049_永禄六年(1563年) 想いの丈
六角の居城、観音寺城。
今から二百年以上も昔の南北朝時代、当時の六角家当主が築いたとされるこの城は、幾たびの戦火に晒されながらも増改築を繰り返して南近江に君臨し続けていた。
観音寺城は日本屈指の規模を誇る城で、守りのための城と言うよりは権威の象徴としての政治的側面が強い。
そのため度々観音寺城が攻められると、六角家の者達は城を捨てて甲賀や伊賀に逃げ込み、再起を狙うのが習わしであった。
今回の騒動で六角親子が早々に城を放棄したのも、そんな先代達に倣っての事だったのだろう。
とは言え複数の支城と曲輪に囲まれ、石垣で固められたこの城を落とすのは容易ではない。
一切の犠牲なくこの城に入ることができたのは、長政にとって僥倖と言っていい戦果だった。
「懐かしいな。少し間が空いただけでここでの日々が遠い昔の様だ」
かつて人質としてこの城で過ごしていた日々を思い出し、そんな言葉が漏れる。
昔は大きく感じたこの廊下も、今ではこんなに狭かったか? と思うほど。それだけ長政が成長したと言う事なのだろう。
人質、とは言うもののこの時代ではけして珍しい話ではなく、未来の重臣候補を当主の目の届く範囲で育てると言う感覚のためそこまで窮屈な暮らしではなかった。
それでも長政を始めとした浅井家の者達を見下すものも居たし、時には嫌味を言ってくる者が居なかったわけでもない。
そしてそれを屈辱だと感じ、歯を食いしばり続けていた家臣がいたのも事実ではあるが。
「覚えているか八重、この傷」
「はい。新九郎様が四つの時に、背比べをしようと」
「何度やっても八重には勝てず、毎年比べていたな。この頃から小夜はずっと小さかったが」
柱に刻まれたいくつもの横傷を見ながら、そんな過去を振り返る。
横線の隣には九や八、小の文字が並ぶ。
それぞれ新九郎、八重、小夜の意味だ。
「今ではすっかり、新九郎様に抜かされてしまいました」
言いながら長政を見上げる八重。
彼女の目線が自分より下になったのは、いつの頃からだったか。
今では長政の肩ほどにある八重の目を見ながら、懐かしい日々を思い返す。
「あの頃は色々あったが、楽しかったな」
「その色々のほとんどは、新九郎様の無茶に起因しておりますが」
「……そうだったか?」
「そうですとも」
顔を見合わせ、そしてどちらからともなく笑みを漏らす。
今では六角家に仕える忍びと六角家の敵の当主という立場だが、この時だけは昔の関係に戻ったような気がした。
そうして「ではもう一人を迎えに行くとしようか」と再び廊下を歩み始めたのだった。
しばらく廊下を歩いた先の、曲がり角のそのさらに先。
昔から変わらず、そこがもう一人の幼馴染である小夜の部屋だった。
今では長政の婚約者となった小夜。彼女の部屋の前まで来た二人は、視線を交わすとまずは八重が進み出た。
「姫様、新九郎様がお見えです」
八重が声をかけるも、ふすまの向こうから聞こえるのは「会いたくありません」と言う女の細い声。
鈴の転がる様な愛らしいその声は、間違いなく小夜の声だ。
「八重」
長政が声をかけると、八重は会釈し引き下がる。代わりに長政がふすまの前に歩み出て声をかけた。
「小夜、私だ。久しぶりだな。元気にしていたか?」
しかしその声に返事はない。相当ご立腹なようだ。
「迎えに来るのが遅くなって悪かった。なるべく急いだつもりだったが……それでも四年かかってしまった。すまない」
一切返事のない部屋の中へ、それでも声をかけ続ける。
「遅くなった事を怒っているのだろう? 私が情けないばかりに……本当にすまない」
そう言って頭を下げた時だった。
ふすまが静かに開かれた。
「小夜……」
長政の胸ほどまでしか身長がない彼女を見下ろして、その名前を呼ぶ。
くりくりとした愛らしい小動物のような瞳で長政を見上げる彼女こそ、長政の婚約者たる小夜その人だった。
