそれを聞いて静かに首を横に振った。
「それは城持ちの家に生まれたからこそ言える事にございましょう。彼らからすれば、食うに困らぬ我らの生活こそ羨ましい限りかと」
「そういうものか……」
うんざりしながらも長政はため息を一つ付くと、再び政務に取り掛かったのだった。
◆――
――鳶が鷹を産んだ。
野良田の戦いで六角を打ち破った浅井長政の勇名は、瞬く間に近江中へと広がっていった。
先代、浅井久政からはうってかわり、武勇に優れ勇猛果敢。その上、桶狭間の展望を見通していた事さえも知れ渡り、齢十五にして知勇兼備の名将であると褒めたたえられたのだ。
そのうちに誰が言ったのか、『北近江の鳶から鷹が生まれた』『浅井備前は湖北の鷹なり』と、長政を鷹と称して褒めそやす言葉も聞くようになる。
余りの事に長政自身も困惑したが、これが戦国時代というもの。力が全てと言わんばかりに強い者は評価され、弱い者は踏みにじられる。
領主としては有能でさえあった父の存在を忘れたかのように自身を褒めたたえる者達の姿に、戦国時代の一片を垣間見た気がした。
また、野良田の影響を受けたのは何も浅井家だけではない。
宿敵であった六角家では野良田の戦い敗北の責任を取って、当主の六角義賢が隠居を表明したという。
更にはよほど野良田の敗北が堪えたのか、出家までして名を六角承禎と改めたらしい。
いくら長政の名が近江で称えられたとは言えたかが十五の小僧に負けた事は汚名であり、何かしらの形で責任を取る必要があったのだろう。
この結果、六角家当主の座は嫡男、六角義弼に譲られる事となった。
「あのバカ息子、六角義弼もついに六角家当主でございますか。殿が浅井家の当主となられた事と言い、感慨深い限りですな」
六角家の内情を探っていた遠藤直経が、皮肉なのか本心なのかそう言った。
義弼は長政と同い年で、六角家の人質だった頃に何かと嫌味を言ったり嫌がらせをしてきた男だ。
因縁の相手であるが幼少を共に過ごした相手でもあり、そんな二人がそれぞれの家の当主になったと思うと確かに感慨深いものがある。……当時のことを許したわけではないが。
「とは言え我らも、手放しに喜ぶ訳には参らぬぞ」
赤尾清綱は月に数度ある評定の場で、そう言って家臣達の気を引き締めさせた。
清綱の言う通り、手放しに喜べる状態でもなかった。
領土が拡大したとはいえ、未だ浅井は石高せいぜい二十五万石程度の戦国大名でしかないからだ。
宿敵の六角は、南近江だけでなく北伊勢や伊賀、畿内にも強い影響力を持っており、有する領地は実質百万石近い。
未だ浅井の四倍だ。野良田での三倍を超える兵など、六角家にすれば全力ですらないのである。
また近隣の美濃や尾張でさえ、それぞれ五十万石程の領地である事を考えれば、浅井はこの近畿においては小勢側の勢力でしかない。
周りを闇雲に敵に回せば、瞬く間に滅亡することになるだろう。
そして宿敵の六角家は、それができるだけの人脈がある。
由緒正しい名家を相手にするとはそう言う事なのだ。
「この辺りで今一度、我らの置かれている立場と言うものを確認致そう」
そう言って浅井政澄は、評定の場の真ん中に、この辺りの地図をでかでかと広げた。
現代に比べれば子供の落書きのような地図だが、この時代では辺りの位置関係を記した貴重な資料である。
「まずは我ら北近江を治める浅井家。総石高は二十五万、国こそ小さいが淡海に連なるお蔭でそこからの税収も多く、他国には劣らぬ力を持っております」
白い碁石を淡海の北東、浅井家の本城である小谷城の辺りに置きながら恥ずかしげもなくそう言い切る政澄。
とは言え確かに、浅井家が元京極家に仕える者達の中で頭ひとつ抜き出ることができたのは、祖父の働きもあれど何より淡海の水運利権を握っていたためだろう。
お蔭で北近江にひしめく国衆の中では最も金を持っている家だ。
「次に我らの宿敵であり、南近江を治める六角家。総石高は百万石。我らと同じように淡海の水運を牛耳ることで多額の金を有しております。また血縁は多く、斎藤や朝倉、若狭の武田とも血縁だとか。下手すれば彼らが皆、敵に回ることもあり得まする」
続けて、小谷城から南西、淡海の南辺りに黒石を置く。そこが六角家の本城、観音寺城だ。
石高とはその領地で取れる食糧や金を米に換算した際の数値であり、土地の広さではなく豊かさを示した物だ。
南近江は面積こそ北近江と大して変わらないながらも、広大な穀倉地帯を抱えているため非常に豊か。
近江国と呼ばれる地域の石高、その半分以上を占めている。
六角の覇道を支える重要な基盤と言えるだろう。
「続いて東近江。名のある大名こそおりませんが、その分国衆は強く、我らと六角のどちらに着くかを秤にかけておりまする。こう言うところは血の繋がりも強く、一家を敵に回せば全てが敵に回ると思って相違ない。くれぐれも扱いには注意されたし」
小谷城から南に広がる東近江の地。そこには白と黒の碁石をいくつか並べて、政澄はそう言った。
古くは京極家と六角家の対立以前から。近年ならば浅井と六角の間で。
東近江は常に抗争の中心にあり、大きな戦も何度も起きた。
そのためこの東近江に住まう者たちは屈強で横の繋がりが強く、時勢に聡い。
浅井が少しでも隙を見せれば、すぐにそこに付け入って六角を引き入れる事だろう。
しかし味方にすることができれば、これほど心強い味方が居ないのも事実である。
「そして西近江。ここには高島七頭と呼ばれる国衆が、六角家に従っておる。特に朽木家は将軍家との繋がりも強く、国こそ小さいが下手に手を出せばどこを敵に回すかわからぬ。ご油断なされるな」
最後に小谷城からずっと西、淡海を越えた先の山々に黒の碁石を置いた政澄は、慎重に事を運ぶようにと念押しした。
ここに居を構えるのは高島七頭を始めとした西近江衆。
名目上は六角家に従ってこそいるが、実情は独自性の強い国衆の集まりで、六角家ですらその全容を把握しきれていない勢力だ。
その原因は二つ。
一つは西近江という土地が山ばかりで情報の把握が難しく、土地そのものにも旨味が少ないこと。
もう一つは彼らを統括する高島七頭が将軍家の覚えもめでたく、無闇に手出しを出来ないことだ。
守り易く攻め難い山城の恩恵を特に受けている西近江は、攻める旨味が少なくそのくせ危険はいくらでも湧いてくる。
結果、長い間権力者たちに放置され、現在では陸の孤島と化しているのである。
「以上が我らの今いる近江の現状だ。目下の敵は六角であるが、東と西の動向にも気を配るように」
政澄が最後にそうまとめると、耳を傾けていた者たちが『応!』と応えた。
「とは言え敵は近江の者達ばかりではない。東には美濃の斎藤に尾張の織田、京には六角と将軍家の敵の三好、北は同盟相手とは言え越前の朝倉と大名達がひしめいておる。どこからくちばしを挟まれるかわからん、くれぐれも気を抜くな」
そうして赤尾清綱が締めくくったところで、今回の評定は終わりを告げたのだった。
22/03/16 一部記載変更、本編に影響無し