005_永禄三年(1560年) 親子
「フン、随分と久しい顔だな」
「名を、長政と改めました。父上もお変わりないようで何よりです」
激動の野良田から早数日。
生傷も癒えぬうちに長政は、淡海の北に浮かぶ孤島、竹生島へと足を運んでいた。
理由はもちろん、家臣達に小谷を追われてこの竹生島に幽閉された父、浅井久政に会うためだ。
久方ぶりに会った久政はいささかやつれた様子ではあったが、それ以外は昔と変わりがないようだった。
とはいえ久政が追放されたのは今から数か月ほど前の話のため、変わりないのも当然の話ではあるのだが。
「変わりないだと? 倅に家督を奪われ、家臣に小島へ押し込まれる事を変わりないというのであれば、確かにそうなのであろうな」
どかっと長政の前、上座に腰を下ろして忌々しそうに視線を向ける久政。しかしそれに長政は臆する事なく、白湯を口にした。
「その皮肉屋なところ、やはりお変わりないようですね」
長政がしゃあしゃあと言葉を返せば、久政は一層、忌々しそうに表情を歪めた。
「嫡子の政弘亡き後、明政めを担ぎ上げようとする者どもを、六角と手を結んで黙らせたまでは良かったものを……」
これは事ある毎に久政が言う、過去の話だ。どうやら久政が当主の座に就く際にも色々あったらしい。長政の知った事ではないが。
「心中お察し致します」
「ワシを追い落とした張本人が何をいけしゃあしゃあと」
「……お言葉ですが、私も迷惑しているのですよ」
長政がそう告げると、何を言っているんだとばかりに久政は片眉を上げた。
「家督を奪ったと申されますが、実のところ、家臣達に脅されて当主にさせられたと言うのが正しい。逃げ場のない山の上、小谷城に突然呼ばれて、出向いてみれば鎧兜を着込んだ家臣達に当主の座を継いでくれ、さもなくば私を道連れに謀反人として腹を切る。そう言われて父上なら断れますか?」
フン、と鼻を鳴らして白湯をすする久政をよそに、長政は続ける。
「お蔭で幼い頃から共に過ごした小夜とは離縁させられ、ようやく六角でも力が認められ始めたというのにその六角とは手切れとなり、挙句一部では私を親不孝と謗る声まであります。全く迷惑な話です」
「……お主のそういうところも相変わらずだの」
長政が腹立たしげに言えば、若干引いた様子で久政がそう告げた。
現代人の感覚を持つ長政からすれば、近江を誰が治めるかなど些細な事でしかなく、何なら六角に北近江を差し出してしまえば良いとさえ考えていた。
幸い六角義賢は浅井を、特に長政を高く評価しており、いずれは六角家の重臣として迎え入れる姿勢さえ見せていたのだ。
だからこそ長政は父のやり方に反対する事もなく、着々とその地盤を築き上げていたのだが……
「北近江の守護、京極家のお家騒動で幾度も分裂し、荒れに荒れた北近江。その北近江を京極家の忠臣として支えたおじい様――浅井亮政公が、人脈と武勇によって統一し、再び六角と相対する……確かに、話に聞くだけならば胸の高鳴る成り上がり劇です。しかし――」
珍しく饒舌に語る長政は、再び白湯をごくりと飲むと言葉を続ける。
「――しかし、その後に遺されたのが荒れた北近江と、おじい様に武力で従わされていただけの、面従腹背の家臣と国衆ばかりとなれば、遺された側は迷惑な話。しかもそれらを、南に六角と言う巨大な敵を抱えて、追い落とされた京極家の恨みまで買って、何とかしろとは冗談甚だしい」
まるで自分の事かのように、久政の置かれた境遇に対して長政はそう吐き捨てる。
「ならば怪しい動きをする者達を、六角家の力で押さえつける。そうして武具を買い揃える代わりに内政を拡充し、荒れた北近江を蘇らせる。……父上の打たれた手はこれ以上ない一手にございます。ただ一点、父上におじい様のような、人徳と戦の才が無かった事だけが問題でしたが」
人徳も、戦の才もなかった久政が、唯一にして最高の一手である六角の庇護下に下るという手を打ったとして、それを名采配と評する事が出来た者が一体どれだけいただろうか。
特に六角との戦に負け続けだったろう当時の情勢を鑑みれば、久政の一手を弱腰の外交だと非難する声が多かった事も想像に難くない。
例えこれが最良の一手だったのだと説明したところで、実際は六角に勝てないから寝返りますと言ってるようにしか見えないのだから、人徳や戦の才と言うものがこの時代では特に大切な事がよくわかる。
これがもし、祖父の浅井亮政による一手だったなら、賛否こそあれ家臣に城を追われるような結果にはならなかっただろう。
「……とはいえこうなってしまった以上、六角を討つより他はありませんが」
「聞けば、六角と一戦交えたそうだの」
久政の問いに長政は頷く。
「野良田にて六角方二万と。仔細は省きますが、無事勝利致しました。肥田城の高野瀬殿は今、浅井方についたため、愛知川から東は我ら浅井方の国衆と六角方に与する国衆が入り乱れております」
長政の言葉に、久政は「左様か……」と呟いた。
「戦の才はお主の祖父譲りか。とはいえ当主自ら戦場を駆けるのは褒められたことではないな」
「それに関しては散々、清綱や直経にこっぴどく叱られました。その代わり、磯野殿や百々殿は褒めて下さいましたが」
