056_永禄六年(1563年) 窮鼠
これに義弼は顔を真っ赤にして震え、刀がこの場にあれば切りかかってきそうな形相で長政を睨みつけている。
そんな安い挑発に乗るのは義弼ただ一人。承禎に至っては気にした風もなく、「なるほど」と呟いた。
「確かに、子倅めの言う事にも一理ある。和田山城を割譲したところで、南近江の国衆は兵を挙げるのを渋るであろうな。和田山城を割譲したところで浅井が出張ってくるのが面倒な程度で、その浅井も和田山城を割譲さえしてしまえばそれ以上兵を進めないという訳か」
くつくつと、低い声で笑う承禎。自身にとって一方的に不利な条件を提示されているというのに、何が楽しいのか口元を吊り上げている。
そうしてひとしきり笑ったところで、鋭い眼差しを長政に向けた。
「しかし、欲をかきすぎたな。かような要求は一切呑めぬ。既に後藤高治を始めとした者らとは和睦済み、浅井が南近江に出兵できる大義はなかろうが。ならばさっさと北近江に帰るが良い」
承禎が言うように、既に長政の大義名分は後藤高治、平井定武が六角家と和睦した時点で失われている。
大義が無ければ兵の士気は上がらない。ましてや米が収穫されたばかりのこの時期、農兵らは一刻も早く村へ帰り農作業に従事したいというのが本音だろう。
そんな時にただ城を奪うための戦を起こしたところで誰もついてきはしない。だからこそ誰もが納得し、戦えるだけの大義が必要なのだ。
そしてそんな事は長政にもわかっていた。
「大義名分があれば良いのでしょう?」
続けて長政が懐から取り出したのは、一通の文。それは浅井の日野城攻めが始まる直前に宮部継潤が持って来た書状だった。
差し出された書状を、怪訝な顔で受け取った承禎は、その中身に目を通してすぐに顔色を変えた。
「これは……叡山の……!」
「左様。比叡山延暦寺天台座主、覚恕様……帝の弟君直筆の書状にござる」
天台座主覚恕。比叡山の頂点に君臨する叡山の叡山たる理由、この時代におけるあらゆる権力を握った権化たる存在。
その覚恕直筆の書状にはただ一文、「近江の安寧を願う」と、ただそれだけが記されていた。
しかし、それだけの一文が大きな意味を持ち合わせていた。
「この書状は騒動が起きた際にそこの宮部継潤が覚恕様から賜ったもの。即ち、叡山は“浅井に”“近江の安寧をもたらすよう”仰られた。叡山は近江の民の寄りどころでもある。ならばその言葉は即ち近江の民の代弁でもある」
随分な言い草だが、しかしそれが事実でもあった。
比叡山の膝下ということもあり、近江にはその教えを信じる者たちが多く居る。
彼らにとって、比叡山こそが神に近しい存在なのだ。
「民が安寧を願うこの近江で、あろう事か騒動を起こしてその安寧を脅かすような存在は我ら浅井が討伐せねばならぬ。それが我らの大義名分だ」
長政は一縷の迷いなくそう言い切った。
どうやってこの書状を用意したかなどは考えるべくもない。綿花と菜の花による莫大な利益が浅井の味方をしただけの事だ。
更にいうなれば、叡山――ないしは仏教徒は、六角承禎の父に当たる六角定頼の代から六角家と対立し続けている。
莫大な利益を自身にもたらす浅井が宿敵の六角と対立しているとなれば、叡山がどちらに付くかなど考えるまでもない。
近江は京に近く、豊かな土地で淡海による海運利権も絡む事から戦乱に巻き込まれやすい。その戦乱が常に混乱と飢餓を呼び続けて来た。
その渦中に晒される近江の民は人一倍救いを求めて宗教に傾倒しやすくなる。
そんな近江において叡山を信仰する者は余りに多く、宗教絡みの騒乱が次なる乱を呼び更に民が救いを求めるという悪循環に呑まれているのがこの近江と言う土地だ。
その近江で叡山を味方につける事がどれほどの力を持つかなど言うまでもなく、長政の持ち出した書状によって承禎は窮地に立たされた。
「では改めて申し上げよう承禎殿。和田山城までの割譲をお認め頂きたい。すべては近江の民の安寧のために」
長政の理不尽極まりない言い分は、仏教と言う圧倒的な力を伴って承禎の前に突き付けられた。
もしこの言い分を退ければ、浅井は叡山と共に六角を討つための兵を挙げる事だろう。
叡山と浅井の二方面との戦。
いやそれだけではない。浅井はあの斎藤軍一万をたった五百で退け、今また精鋭と名高い蒲生の鉄砲隊を同じ鉄砲隊で打ち払い、南近江の国人衆にその力の差をまざまざと見せつけた。
その浅井を敵に回せば、真っ向から戦って勝てる見込みはあまりに少なく、ましてや今は国衆の心も六角家から離れているため承禎が呼び掛けたところで一体どれだけの兵が集まるのか定かでない。
もしかすると、既に浅井側へ寝返っている者さえいるかもしれないというのに。
更に現状、六角家最後の防衛線とも言うべき愛知川は既に浅井軍に越えられ、和田山城も浅井の別動隊に抑えられている。