艶やかな唇や肌はそのままに、四年の月日で彼女は昔より大人びたように見える。
しかしそんな彼女は長政を見上げるなり、言葉もなく右手を振り上げて長政の頬を張った。
「姫様!?」
「いや、構わない。すまなかったな、小夜」
とは言え彼女の力ではぺちん! と可愛げな音が鳴る程度で、今まで戦場でいくつもの傷を負ってきた長政からすれば痛みとも言えないような痛みしか伝わってこない。
それでもその痛みは、これまで感じたどんな痛みより辛く感じた。
もう一度長政が謝ると、小夜は眉間に皺を寄せて怒声をあげた。
「小夜が怒っている理由はそんなことではありません! それがわからないから怒っているのです……!」
どうやら別に理由があるらしいが、しかし長政にはわからない。
視線を右往左往させて理由を考えるが、それでも思いつかなかった。
そんな長政に尚更怒りを露わにする小夜は、一息に叫んだ。
「何故あの時、小夜に一緒に死んでくれと、ただ一言そう言って下さらなかったのですか!」
彼女の言うあの時とは、きっと長政が婚約の破棄を伝えた時の事だろう。
あの時は家臣たちに迫られて余裕もなく、とにかく小夜をここから逃すと言う一心で彼女を観音寺城に送り返した。
「小夜を守るためだった。あのまま小谷に残していては、万が一の時に小夜の命が危うい。それに義父上……平井殿まで裏切りを疑われる恐れがあった。仕方なかったのだ」
今でこそ敵とは言え、小夜の実の父である平井定武の立場が六角家中で悪くなる事も不本意だった。
彼は長政が人質として観音寺城に居る間、良くしてくれた人物の一人だったからだ。
そんな二人を守るための離縁だったのだが――
「ならばなぜ、あの時にそう仰って下さらなかったのですか!」
小夜の悲痛な叫びがこだまする。
「小夜には兄様のお考えがわかりません……兄様はいつも難しい事をお考えになるのに、それをご自分の胸に留め置かれて小夜には何も話して下さらないではありませんか」
言われて初めて気づく。確かに長政は、この事を小夜に伝えていないのだ。
全て自分の中で考え、とにかく今は小夜を逃がすためにと婚約を破棄した。
それを言い渡された小夜の気持ちも考えずに。
「小夜はあの時、死ぬ覚悟が出来ていました。小夜は既に浅井家の女。例え父上を見殺しにしたとしても……小夜は兄様に添い遂げる覚悟でした」
「……それは……」
実の父を見捨てる覚悟。
そんな覚悟をしていた事を今初めて知る。
現代ですら忌避される父親殺し。年功序列の気運が強いこの時代でそれを覚悟する想いはいかばかりか。
そんな重大な決断を彼女がしていたことすら長政は知らなかった。
「……小夜はもう、用済みになったから捨てられたのだと。そう考えておりました」
「そのような訳があるか!」
「兄様はそう思っておらずとも、小夜にはそう見えました」
思わず言葉を失った。
今考えてみれば、長政の一連の行動はそう見えなくもない。
小夜を守るためと必死だった長政の行動そのものが、小夜を傷つけていたのだ。
「兄様はいつもそうです。ご自分の中で答えを出して、小夜にはその答えを伝えるばかり……何を思い、何を考えてそうしたのか、教えて下さることは殆どありません」
先程までの怒りから、今度は沈むような悲しみの表情に変わる小夜。
この四年間、きっと不安だったのだろう。体よく切り捨てられたのではないか、と。
書状では迎えに行くと何度も書き記した。しかしそれでは足りなかったのだ。
「己の事すら兄様に相談してももらえないのなら、小夜は何のために兄様のお傍に居るのですか? 兄様にとって、小夜は何なのですか……?」
涙に潤む小夜の瞳。そこに映るのは、そんな事にすら気付けなかった愚か者の顔。
悲痛な彼女の叫びに、思わず長政は小夜を抱き止める。
「すまなかった……すまなかった、小夜。本当に私は愚か者だ。そんな事にすら気付かなかったとは……小夜が怒るのも当たり前だ」
思い返してみれば小夜だけではない。
