042_永禄六年(1563年) 高次誕生
永禄六年(1563年)春。新たな一年と雪融けを迎えた北近江では、冬の間も変わらず往来する商人達から周辺各国の情勢が長政の元へと届けられていた。
まずは昨年、初の接触を果たした織田家の情勢から。
どうやら春になってからすぐに、また織田が美濃の斎藤を攻めたと言う。
後に新加納の戦いと呼ばれるこの戦いでは、約六千の兵を伴い信長自らが出陣。それに対したのは約三千の兵を率いる竹中半兵衛だった。
数に勝る織田軍が勝利すると思われたこの戦いは、周囲の予測を大きく裏切り、竹中半兵衛の見事な采配と伏兵の前に織田軍があえなく敗北。またもや織田は美濃の制圧に失敗する事になる。
これまでにも美濃攻めを行う織田軍と対陣を繰り返してきた竹中半兵衛だったが、今回の戦いは特に苛烈で、今度こそ稲葉山城を落とさんと攻め寄せた織田軍を一切寄せ付ける事なく散々に討ち取ったという。
まるで始めから織田など相手にしておらず、天下に――或は別の誰かに、己の才覚を見せつけるかのように。
この報告を受けた長政は一応の同盟相手である織田に対して援軍の打診を行うが、斎藤と六角が力を合わせて戦う事がなければそれで良い、引き続き六角の抑えを頼むと遠まわしに拒否される。
そのため申し訳程度に、冬の間に国友村で生産された鉄砲のうちの三十丁程と、昨年の北近江各地で豊作だった米の一部を尾張へ送り、義務は果たしたとばかりに斎藤への対応は織田に丸投げする事とした。
信長としては下手に美濃に干渉されて、浅井が領有権を主張してきても困るという事なのだろう。それならそれで都合がいい。浅井としては近江に集中できると言うものだ。
また、浅井の古くからの同盟相手である朝倉家にも動きがあった。
若狭を治める若狭武田家の当主、武田義統からの要請で、朝倉家が雪融けに合わせて若狭へ出兵したのである。
この頃の若狭は、前当主の武田信豊と、現当主の武田義統の間で政争が勃発している。
一応の形としては現当主である武田義統の勝利で片付いたものの、重臣の粟屋勝久や若狭の水軍を率いる逸見昌経らが次々武田義統に対して反旗を翻していた。
また逸見昌経はその縁を辿り、三好家重臣、松永久秀の弟にあたる松永長頼と共に武田義統へ抗戦する構えを見せたため、たまらず武田義統は、越前を治める朝倉義景に助けを求めたと言うわけだ。
母方の実家が若狭武田氏である朝倉義景はこれに応え、武田義統救援の為に兵を起こす。
兵を率いるのは守護神朝倉宗滴の跡を継ぎ、敦賀郡司を務める宗滴の孫、朝倉景垙。
だがここで、元重臣の粟屋勝久が朝倉軍の前に立ちはだかった。
朝倉家の若狭侵入を頑として認めない粟屋勝久が国吉城に籠り、朝倉軍の進軍を阻んだのである。
反乱する粟屋勝久への仕置きと言う名目で出兵した以上、彼の籠城を許すわけにはいかない。
国吉城で、粟屋勝久と朝倉景垙の戦いが始まった。
――とは言え、朝倉からも浅井に対して援軍要請が来ることは無く、北も東も戦が起きている割に、浅井は今年も平穏な年始めとなった。
一方で長政が気がかりなのは、昨年の春に三好と講和してからと言うものずっと沈黙を守ったままの六角だ。
そろそろ当主の六角義治が三好との戦いの傷を癒し、浅井討伐の兵を挙げてもおかしくない頃合いだが、父の六角承禎が上手く手綱を握っているのか、それともどうしても挙兵できない理由があるのか動く気配が一切ない。
遠藤直経の調べによると、南近江では昨年の徳政令の発布と、長政の政策によって商人の流出が続いているらしい。
それに伴い南近江における経済は縮小し、三好との戦いによる敗北も尾を引いて六角に味方していた国人衆も怪しい動きを見せ始めているとか。
