057_永禄六年(1563年) 観音寺騒動
和田山城に比べれば六角家にとって地理的価値が低い土地、それが西近江だ。
高島七頭と呼ばれる七家が治めるこの土地は、彼らが六角家に臣従している事もあって六角寄りの立場を取っている国衆が多い事が特徴だ。
しかしその実態はと言えば、六角家の本拠、観音寺城から地理的に距離があるため目も届きにくく、六角家と言えども支配しきれていないのが現状だ。
現にこの高島七頭のうち、永田家、平井家、山崎家は今回の騒動に際して既に六角家に反意を示しており、残る四家のうち六角家についたのは田中家のみ。
残る高島家、朽木家、横山家は日和見しているが、そのいずれも六角家を積極的に支持する様子はない。
そんな有様であるため、この西近江の勢力は六角家にとって扱いにくい存在と言うのが正直なところだった。
その西近江のある今津城を割譲せよ、と宮部継潤は言う。
今津城は南近江から若狭へ至る道のある交通の要衝であり、前述の高島七頭が収める地へ浅井領から至るまでの途中にある城だ。
痛手である事には変わりないが、和田山城や叡山との対立と比較すれば余りに安い交換条件だった。
しかしそれは長政も承知の上。だからこそ、ここから継潤の腕が試される。
「西近江は内乱で荒れる若狭への進出を目指しつつ、朝倉との連携も強固に行える地でありますれば、我らの若狭への展望を望めましょう」
継潤の言い分に、直経も思わず頷く。
このまま和田山城を割譲して六角家との講和が成立した場合、浅井家は東西南北全ての方向に勢力を伸ばす事が出来なくなってしまう。
美濃へ進出する事もできるが、今の長政に美濃を獲る気が無い事は直経もわかっている。
となれば最早これ以上の勢力拡大が望めなくなり、何かが起こるのをただ待つだけになってしまうのだ。
史実の浅井家はそれを望んでいた節もあるため観音寺騒動での講和の後から軍事行動が減り、精々美濃に進出する程度になる。
結局、後に信長の上洛軍によって六角家が滅ぶまで長政の西近江侵攻も先延ばしにされる事となるのだった。
その点、今回西近江への進出が認められればそのまま日本海側へ勢力を拡大するための大義名分を得る事が出来、どれだけ勢力を広げられるかは長政の力量次第となる。
目先の利益は少ないが、後々を考えると大きな利をもたらす事ができる妙案だ。
長政もそこまで考えが至ったのか、いつものように顎に手を当てて、考え込むような仕草を取り始める。こうなればこちらの物、とばかりに継潤はさらに続ける。
「こたびの騒動でわかった通り、西近江を治める高島七頭の半分は六角家に対して不信感を抱いております。上手くすれば、我らが抱き込む事も可能。それも一戦すらせずにとなればどれだけ我らに利をもたらすかはお判りでしょう?」
他ならぬ六角承禎の目の前でその言い分はどうなのかと思わなくもないが、今はなりふりを構っている場合ではないのだろう。
怒涛とばかりに西近江割譲の利を長政に説き、一気に押し切ろうとしているようだった。
直経が承禎の方へちらりと視線を向けると、一瞬だが視線が交わる。どうやら承禎も内心ではこれで話をまとめたいらしい。
そうして幾ばくかの時が過ぎた頃。
「……相分かった。後は任せる」
言葉少なくそう言い残して、長政は席を立ったのだった。
直経が後を追おうとするも、「お主は残れ」とだけ言い残し、早々に立ち去ってしまう。
先ほどまでの強硬な姿勢とは打って変わってやけに大人しい幕引きだったが、強硬だったからこそ居づらくなったのかもしれない。
そのまま静かに部屋を退席した長政を見送った継潤は、ふうと一息つくと言葉を紡ぐ。
「失礼致しました。殿もご納得いただけたようなので、愛知川までの割譲と今津城の割譲。この二つで手打ちとして頂きたい。無論、愛知川以南へは今後兵を出さない事と致しまする」
