041_永禄五年(1562年) 成果
永禄五年(1562年)冬。今年もまた一年が終わろうというこの頃、長政の姿は須賀谷の温泉にあった。
毎年深雪に覆われて静寂の冬を迎える北近江は、例年通り真っ白な雪景色が広がるが、今年はいつもより少しばかり様子が異なっていた。
この時期の北近江では、東山道を始めとした幹線道以外の細道が深雪に沈む。
そのため人通りも滞り、誰もが食料を蓄えて家に籠り始める。
しかし今年はその街道が、どこも人の往来で相変わらずの喧騒に包まれていたのだ。
理由は明白。
白鷹隊の増員に伴う街道の拡張でひとつひとつの道が雪に埋もれにくくなったこと、そして冬に入ってからその白鷹隊が雪かきを行ったためだ。
お蔭で近江の山間にあるような小さな村々にも商人が行き来するようになり、冬の間も人の流れが止まる事なく行きかい、この喧騒を生んでいるのだ。
また長政は白鷹隊に雪かきをさせるに伴い、更なる改革を加えていた。
それが戦国版ショベル、近江鋤の開発と配備である。
現代におけるショベル、またはスコップと呼ばれる掘削道具が発達したのは比較的近年になってからで、それまでは畑を耕す鍬や、先端を槍の刃のように薄く広げた鋤とよばれる道具を使って穴を掘っていた。
しかし構造上、何かを壊す分には使いやすいのだが土や雪をすくったり、穴を掘って土をどけたり、埋め立てたりという作業には向かずどうしても手間がかかってしまう。
そこでこの未来の道具であるショベルを戦国版にアレンジし、近江鋤として配備する事にしたのだ。
構造上成形が難しくすぐさま量産とは至らなかったが、いくらか生産に成功した近江鋤を配備したところ、効果のほどはすぐに現れた。
道の舗装を始めとした土木作業の効率が瞬く間に改善され、鍬や鋤を始めとした道具の数々が一本に纏められたこの道具は使いやすさもあって非常に好評だったのだ。
更に雪が積もった際の雪かきも迅速に行う事ができるようになり、冬の北近江の交通事情が一気に改善された。
目論見が当たった事で長政は、この近江鋤の量産を開始。やがては白鷹隊全員の標準装備とするために動き始めていた。
長政にとって幸いだったのは、白鷹隊が夜盗や流浪者など他国で食うに困り流れてきた者達で構成されていることだろう。
お蔭で下らない武士の誇りなどに拘って、試作された近江鋤を嫌がる者がおらず、試作品の投入や改善を円滑に行う事ができたのだ。
これがもし野武士崩れの者達だったなら、刀や槍、弓以外の武器を使う事を嫌がり、長政の悩みの種になっていた事だろう。
始めこそ得体の知れない道具に困惑した様子だった彼らも、その利便性にすぐさまこの近江鋤を受け入れる。そんな柔軟さも、長政にとってはありがたいものだった。
やがては彼らを築城などにも従事させたいと思っているのだが……それはまだ先の話になりそうだ。
「さむさむさむ……」
やがて体が温まり、温泉から上がった長政は、体を拭いた後に用意されていた服を身に纏う。
昨年から変わった点は、何も北近江の景色だけではない。そうして長政が羽織った服にも、同様に変化が起きていた。
昨年までは寒さをしのぐため、麻でできた薄手の服を幾重も羽織っていた長政だったが、今身に着けているのは半纏のような厚手の防寒服だ。
これは、綿花で作られた服である。
当然出どころは、浅井五カ条発布の際に宮部継潤が交渉を行った比叡山延暦寺。
彼らの育てた綿花が秋に収穫を迎え、その綿花を浅井が買い取った事で綿花製の服の生産が始まったのである。
本来綿花が一般に普及するのは江戸時代に入ってからのため、長政は数十年先の技術を先取りした事になる。
何故綿花の普及がそこまで遅れたのかと言えば、そもそもの生産量の問題もさることながら、この時代では最早おなじみと言っていい座の存在が絡んでくる。
中央で献金等を行う事で政治的な力を得た座は、産地や販路の独占化を図りこの時代の物流を完全に掌握していた。
