058_永禄六年(1563年) 新たな朝
◆注意◆
部の始まりはプロローグ的扱いで字数が少ないため、2ページ連続投稿となっております。
ご注意下さい。
南近江の守護、六角家。その六角家の権勢が揺らぐ事となる大事件、観音寺騒動。
六角家と南近江の国衆とを二分したこの騒動は、本来の歴史とは異なる終わり方で決着がついた。
一番の理由は北近江を治める浅井家が、史実とは異なる動きをみせたためだろう。
この違いがこれからの未来にどう作用するのか、今に生きる物達には全くわからない。
そしてそれは未来の知識を持ち、これまでの展開を全て知っていた浅井長政とて同じ話であった。
◆――
激動の観音寺騒動から早ひと月。観音寺騒動の戦後処理も粗方終わり、これから長い長い沈黙の冬を迎えようとする北近江。
「新九郎様、姫様。朝にございます」
そんな女の声が小谷山のふもとにある浅井屋敷で聞こえた。
「んん……無理だ……寒くて布団から出られん……」
近頃新たに生み出された、布団と呼ばれる寝具にくるまったまま、寝ぼけた声をあげるのはこの北近江を治める浅井家の当主、浅井長政。
この布団は彼が持つ未来の知識によって、比叡山から買い取った綿花を使って職人たちに作らせたもの。
本来はこの時代に存在しない、未来の道具の一つである。
そしてその効力たるや、毎朝こうして長政がごねる事からも明白。
布団の持つ魔力は、時代が異なれど変わることは無いのだった。
「……でられません……」
「姫様、はしたないですよ。殿方が目覚める前には支度を整えておきませんと」
長政の隣で同じように布団にくるまったまま、穏やかに寝息を立てるのは、先月改めて長政と婚姻し直した六角家の姫、小夜。
小柄な彼女は長政の腕に抱かれるようにしてすっぽりと収まり、温もりの中でまどろんでいた。
一方、そんな小夜と長政の二人を咎めるのは、小夜の侍女でもあり甲賀の忍びでもある八重。
布団の魔力に取り憑かれて近頃ではすっかり怠惰的な朝を迎えるようになった二人を、毎朝のように起こす係だ。
「本日は臣下の方々と鷹狩りの日でございます。お早く支度致しませんと、皆様をお待たせする事になります」
「今日の鷹狩りは無しだ……こんな寒い日に外に出られるか……兎もきっと、寝ておるだろうよ」
言いながら腕の中の小夜を少しきつく抱き寄せると、僅かにこもった声を漏らして彼女も長政に頭を寄せた。
独り身だった頃は朝の寒さに震えたものだが、今はその寒さが心地よい。
しかし、長政のそんな幸せな時間は長くは続かない。
「失礼致します」
その言葉と共にずかずかと部屋の中へ入ってきた八重は、次の瞬間に二人を包む布団を剥ぎ取った。
「さっっっむうううううういいいいいいい!!!!」
「や、八重! お布団を返して……!」
白い小袖を一枚羽織っただけの二人は、小谷の冬の寒さに耐えきれずに声をあげる。
しかしそんな二人の姿を冷たい目で見下ろす八重は、「お食事が出来ております。身支度を済ませて下さい」と淡々と言い放つと、そのまま布団を抱えて部屋を後にした。
「や、八重め、毎朝毎朝……覚えておけ……!」
「兄様、寒うございます……」
「小夜……耐えるのだ……すぐに上着を羽織ろう……」
そうして朝の寒さに震えながら、もたもたと朝の支度を始めるのが近頃の浅井家……と言うより長政達の日常になりつつあった。
◆――
山盛りの玄米に粟や稗を混ぜ込んだ雑穀。芋や野菜が入った味噌汁。淡海でよく採れる魚を干物にして焼いたものと、納豆や海藻と言った付け合わせが一品。
これがこの時代における朝食の姿だ。
それらが並ぶ食膳の前に、支度を終えた長政が腰を下ろす。
隣には当然のように小夜の姿。