「……相分かった」
愛知川までの割譲で事を治めようとしていた承禎からすれば、今津城までの割譲を認めるのは計算違いなのだろうが、それでも和田山城を抑えられた現状で浅井の精鋭と事を構えるよりは幾分もマシ、と言う事なのだろう。
渋々と言った様子で承禎は承諾した。
そうして、継潤は自然に小夜姫の輿入れまで話を付けた。一度は離縁したものの、今回の講和の証として小夜姫を長政の側室に迎えたいという提案だ。
元は正室だったため格は落ちてしまうが、未だ独り身の長政の、それも男児を身ごもれば六角としても都合がいいという事なのだろう。こちらは殆ど揉める事無くすんなり話が通った。
小夜姫と長政が離縁した当時、娘を送り返されて最も怒ったであろう平井定武がこれに何も物申さなかったのは、もしかしたら部屋にこもりきりになっていた小夜姫を不憫に思っていたからなのかもしれない。
戦国大名にとって娘は政略の道具だとよく言われるが、だからと言って使い捨てにできるような父親はそうは居ない。結局、いつの時代も父親は娘に甘いものなのだ。
愛知川までの割譲と西近江の割譲、そして小夜姫の輿入れ。
この三つが講和のための条件として最終的にまとめられ、ようやく最後の戦いも決着が付いた。
最後まで肝をつぶし続けていた直経もこれにようやく一息つき、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
そうして最後に、お互いに誓約書の写しを確認すると「それでは失礼致します」と宮部継潤は席を立った。当然直経もこれを追う。
平井定武らはまだ何か話があったようで、部屋を後にしたのは宮部継潤と遠藤直経の両名だけだった。
継潤の背中を追いながら、直経は口を開く。
「実に見事でござった。殿をあそこまで丸め込むとは。……しかし、殿はご納得いただけるだろうか」
直経が気がかりなのは他でもない、長政の事だ。
一度は納得したとは言え、もしこれで戻ったときに再び話を蒸し返すようであれば、何としても諫めなければならない。
しかし、意気込む直経に打って変わって継潤はと言えば、「そちらは大丈夫でしょう」と気楽な様子だ。
随分気楽なものだな。そう思った直経だったが、その理由はすぐに明らかとなる。
二人がそうして浅井の陣まで戻ってくると、いつもの様子の長政が藤堂虎高や野村直隆、田中吉政と共に二人を迎えた。
「首尾は?」
「万事予定通りにございます。愛知川までの割譲、今津城の割譲、そして小夜姫の輿入れで話をまとめて参りました」
「でかした」
――予定通り?
首を傾げる直経を他所に、継潤は懐に入れた先ほどの誓約書の写しを長政に手渡し、長政はそれを広げて目を通した後に満足げに頷いた。
一体どういう事だ? 直経の脳裏に疑問符が浮かぶ。
長政の無理難題によって六角との交渉がこじれかけ、この二人は仲たがいしたはずだ。それがまるでなかったかのように、今度は二人してほくそ笑んでいる。
それに理由があるとすればただ一つ、だろう。
「まさか……和田山城割譲の話は、初めから演技だったと?」
あの緊張の中での大博打、和田山城の割譲要求。あれが初めから、全て西近江を手に入れるための演技なのだとしたら――
そして、それを肯定するかのように長政はにやけたまま口を開いた。
「すまん、直経。お主はすぐに顔に出るからな。伝えずにいたほうが六角も騙しやすいと踏んだのだ」
それはもう、悪戯が成功した子供のように楽しそうに、一片たりとも悪びれた様子無く長政は直経にそう告げたのだ。
やられた。始めからこの二人は仲たがいなどしていなかったのだ。