特に綿花や油などの生活必需品については輸入品が主な入手経路である事も重なり、彼らが独占して値段を吊り上げて利益を得ていた。
そのためまともな商人では対抗できず、彼らの独占を許すしかなかったのである。
金の力はいつの時代も強大。
その利権によって綿花の普及が極端に遅れ、船の帆など一部の道具以外に高価な綿花が使用される事はなく、豊臣政権下で座の解体が行われてからようやくまともに普及し始める事になるのだ。
しかし長政は、力には力をぶつけろとばかりに、座の利権には叡山の権威をぶつける事にした。
綿花や菜の花を浅井家で栽培すれば、中央政権に巣くう座の利権が必ず絡んで面倒事が起きる。しかしこれを、比叡山延暦寺のひざ元で行えば話が変わる。
この頃の比叡山延暦寺の天台座主、つまり比叡山において最も偉い存在は、この時代の帝である正親町天皇の実弟に当たる覚恕と言う人物だ。
そのせいで大っぴらに彼らを批判できる者がおらず、叡山の僧は修行僧の身でありながら厳しい戒律を堂々と違反し、妻を娶り、酒を飲み、肉を喰らい、金や米を領民から巻き上げる、暴挙ともいうべき好き勝手な振舞が黙認されているのだ。
長政は、この権力の塊たる叡山を、座の干渉を防ぐ盾として利用したと言うわけだ。
わざわざ綿花や菜の花を叡山の畑で育てさせて綿や油の生産に絡ませる事で、もし座の妨害によって流通を妨げられる結果になった場合でも叡山が浅井家を守ってくれることだろう。
何せ、長政が綿花や菜の花の買い取りを行わなければ、食べる事すらできないこれらの草花はただの雑草となってしまい、叡山自身が丸損するためだ。
もしそんな権力の塊たる叡山を敵に回してでも座が干渉してくるようであれば、きっと叡山はこれまで通り、権力という権力をもってその干渉を握りつぶす事だろう。
そして長政は、この時代最大の力を持つと言っても良い比叡山延暦寺に安全を保障された近江の市場で、悠々と綿製の服や菜種油を売りさばき、金を持つ大名や商人相手には叡山お墨付きなどと適当な事をふかした高値の服を売りつけて金を増やすのだ。
そうして得た利益で安い綿製の服を量産し、百姓達に行き渡らせる事で冬に凍えて亡くなる者を減らし、更に残った金を叡山に献金でもすれば叡山と蜜月の関係を維持できるという算段である。
これこそまさに長政の理想とする三方良しの大原則、みなが一緒に豊かになる理想形だ。
とは言え今はまだ未発達の技術である事、そもそも綿花の量が絶対的に足りていない事などから量産には至っておらず、綿製の服を着ているのは長政を始めとした一部の者だけ。
この綿製の服が量産に至るのは、来年の綿花収穫を待ってからになる事だろう。
長政はそうして作られた綿製の服を身に着け、須賀谷を後にする。
護衛の遠藤直経と合流した後、そのまま浅井屋敷へ戻ると、既に準備されていた様子の食事がすぐに並べられた。
変わったと言えば、この出された米も今年から変わったことの一つである。
この時代の米と言えば、白米に粟や稗が混ざった雑穀が一般的であるが、そのうちの白米の割合が前年までに比べて増えているのである。
長政の行った農業改革。これにより昨年は、浅井家直轄領地にある長政の畑は豊作を迎えた。
この結果をもって今年は北近江中の各村にその方法を伝授し、畑仕事の改善を図った。
結果は言わずもがな、北近江は近年まれに見る米の大豊作となる。
その結果千歯こきなど未来の道具を導入しているにも関わらず、人手不足で畑仕事が終わらないという嬉しい悲鳴が北近江中の各地で上がった。
更にこれだけには留まらず、蒼鷹隊再編の際に作成した戸籍が、ここで思わぬ効果を発揮する。
これまでの税収はほぼ自己申告で各村に米を治めさせていたのだが、どこでどれだけの人が暮らしているかが戸籍によって明確になった。
