053_永禄六年(1563年) 南近江の覇者
銃声にかき消されて竹笛の音が聞き取りづらかったのか、流石に一斉停止とはいかなかったものの、長政の指示によって銃撃はしばらくして鳴りやんだ。
誰もが永遠に感じた浅井の一斉射撃が行われたのは、時間にして僅か四半刻にも満たない。
現代時間で言うならば十五分ほどだろうか。
その四半刻足らずの銃撃だけで、辺りには燃え尽きた火薬のむせかえるような匂いと濃霧のような分厚い硝煙が立ち込めていた。
銃撃を止めてしばらく経っても日野城の様子は硝煙に阻まれて伺えない。
先ほどまでの耳をつんざく爆音からは想像できないほどの静寂が、辺りを静かに覆っていた。
――まるで、誰かが音を立てれば再びあの轟音が鳴り響くかのような緊張感を伴って。
やがて沈黙に沈む戦場に一陣の風が駆け抜け、分厚い硝煙の霧を払っていく。
そうしてようやく浅井軍の眼前に、日野城が姿を現した。
「これは……」
思わず、と言った様子で声を漏らした宮部継潤や声を失った様子の田中吉政らの眼前に現れたのは、まさに地獄とも言うべき凄惨な光景だった。
無数の鉛弾を受け続けた城壁はぼろぼろに崩れ落ち、かつての美しい白壁は見るも無残な土くれとなっている。
砕けた壁の向こうでは銃撃を避けようとしたのだろう蒲生兵が、それでも無数の弾を受けて粉々に砕けた鎧をその身にひっかけたまま息絶えている。
反撃しようとしたらしい蒲生兵は鉄砲を抱えたまま塀の外へ転がり落ちて絶命し、城壁に引っかかるようにうつぶせに斃れている者さえ見受けられる。
唯一、攻撃の対象から外していた城門だけが傷も少なく残っていて、その左右に伸びる、ずたずたの城壁との対比でやけに異質に映る。
余りにもむご過ぎる光景だったが、この瞬間こそ、圧倒的火力による制圧、鉄砲戦術が戦国に生まれ落ちた時なのだろう。
この場の者達は、新たな時代の幕開けを目撃したのだ。
「吉政、平井殿と馬淵殿の陣へ遣いを頼まれてくれるか。これから三の丸を落とす故、先鋒をお任せしたいと」
「は、はい!」
長政の指示で、吉政はすぐに駆けだした。
その吉政の背中を見送ったところで、継潤が口を開いた。
「良いのですか、先鋒を譲って。一番槍は武士の誉れ、それも城門破りの一番槍となれば……」
「ああ。城門を破るための備えはしていなかったからな、任すしかあるまい。それに想定より戦果を挙げすぎた。このままでは日野城攻めの功がまるまる浅井の手柄になってしまう」
「何か問題が?」
不思議そうに首を傾げる継潤に、長政は続ける。
「こういう寄せ集めの連合軍が瓦解する一番の原因を知っているか?」
「さぁ……」
「答えは手柄の奪い合いよ。他の者に手柄を総取りさせないために、痛み分けに終わらせようとする者が必ず現れる。そうなれば足並みが乱れて瓦解する。古来から変わらぬ流れよ」
「なるほど。だからこそ手柄を挙げすぎず、ほどほどに抑えたいと」
「左様」
蒼鷹隊が直接城門を突破する場合に比べて時間はかかってしまうが、浅井は手柄を独占するつもりがないという姿勢を見せておく必要がある。
そうでもしなければ突然味方が進軍を止めて敵中で孤立――なんてことが起こるのが連合軍の怖いところだ。
他者と協力する際に大切なのはこちらが相手を気遣っている姿勢を示す事だ。
人と人が関わる以上、そこにはどんな形であれ社会が生まれ、社会が生まれれば固有の秩序が生まれ、その秩序を乱す者は集団からつまはじきにされてしまう。
何故自分は孤立するのか、周りに認められないのかと悩む者ほど、この当たり前を本当の意味では理解できていない。
武家の秩序を乱しに乱した信長が、ありとあらゆる人間に裏切られ続けたのはそういう背景もあるのだろう。
人間は常に利と情、そして義を天秤にかけながら生きている。
それ故、社会で生きる以上は必ずしも最短や最善が最良の手とは限らない事を理解しなくてはならないのだ。
ここを間違えば、最短を選びすぎて志半ばで斃れた織田信長や、最善のために周りをないがしろにし続けて、最悪の結果を招いた石田三成のようになってしまう。
社会で生きる上で最も重要なのは、自分がどう考えているかではなく周りからどう見られているのかなのである。
周りからどう思われようと構わないというのであれば、周りからどんな評価を受けようと受け入れるだけの度胸か、それをはねのけるだけの力を持たねばならない。
あいにくと長政は、そこまでして我を通そうとは思っていないのだった。
それから少しして、長政の報告を受け取った平井隊、馬淵隊の両者は了解の意を示すと、まずは平井隊、続けて馬淵隊が城門突破のために進軍を始めた。
そうして半刻の後、城門を破った長政らは三の丸へと軍を進めた。
城内では多少の反撃もあったものの、門を破られては対抗ができないと悟ったのか、散発的な戦闘が起こった程度で敵は退いていく。
その後、東と北を攻める味方の誘因にも成功し、各部隊は二の丸城門前まで軍を進める事に成功。無事、二の丸の包囲に漕ぎ着けた。
蒲生側から講和の使者がやってきたのは、その日の夜の事だった。
◆――
講和とは、干戈を交えた両者が共倒れになる前に、ある程度のところで手打ちとする不戦条約の事だ。いってみれば、「この辺りで引き分けにしませんか」提案である。
敗北を認めて武装解除する降伏や、戦をやめて手を組む和平と違って、講和はあくまでも泥沼化し始めた戦を一旦「引き分け」の形で終結させるだけ。