もしかすると六角が動かないのは、この国人衆の動きを警戒しての事かもしれなかった。
「どうにもきな臭くなってきたな」
「近頃は朝妻の動きも鈍くなっている様子。東近江の六角寄りだった国衆も六角からの支援が薄くなった事と今浜の発展を見て、我らに付くか秤にかけておるのでしょうな。もし東近江か、或は南近江で我らに寝返る者が出れば戦になりましょう」
月に数度、小谷城では浅井家家臣や国人衆を集めて今後の方針を決めるための評定を行っている。
その評定の後、近頃ではすっかり長政の相談役となりつつある浅井政澄が近江の情勢を語った。
「事が起きるなら近々、と言う訳か」
長政は既に知っている。もうすぐ六角家を真っ二つに割り、六角家の衰退を決定づける大事件が起こる事を。
長政の改革によって既に史実の流れから離れ出したこの時代で、果たして史実通りの事件が起こるのかは定かではないが、今の近江の情勢からすれば何か起こる事は間違いないだろう。
「ならば、浅井が事を起こすにも好都合、と言う訳ですね」
突然そこへ割って入るように、鈴の転がるような軽やかな声音が聞こえて来た。
「姉上、また物騒な事を……それにまだご出産なされたばかりなのですから、あまり出歩いてはなりません。既に姉上一人のお体ではないのですよ」
「ふふ、新九郎は心配性ですね」
黒く艶やかな髪に、目鼻立ちの整った顔。どこかの良家のお嬢様にも見える、朗らかな印象を受ける彼女こそ、長政の実の姉、慶である。
長政の三つ歳上の慶は、数年前に浅井家の主人にあたる京極家の当主、京極高吉に嫁いでおり、今は京極高吉と共に小谷城で日々を過ごしていた。
力を失ったとは言え守護代京極家の名は未だに北近江に根強く残っている。
そのため彼らを完全に取り込もうとした久政が、当時まだ十七だった慶を齢五十にもなろうかと言う京極高吉に嫁がせたのである。
「政澄、姉上を送ってくる。先に下がってくれ」
長政がそう言って立ち上がると、政澄はすぐに部屋から退出した。
「さ、参りましょう姉上」
長政が手を差し出すと嬉しそうにその手を握る慶。相変わらず、彼女の弟好きは治っていないらしい。
「食事はしっかりとられていますか?」
「はい。新九郎が怒鳴ったのが効いたようで、あれからは普通に食事をしていますよ」
「全く……穢れだ何だと下らぬ事を言っているから、母子の命が危険に晒されるのです。下らぬ風習などさっさと捨てれば良いものを……」
「あれらを下らぬ風習と切り捨てて、医者や陰陽師を刀で脅してまで止めさせられるのは、新九郎くらいのものですよ」
ぶつぶつと呟く長政を見て、面白そうに笑う慶。
この時代の医学は神や機運に依存したものが多く、長政から見ると後進的な事この上ないのだが、その後進医療の知識で姉に出産させようとしていたため長政が怒鳴り散らしたのはつい数ヶ月前の話。
そのせいで穢れとやらに侵され、浅井家に災いが訪れるかもしれないと怯える者たちに「それならばそれで良い」と開き直ったのも
懐かしい話だ。
慶が出産を終えて早十日。今のところ穢れによる災いとやらは起きてはいない。起きるはずもないのだが。
長政の奮闘のお蔭か、出産直後にはやつれて見えた慶の姿も、今は血色が良くなり、再び魔性とも言える美しさを取り戻していた。
「小法師の様子は如何ですか?」
道中、長政がそう問うと慶は「元気にしていますよ。会っていきますか?」と返事する。小法師とは、慶の産んだ子の幼名である。
この時代、子供は七つまでは神の子と言われるほど幼少の死亡率が高く、その幼少時代を過ごすための名前が別に付けられる。
長政であれば猿夜叉丸、と言った風だ。