「たわけが。……とは言えお主くらいの武者の方が、我の強い家臣達を従えるにふさわしいという事かの」
そうして、ゆっくりと白湯を啜った久政は一息ついた。いまだ三十代前半だった筈だが、そうしていると四、五十の老人のようにも見える。
白髪混じりの髪や顔中に浮かぶ無数のシワは、それだけ彼が浅井家当主の重圧に晒され続けてきた事を示している。
そしてそれこそが、これから長政の歩んでいく戦国大名としての道のりなのだろう。
そうして一息ついた久政はゆっくりと言葉を続ける。
「時折ワシは、お主が父上の生まれ変わりか、或いは狐でも憑いておるのではないかと気が気でないわ。先の言葉と言い、小僧にしては余りにも聡すぎる」
生まれ変わり。その言葉に、一瞬長政の眉が動く。
確かに、当たらずとも遠からずと言ったところだろう。
但し祖父の浅井亮政ではなく、遠い未来の知識を有した人間の生まれ変わりだが。
「同じ事を昔からよく言われ、寺に陰陽師に医者にと、幼き頃からあちこちに連れまわされましたが、結局私に憑いた狐は払えなかったようで。……あ、この話は父上にはしていませんでしたか」
「初耳だの。まぁ、ワシとてお主が誠に自分の子なのか疑わしいくらいだ、他の者らが何か憑いていると疑ってもおかしくはあるまいよ……くれぐれもその腹の内、他では見せるなよ」
「父上の前だからこそ見せている次第にて。浅井の一族は、どうやら腹の内に一物も二物も抱えている一族のようですから」
長政の言葉に、久政はようやくこの日、初めて薄っすらと笑みを見せた。
「ふん、慶の事か。確かにあれは相当だの。とは言えあれは、目的がはっきりしている分、幾分か御し易い。何を考えているかさっぱりわからぬお主に比べるとな」
「私は父上の事を言ったつもりでしたが……姉上といえば、京極家の残党もこたびの一件に一枚噛んでいたようで。さしずめ私が六角に負けたところを狙い打つつもりだったのでしょうが、六角が敗走したお蔭でいよいよ進退極まったようです」
「お主にとっては随分と都合がいい事だな。六角に与する面倒な父も、北近江統一を阻むかつての主家も、そして何より強大な宿敵もまとめて排除できた訳だ。一体誰の差し金かの」
長政の脳裏に浮かぶのは、朗らかな人優しい笑みを浮かべた姉の姿。
「まぁ、一人しか心当たりはありませんね。姉上の智謀を恐れて年寄りに嫁入りさせた父上なら、よくお分かりでしょうに」
「お主同様、あの娘は頭が切れる。いや、非情さを持ち合わせておる分、あやつの方が上か。あやつの言うこと、何もかもがよく当たる。切れすぎる刀は、使いこなせぬなら手放すのが一番良い」
「……潔いところは良いとは思いますが、そんな事をなさるから姉上に恨まれるのですよ」
「ハッ、家が滅ぶよりはマシだろうて。……して、狐のついたお主は、今の浅井の置かれた情勢をどう見る? 朝倉に援軍を求めなかったのも何か意図があるのだろう?」
突然、久政の表情が先ほどまでとは打って変わって鋭い物に変わる。
恐らくここから先は、父としてではなく戦国大名として、長政の力量を見定めるつもりなのだろう。
ならば長政も気を引き締めなければならない。
「はい。朝倉に援軍を求めなかったのは家臣達にも申しましたが、浅井の独力で北近江を統治するだけの力があると天下に示すため。現に北近江各地で動いていた京極家の残党も、一切合切なりを潜めました」
「だがこうなった以上、東の斎藤も黙ってはおるまいよ。こたびの勝利で北近江の支配を盤石とし、領地も増えたとは言え精々二十五万石程度であろう。斎藤義龍は六角との仲を模索しているとも聞く、東西で挟まれれば我らでは抗いきれぬ」
「その点は問題ないかと。斎藤義龍は尾張の織田と、美濃の領有を争っております。すぐにこちらに兵を差し向ける程の余裕は無いでしょう。一方の六角も、京では三好長慶との勢力争いの真っただ中。どちらも正面の敵と戦うので精一杯。浅井の相手までしてはいられないと言ったところでしょう」
「詳しいな。間者でも走らせておるのか?」
「……まぁ、そのようなところです」
口が裂けても、未来の知識ですとは言えなかった。
言ったところで待っているのは、神の代弁者として担ぎ上げられるか狐憑きとして不気味がられるかの二つに一つ。
そしてそのどちらも、長政にとって良い未来にならない事だけが確実だからだ。
「まぁ、そこまで考えておるならばそれで良い。して、そろそろ本題を申さぬか。今日は何をしにここへ来たのだ」
「はい。父上がこのような小屋で隠居するには少々早すぎるかと思いまして。それに母上も、小谷で寂しがっておいでですよ。そろそろ戻られては?」
「……左様か」
それから、少しばかり何か考え込むようにして、腕を組んだまま黙りこくった久政は、そうして一つの決意と共に顔を上げた。
「相分かった。小谷へ戻ろう。そして家督の座を正式に、お主に渡す。これより浅井はお主が当主よ」
「よろしいので?」
「良いも悪いもなかろう。またワシが当主につけば、今度は命を取られかねん。――まぁ、お主なら問題なかろう。何せ狐憑きのようだからな」
「ならばそのように」
「精々ワシのように家臣共に裏切られぬよう、上手く立ち回るのだな」
こうして浅井久政の小谷への帰還と長政の当主就任が正式に決まったのだった。