となればこれから戦うにしても観音寺城が決戦の場となるため瞬く間に包囲される事は必定で、戦いようが全く無いのだ。
和田山城の割譲を退けて今死ぬか、和田山城の割譲を認めて緩やかに死ぬか。六角にとってこの交渉はどちらに転んでも破滅が待つ地獄の二択だ。もはや交渉にすらなっていない。
そんな状況で即答できるわけも無く、この日初めて承禎の表情が厳しいものに変わった。
一方、この両者の様子を緊張した面持ちで伺っていたのは長政の護衛を務める遠藤直経だ。
長政の滅茶苦茶な言い分に肝を冷やしたのは言うまでもない。
これによっていつ相手が暴発しないとも限らず、特に承禎から少し離れた場所に座る三雲定持など、沈黙が不気味な事この上ない。
六角にとってどちらを選んでも破滅が待つこの二択、いつ相手が窮鼠となって長政の首を獲り、この話をご破算にしようとするかもわからない。
その時は六角家と浅井家の血で血を洗う凄惨な戦いが幕開ける事だろうが、破滅しか残されてない二択よりはマシだろう。
自然と直経の肩に力が入る。この砦に入る際に武器は全て預けているが、相手も同じとは限らない。
もしかすると、相手はどこかに武器を隠し持っていて、その瞬間を狙っているのかもしれない。
その時は、自身が身代わりとなって長政を――
そんな緊張を破ったのは、宮部継潤の穏やかな声音だった。
「殿、この辺りになされては如何ですか。流石に和田山城の割譲は無理難題と言う物。六角様とて、かような申し出は呑めますまい」
「ならば一戦交えるだけの事。お主は控えていろ継潤」
「いいえ控えません。このままではまとまる話もまとまりません。かような難題を吹っ掛けるのは如何なものかと存じます」
突然、継潤と長政の口論が始まった。
どうやら両者の間で意見の食い違いが生まれているようで、宮部継潤が長政を諫めるようにして言葉を紡いでいる。
直経は子細を聞かされていないが、それでも長政の法外な要求は土壇場で付け加えられた要求である事がわかるほど滅茶苦茶だ。
もしそれを予め聞かされていたならば、直経は当然として継潤ですら止めたはずだ。
恐らくこの法外な要求は、長政の焦りに起因しているのだろうと直経は悟った。
長政はここで何が何でも六角の勢力を削ぎ落し、近江における浅井家の立場を確立したいのだ。
一刻も早く北近江の豪族上がりと言う立場から、本当の意味の戦国大名へ脱却し、そして六角から小夜姫を取り戻したいに違い無い。
しかし、そうだとしても長政の言い分は法外と言うより他ない。普段の歳不相応に落ち着き払った長政をよく知る直経からすれば、焦りに満ちた今の長政は余りにも滑稽で見ていられない。
「火薬も鉄砲もまだいくらでもある。一戦交えるというのであれば相手をしてやれば良い。我が鷹の兵と六角の兵、どちらが強いか確かめようではないか」
長政は大きな事を言っているが、直経は知っている。火薬も鉄砲もこの戦いに持ち込んだ分が現状持ち出せる精一杯の数で、これ以上の蓄えなど存在しない事を。
これ以上の余力などありはしない。にもかかわらずここまで吹っ掛けるのは、相手を勝負から降ろさせて和田山城を割譲させようと言う狙いなのだろう。
これは余りにも危険な賭けだ。もしこれで南近江の国人衆の反感を買い、六角家が大規模な反撃を行おうものなら浅井は逆王手をかけられることになる。
浅井家に味方する国衆としても、今回の戦は実入りが良いとは言い難く、早々に話をまとめて引き上げたいと言うのが正直なところで、戦いが長引けば不満が貯まる事は目に見えている。
そんな中でもし戦いに負けでもしようものなら、北近江の国人衆は浅井家を見限って瞬く間に六角の味方をするかもしれない。
現状がどれほど危険なのかは、誰の目にも明らかだった。
どうか殿を諫めてくれ。直経はすがるような思いで宮部継潤に視線を送った。
「我ら浅井の大義は近江に平穏をもたらす事。なればこそ、ここで不要な戦を起こせばその大義をも失う事になりましょう。お聞き訳下され」
「断る」
頑として譲る様子のない長政の態度に、誰もが落胆する。恐らくこのまま、開戦へと至るのだろうと。
長政の内政改革によって、飢えから徐々に脱却しつつある北近江。その北近江を再び戦火で焼かないためにも何とか戦だけは回避したかったのだが――
その時。宮部継潤が最後の手段だとばかりに言葉を発した。
「――ならば、割譲する土地を和田山城以外にされては如何でしょうか」
宮部継潤の言葉に、誰もが疑問符を浮かべた。
和田山城に匹敵する価値を持ちながら、長政も承禎も納得するような土地。そんな都合のいい場所が存在しただろうか、と。
そんな彼らの疑問に答えを出すように、継潤は言葉を続けた。
「西近江、今津城。和田山城と引き換えにこの地の割譲をお認め頂きたい」
宮部継潤の言葉に、誰もが三度驚愕した。