小法師は元気な男の子だ。京極高吉の嫡男と言えば、後に京極家を継ぐ京極高次が思い当たるため、恐らく彼なのだろうと予想していた。
「いえ、私が顔を見せると高吉様が良い顔をされませんから」
「ふふ、高吉様は貴方に妬いていますからね」
「ご存知ならば私の元を尋ねるのを控えてください。廊下ですれ違う時など、凄い形相で睨まれるのですよ」
割と真剣に訴えるも慶は「ふふふ」と愉快そうに笑うだけで、取り合ってくれそうにない。
「わたくしが共に居れば、新九郎に何かをするような事も無いと思いますが」
「そりゃあ……姉上の前ではなさらないでしょう」
「高吉様は、わたくしには頭が上がらないようですから。わたくしが新九郎に会いに行く時も、何も仰りませんよ」
どうやら彼女は、京極家中でもうまく周りを御しているらしい。
今頃きっと、京極家は彼女無しでは成り立たないほどに彼女の手管に絡め取られている事だろう。
一見すると朗らかな、少々長政への執着が激しいだけの優しい姉にも見えるが、しかし長政は彼女の裏の顔をよく知っている。
頭が相当に切れて利に聡く、人の心の機微を敏感に察する事に長けているのが彼女、慶と言う女の本性だ。
なまじ浅井の血なのか、やけに美形ぞろいの浅井家の中でも特に美人の彼女は、自身の見目が常人のそれより優れている事を理解し、躊躇なく武器にする強かさもある。
時代が時代なら、名のある謀略家として名を残しただろう彼女は、しかしこの戦国と言うとばりに隠れて本性をひた隠しにしていた。
身内ですら、彼女の本性を知る者は殆どいないのだ。
いつか父の言っていた言葉を思い出す。
『お主同様、あの娘は頭が切れる。いや、非情さを持ち合わせておる分、あやつの方が上か』
未来をあらかじめ知ると言う、常人には成し得ない裏技でこの先を見通している長政とは異なり、彼女はこの時代の人間の、この時代にしか無い情報だけでこの先を見通している。
そんな彼女に唯一足りないものがあるとすれば、それは――
「新九郎。貴方は醜い獣にはならないでくださいね」
――ゾッとするような声音で、朗らかな笑みのままそう言葉を漏らす慶。
彼女に足りないものがあるとするなら、それは人としての情、なのだろう。
彼女の微笑みの裏に隠れる、真っ黒なそれ。未だ表へ出てくることなく静かに燃え続けているそれが願うのは、一体何なのか。
長政への執着は、そんな彼女に残された唯一の人間らしさなのか。それとも、これすらも彼女の計画の一部なのか。
長政は彼女の事を全く見通す事ができないでいた。
歴史には女性の名前が残ることが少なく、残っていてもその前半生は闇に覆われている。
そんな闇に覆われた彼女の本当の顔は、一体何を描いているのだろうか。
やがて二人は、京極高吉や慶が住まう京極丸へとたどり着いた。
「私はここまでです。姉上、どうか安静になさってください。最低でもひと月は休まねば、ご自身の知らぬところで体が悲鳴を上げているやもしれません」
長政が言葉をかければ、手を離した慶はほのかに笑う。
そこにはもう、先ほどまでの憎悪の影は見えない。
「はい、承知しております。新九郎こそ、余り無理はなさらないように。もしあなたが討死でもしようものなら、わたくしは槍を片手に仇討ちに行かねばならなくなりますから」
「御冗談を……」
チラ、と姉の顔を伺えば、相変わらずの笑みを浮かべたまま、冗談ではなさそうな瞳をして長政を見つめていた。
「……くれぐれも、気を付けます」
「はい。そうしてください」
この姉にはまだ敵いそうにない長政であった。
◆補足
国吉城は当時佐柿城と言う名前でしたが便宜上国吉城で統一します。