長政には周りの者達が鷹の目と呼ぶ、天下を見通す目がある。
その正体は本来人が持ち得るはずのない、未来に生きる人間の記憶だ。
なまじその記憶の正確さ故に、長政にはあらゆる物事の答えが既に分かった状態で考え始める癖がある。
長政の傍にいる者達からすればその考えが当たる度、小夜と同じような気持ちにさせられていたのではないだろうか。
「言葉を交わさなければ人は分かり合えない事、よく知っていたはずなのにな……小夜ならきっとわかってくれると、勝手にそう思っていた。本当に愚か者だ」
小夜を抱く腕に長政が力を込めると、小夜もより力を込める。まるでこれ以上、少しも離れたくないとでも言うように。
「小夜。私にとって、小夜は太陽なのだ。いつも笑っている小夜のお蔭で私はここまで来ることができた。人は太陽が無ければ生きては行けない。だから、自分を不要などと言わないでくれ」
するとくぐもった声で「はい」と小夜の答えが聞こえる。
どうやらもう、彼女も怒っていないようだった。
柔らかな彼女の香りに埋もれ、長政はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
「こほん」
その時、八重がわざとらしく咳をしたことで二人は現実に引き戻される。
ふすまを開けた廊下で抱き合っている自分達の姿を自覚して、思わず頬を紅潮させる。
「とりあえず、部屋に入られては?」
八重の言葉に、二人はいそいそと小夜の部屋へ入るのだった。
「御出陣は明日ですか?」
三人が部屋に入ると、八重が早速とばかりにそんなことを口にする。
彼女が聞きたがっているのは、きっと明日からの展望なのだろう。
「あぁ……明朝、六角親子が逃げ込んだ日野城を攻める。とは言え、本格的な戦いにはならないとは思うがな」
「攻め落とすわけではないのですか?」
続けて小夜がこてん、と小首を傾げる。こう言った所作一つ一つが小夜の小動物的な愛らしさを引き出す理由なのだろう。
「手切れを考えているとは言え、今回謀反を起こしたそなたの父を始めとした国衆は本気で六角親子を討ち取ろう等と考えてはおらぬだろうよ。六角家は南近江の守護。それを討ったとなれば逆賊の誹りは免れんからな」
守護とは幕府から直接その土地の管理を任された者達であり、言ってみれば幕臣だ。
そんな彼らを討ち取ることは、武家に有るまじき行いなのだ。
だからこそ土岐氏を追い落とし、時には暗殺し、そして追放した斎藤道三は国衆から反感を買って最期は実の息子に討ち取られたのだ。
父と兄を殺された後藤高治はともかくとして、他の者達は精々自分達の要求が通りやすくなるように六角家の力を削ぐ事が目的なのだろう。
彼らにとっては主家をなるべく思い通りに操りつつ、領土を安堵してもらえればそれで良いのである。
「では、兄様もあまり戦わずに済むのですね?」
「ああ。本格的な戦いにはならないと思う。……とは言え、万が一が起こるのが戦だが」
長政の言葉に、小夜は不安そうに視線を伏せた。
戦国時代とは言えど、知り合いや身内に死んでほしくないと思うのは不思議な事ではない。
戦わずに済むのであればだれもが戦わずに穏便に済ませたいと思うのが本音だろう。
「とにかく、全ては明日からだ。それまでは……」
長政が視線を送ると、小夜は静かに頷いた。
「では私は、しばらく席を外します」
気を利かせた八重がそう言って部屋を後にすると、二人はこれまでの四年間でお互いに何があったのか、一つも漏らさないようとにかく話した。
二人の間にできた空白を言葉で埋めるように。
そうして夜遅くまで語り合った二人は、翌朝早くに最後の言葉を交わす。
「また……お会いできますか?」
「ああ、迎えにくる。必ず」
「必ずですよ」
「私が約束を違えた事、あったか?」
「……ありません。兄様をお待ちしております。いつまでも」
彼女の瞳に見送られ、長政は部屋を後にしたのだった。