そのお蔭で記録された人数を元に、生産されたであろう米の量に当たり付けを行い、納められた米の量の妥当性を目視できるようになったのだ。
あちらの村とこちらの村では村の人数は大体同じなのに、何故こんなに納められた米の量が違うのか? と言う具合である。
百姓達が収穫を隠しているのか、それとも国人衆が規定以上に中抜きしているのか。この調査は徹底的に行われ、結果あらゆる不正が明るみに出る事になる。
しかしその全てを処置していてはキリがないため、特別に今年は「たまたま計上を忘れていた」と言う事にしてやり、後追いで規定量を納めれば許すとした。
その結果、北近江のあちこちから慌てて未納分の米が納められ、浅井家の倉は瞬く間に米で溢れる事となった。
それらの管理と調査を担当させられた、政元を始めとする内政担当組は(こちらはそのままの意味で)悲鳴を上げていたが、結果的に浅井家の米の税収は例年の倍以上にまで昇った。
更に、増えたのは米だけに限らず、浅井五カ条によって経済特区となった今浜を始めとする、北近江各地の税収も激増した。
理由は簡単で、これまで関があるせいで往来をなるべく減らそうとしていた商人達が、関撤廃と共に往来を増加させたためだ。
まず幹線道沿いの村々に、往来の増えた商人らの宿や食料という需要が産まれて金が落ちるようになった。
次に商人の往来が増えた事でこれまでは無かった新たな販路があちこちに生まれ、関わりなかった村と村の間にも新たな需要が発生することに繋がり、北近江中で商業改革が起きたのだ。
結果、関廃止に伴い赤字になった分は浅井が補填するという条件で渋々関を廃止した北近江の者達も、関の廃止によってむしろ収入が増える結果となった。
また、一部赤字となった領地に関しても、長政が言葉通り銭で補填を行ったため、長政の政策に対して不満を漏らす国人衆はすぐに居なくなった。
浅井家としてもそれら補填分を差し引いても、今年の銭の収入は例年の三倍以上の額を記録していたため、どれだけの経済効果があったのかは言うまでもない。
近頃では灰吹き法による永楽銭鋳造のため、鉱石を乗せた船も多く往来しており、陸と海の両方の販路が瞬く間に開拓されている。
そうして開拓された販路から運ばれた魚や肉が並ぶ食事を口にしていると、出された焼き魚をむしゃむしゃ食べていた直経がぽつりと呟いた。
「しかしこの醤油と言うもの……まことに美味ですなぁ……」
北近江に起きた変化、最後の一つは醤油の製造に成功した事だろうか。
一昨年から密かに製造を繰り返していた醤油が、ついにひとまずの完成を迎えたのである。
腐ったと思った豆がうまく菌を繁殖させていたようで、見慣れた黒い液体を作り出す事に成功したのだ。
腹を下す事を覚悟して一口舐めたそれは、長政の知る味とは少々異なるながらも醤油の風味が生まれていた。
それに気を良くした長政は、政元に自慢げに醤油を食べさせてみたのだが、「こういう嗜好品こそ浅井で独占して開発するべきでしょうに!」とものすごい剣幕で怒鳴られた事を思い出した。
長政からすればこの時代の者達の口に合うかわからないという理由で細々と製造を行っていたのだが、どうやらこの時代の者達にとっても醤油の味は好評なようだ。元は同じ日本人と言う事だろうか。
「近頃政元が醤油の量産を目論んでおるらしい。それが成功すればいくらでも使えるようになるだろうな」
今はまだ、長政が趣味で作った木桶一つ分程の量しかないため、こういったところで細々使うだけに留まっているが、やがて浅井で醤油を生産し、これを大名家や商人、はては将軍家に高値で売りつける事ができれば多額の収入を得る事ができる、というのが政元の企みらしかった。
後々製造法が割れれば勝手に値下がりし、いずれ庶民の味となる事だろうが、それまでは政元の好きにさせることにした。
そんな裏話がある事を知ってか知らずか、直経は「是非成功してほしいものですなぁ」としみじみ語ったのだった。