そのためどちらかが一方的に有利な状況では成立せず、両者がほどほどに痛手を負った状況でこそ力を発揮するため、今の状況での講和提案は最も効果的だと言えた。
このまま戦い続ければ三の丸同様に二の丸、本丸を陥落させられる恐れがある守り手側と、このまま戦いが長期化すれば補給面の都合上、形勢が不利になる攻め手側の利害が一致した形だ。
それに浅井の者しか知らない事だが、先刻の一斉放火で今ある火薬はほとんど使い切ってしまった。
アレをもう一度やってみろと言われてもすぐには出来ないため、二の丸攻略は膨大な時間がかかる事が容易に想像できる。
しかし火薬が尽きてしまった事を守り手側に悟られれば、講和条件を決める際に足元を見られる事に繋がる。
そのためあくまで「こちらは一連の騒動の早期決着を望んでいるだけだ」と言う姿勢を崩す事なく、講和に臨む事が重要だ。
講和に当たって、条件決めの話し合いが行われる事になったのは日野城二の丸砦。
まずは城門内に攻め手側の代表が僅かな護衛を伴って入城した。
代表を務める事になったのは浅井長政、後藤高治、平井定武、宮部継潤、そして遠藤直経の五名だ。
父と兄を討たれた当事者の後藤高治、攻め手側の取りまとめの平井定武は当然として。
今回の騒動にあくまでも助力という形で介入しただけの浅井家が代表として選ばれたのは、ひとえに城攻めで戦果を挙げたからに他ならない。
また敵方の六角からしても家臣団との和議とは別に、和田山城を既に抑えている浅井とも別で講和を挟む必要があるため、ここでまとめて話を付ける腹積もりなのだろう。
その浅井家の交渉役として、元叡山の僧であり比較的中立な立場に近い継潤が。
そしてあくまでここは敵地であり、後藤高治や平井定武も元は六角方である事を考慮して、護衛の遠藤直経が参加した形となる。
一方の守り手側も罠ではない事を示すためなのか、兵の殆どを本丸内へ退かせている。
そのため二の丸には、攻め手側同様に僅かな護衛と共に代表となる六角承禎、六角義弼親子が入る。
更には城主である蒲生賢秀、その父であり六角家重鎮中の重鎮である蒲生定秀、そして六角方についた数少ない国衆の一人、護衛役の三雲定持の姿があった。
この三雲定持と言う男は、甲賀忍者と呼ばれる者達の中でも特に力を持つ甲賀五十三家の一つ、三雲家の当主であり、先々代の六角家当主、六角定頼の代から六角家に仕える老将である。
二の丸の中に入り、彼らと対面した際に直経がさりげなく、長政と三雲定持の間に位置する場所へ居場所を変えたのが彼の実力を物語っているだろう。
そんな緊迫の中、長政は板張りの間に足を踏み入れるとその上座に座る男へ軽く会釈した。
「浅井の子倅が、随分とでかくなったものよな」
「私を子倅と呼ぶのも、今ではあなただけになりました。ご無沙汰しております、義賢殿。……今は承禎殿、でしたか」
出家し、頭を丸めたにも関わらず、仏に仕える者のそれとは到底思えないほどにギラついた眼光。
獣のような笑みを口元に浮かべ、長政を小倅と呼んでみせたその男こそ、名門六角家を未だ牛耳る男、六角承禎その人である。
現代では無名武将の一人に数えられ、その存在を知る者にも「織田に一日で滅ぼされた弱小大名」だの「名門六角を滅ぼした男」だのと不名誉な呼ばれ方をしている六角承禎。
しかしこの時代に共に生きている長政からすれば、それらの言葉がいかに無責任なものかがよくわかる。
長政は人質として過ごした十数年の間、間近で六角承禎と言う男を見て育ってきた。
それこそ、実の父である浅井久政よりも六角承禎の方がよほど長く。
だからこそわかるのだ。この時代に生き、家の当主を務め上げられるだけの器を持つ男に、無能と言う評価がいかに似合わないかが。
この先の未来がわからない、この時代の当事者たる彼らは、例え結末が悲惨だったとしてもその時選びうる最善をその時々で選び続けてきたのだ。
だからこそ、その対面に臨む長政に緊張が走る。一手間違えれば史実通りどころか、最悪の結末を迎えるのが長政の方になるかもしれないのだから。
上座に六角承禎、その子の義弼。その向かいに平井定武、後藤高治が腰を下ろし、長政、直経、継潤と続く。
「それでは、講和に当たっての評定を始めまする」
両者の間を取り持つのは蒲生賢秀。
浅井に散々に打ち負かされたにも関わらず、恨み言一つなく粛々とこの場を取り仕切る辺り流石と言った様子。
そして彼の言葉で評定の間に緊張が走る。
干戈を交え、血を流すだけが戦の形ではない。
これから行われるのは、槍や刀の代わりに論理と道理で武装し、言葉と言葉を交える論戦だ。
負ければ領地が削られ、国衆からの信頼を失うことになり、これから先の領地経営に暗雲が立ち込める事だろう。
武力だけが全てではない。武力と知力、双方優れていて初めて戦国大名として独り立ちする事ができるのだ。
今の長政に、老練たる六角承禎に抗するだけの知識はない。
だからこそ、この男がここに居る。
「宮部継潤と申します。本日は浅井家の交渉役を務めさせていただきます」
権力の温床たる叡山と幾度も言葉を交わし、こちらの要求を呑ませてきたその手腕は伊達ではない。
事ここに至り、観音寺騒動と呼ばれる一連の騒動の最後の戦い、全てを決める決戦の火蓋が今まさに切り落とされようとしていた。