「六角が愛知川までの割譲を言い出す事はわかっていたが、そこで手を引いては浅井は勢力を伸ばせなくなる。それ故、西への道を開く事にしたのよ。とは言え、そのまま提案しても通りはすまい。そこで和田山城の割譲を要求してこちらが一戦交える覚悟を見せたという事だ」
長政がそう答えれば、継潤が言葉を続ける。
「六角は愛知川までの割譲を提案してくる。殿の読み通りでした。そこまで出方がわかっていれば後はたやすい。話が行き詰ったところで私が西近江の割譲を提案すれば、六角もすがるように乗ってくると考えが至った次第」
嫌な笑みを浮かべながら、「直経殿に伝えなかったのは先の通りでございますが、そのお蔭で六角承禎めもすっかり騙されておりました」なんて事を継潤は言ってのけた。
思い返せば、六角承禎は時折こちらの様子を伺っていたような気もする。顔に出やすい直経が本気で焦っていた事で、これが演技ではないと信じ込ませるのに知らずのうちに一役買っていたのだろう。
「ぐ、ぬぬ……」
理にかなった策だが、そのだしに使われたのが複雑だ。
敵を騙すにはまず味方からとは言うが、少しくらい自分を信用してくれてもいいのではないかと思わなくもない。
とは言え、浅井家としては喜ぶべき成果だ。直経としては怒るに怒れないというのが正直なところだった。
「そうむくれるな直経。こたびの手柄、実に見事。加増を考えておこう。継潤もご苦労。約束通り、今津の城をくれてやる。とは言え、まずはその城を獲るのが先だがな」
「ありがたい。この継潤、次は武勇にて力をお見せ致しましょう」
そうして直経を置き去りに、とんとん拍子で話をまとめた長政はすぐに撤退の合図を出した。
「さぁ退くぞ、我らの仕事はこれで終わりよ! 陣を払ってとっとと帰る!」
すぐさまテキパキと陣を払った浅井軍は、来たとき同様に瞬く間に兵を退いて北近江へ帰還する。
和田山城に詰めた浅井政澄とその兵も後日、六角方に城を引き渡すと北近江へ引き上げた。
これにより観音寺騒動と呼ばれる騒動は決着を迎え、浅井が退いた翌日には六角親子も観音寺城への帰還を果たした。
またその二十日後には小夜が浅井家へ再び輿入れし、講和のための約定が果たされる事となったのだった。
この講和によって長政は、史実とは違って西近江に手を伸ばすための大義名分と、離縁した小夜姫の両方を手に入れる結果となった。
「さぁ、あんたを越える準備は整ったぞ、浅井長政」
蒼天を見上げ、長政は一人そう呟く。
一度は西近江までを手中にし、四十万石とも言われる領地を治めた史実の浅井長政。
しかしその最期は、裏切りと孤立の末の滅亡だった。
その未来を変えるための戦いを、ここからようやく始める事ができるのだ。
史実の浅井長政を越え、彼が果たす事のできなかった浅井家の生き残りをかけた戦いがいよいよ始まる。
その先に待つ道こそ、唯一残された生き残りのための道なのだと信じて。
◆第二部完◆
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◆補足◆
・今津城について
現在の滋賀県今津市周辺に今津城と言う城があったようですが、資料に乏しく実在したのかも怪しいです。
そんな物を何で採用してるんだと言えば、これを書いた時の作者がどこかで資料を見つけてそれを採用していたためです。
今後の話に関わってくるため変えるに変えられず、かといって確かな資料も見つけられない状態のため苦肉の策でそのまま採用しています。
後からこの事実に気付いた作者が頭を抱えたのは言うまでもありません。
◆おしらせ◆
申し訳ありませんが作者多忙のため、次回投稿を6/4とし、一週間ほど投稿期間を開けさせてください。
第二部途中から全く推敲が出来ておりません。
そのためこの一週間で最低限見れる程度には推敲を終わらせたいと思います……よろしくお願いします。