現代の朝食から見てみると米に比重を置き過ぎている気もするが、これでもこの時代の朝食にしては豪勢な方だ。
下級の武士ともなるとおかずはなく、米と塩を溶かした汁だけ、なんて事もあるらしい。
「新八達はもう出たのか?」
長政が問うと、八重が淡々と答える。
「新八郎様、新七郎様も、大殿様や奥方様も、食事を終えております」
どうやら食事を終えていないのは長政達だけらしかった。
「ずいぶん早いな……」
「わたくし達が遅いだけですよ、兄様」
「なるほど、これは一本取られた」
はっはっはっとわざとらしい笑い方をしながら長政も箸を取る。
長政達が食事を終えないと八重達が食事できないため、少し急ぎめだ。
「頂きます」
そうして箸を取った長政が真っ先に手をつけるのは、山盛りの雑穀。
この時代の者達はおかずが少なく、間食もせず、更には食事の回数も朝と昼の二回だけのため、一度に食べる米の量がとにかく多い。
現代ならば大食いと呼ばれるような量の米を、この頃の者達は一度に食べていた。
それでも太らないのはやはり、根本的な運動量の違いだろう。
「この味噌汁、美味いな。八重が作ったのか?」
味噌汁を啜りながら舌鼓を打つ長政が問えば、少し離れたところで釜の番をする八重が「はい。お口に合いませんでしたか?」と問い返してくる。
「いや、美味い。料理も出来たんだな」
「他人の作った物は信用できないような育ちですから」
「……苦労してるんだな、八重も」
そんな事を言いながら、次は魚の干物に箸を伸ばす。
こちらも脂が乗っていて香ばしく食欲をそそり、食べれば食べるほど米が欲しくなってくる。
「この醤油という食べ物、本当に美味ですね。何にでも合います」
一方で小夜はと言えば、長政が生み出し、近頃弟の政元が量産し始めた醤油を納豆にかけて食べているところだった。
本来この時代には存在しないはずのこの醤油も、長政によって生み出された未来の道具の一つ。
そしてこの醤油、ある意味当然だが豆腐に納豆に魚に味噌汁にと、何にかけても美味いことで浅井家では好評になりつつあった。
まだまだ量産の目処がついていないため、ごく一部の商人に試しに買わせる程度の扱いで本格的な製造には至っていない。
しかし、それでも醤油を欲しがるものが増え始めており、最近では値段が釣り上がり始めて近江で採れる高級食材の一つになりつつあった。
「これで卵があれば美味いんだがなぁ」
「卵……鳥の子を食べるのですか?」
「美味いんだぞ、醤油をかけると」
「それは……」
まるでゲテモノを見るような目で小夜は長政を見ているが無理もない。この時代には生卵は当然として、卵料理を食す文化がないのだから。
現代ですら日本人以外は生卵食を忌避すると言うのだから、この時代の者達に理解されないのは当たり前だろう。
「美味いんだがなぁ……」
ばやきながらそうして食事を続けていると、ドタドタと騒がしい足音が響き始めた。
「殿は支度を終えておられるか!」
喧しい声でがなり立てるのは、長政の護衛役である遠藤直経。既に遠出用の支度を終えているらしい彼は、外行きの姿で長政を見つけるとすぐに続けた。
「既にみな、鷹狩りの支度を終えております! 後は殿が来られるのを待つばかり、急がれよ!」
「何、随分早いな」
「殿が遅いのでござる! ではお先に御免!」
騒がしい遠藤直経が立ち去り、再び穏やかな朝が戻ってくる。
しかし、ゆっくり食事する時間はなさそうだ。
魚を骨ごと齧り取り、味噌汁を米にかけて胃の中に流し込むと、長政はすぐさま立ち上がる。
「すまん八重、後始末頼む。小夜、行ってくる」
「はい。どうかお気をつけて」
「新九郎様、要り物はこちらに」
「さすが八重だ、助かる。では行ってくる!」
北近江の戦国大名、浅井長政の慌ただしい一日がまたこうして始まりを告げた。