004_永禄三年(1560年) 野良田の戦い2
後に戦国の世を治め、江戸幕府を開いたとされる男、徳川家康。彼の覇業を支えたのは、幾人もの優秀な家臣達であった。
そんな家康を支えた猛将の一人に、井伊直政と言う男が居る。
戦国最強とさえ謳われた豪傑、本多忠勝と共に、徳川四天王と呼ばれるまでに至った男だが、彼にはある得意戦術があった。
その名も、突き掛かり戦術。
この突き掛かり、実は戦術とは名ばかりで、やっている事は大将自らが最前線へ突撃して敵陣を突き抜けるという無謀とも言うべき愚策だ。
しかし、この愚策こそが井伊直政の名を、後に『井伊の赤鬼』と恐れられるまでに知らしめた。
この突き掛かりでは大将自身が最前線を駆けるため、当然味方の将兵は大将を守るために前に出ようとする。
すると大将である井伊直政は味方を押しのけて更に前に出て敵と戦い、その井伊直政を守るためにまた将兵が前進すると言った具合で、次々に味方が前に出て行く戦術なのだ。
その結果、直政の足が止まらない限りいくら攻撃を受けても止まらない突撃部隊の完成と言うわけである。
また直政を守る将兵からしても直政自身が最前線に立つ事で、味方に見捨てられる不安が掻き消え、また大将の目の前で手柄を上げればそれだけ立身出世に繋がると言う事もあって、彼らはより一層奮起した。
結果、直政の率いる井伊隊は常に最前線を駆け続け、徳川家康をして、『徳川の先鋒、譜代は井伊、外様は藤堂』と言わしめるまでに至ったのである。
先程本陣で足早に駆ける歩兵を見た時、長政はその事を思い出した。
当然、一歩間違えれば自殺になりかねないこの戦術、提案したところで受け入れられる訳がない。
井伊直政ですら初めはきっと止められただろうに、浅井軍総大将の長政がそれを提案して、一体誰がそれを許可すると言うのか。
だからこそ、勝負は一瞬だった。
無我夢中で馬に跨り最前線へ駆ける長政の胸中には、様々な思いが駆け巡る。
恐怖、焦り、不安。無策故の焦燥感。
しかしそれらを振り切るように、長政は馬に鞭を入れた。
聞こえるのは馬駆ける風の音ばかり。真夏の乾いた土や小石が馬の蹄によって跳ね上げられ、長政の足にばしばしと当たる。
しかし、そんな事を気にする余裕すらなく、前線が近づくにつれて息が震え、手の感覚が無くなっていく。恐怖が全身を支配し、今が生死のやり取りをする戦いの最中であることを自覚させた。
「……何もやらないまま負けてたまるか……! やらずに死んでなるものか!」
それでも長政を前に前にと突き動かすのは、ある種の使命感であった。
己の運命を己で変える。この戦いに自分の力で勝つことは、滅びを示した運命を自身の手でねじ伏せるために必要な事に思えたのだ。
戦場が近づく。敵味方の姿がはっきりとわかる。味方は既に退却を始め、僅かに残った味方が襲い来る敵を辛うじて食い止めていた。
しかし続々と敵は宇曽川を越えて浅井兵を追い詰めていく。
長政はその敵勢の、丁度真横に出たようだった。
織られた浅井の旗が次々倒れ、それでも踏みとどまる味方の兵達を横目に、長政は更に鞭を入れる。
――その時、不意に敵の一人と目が合ったような気がした。
「……ぁぁぁぁああああ! やらいでかあアアアァァァーーーッッッ!!!」
恐怖をかき消す長政の咆哮がこだました。それはおよそ人の物とは思えない程の大声で、辺り一帯に響き渡った。
そのあまりの大声に、長政が乗っていた馬も驚いて暴れ出し、両前脚を大きく振り上げたほどだ。
そんな長政の常人離れした咆哮を真横から食らい、思わず視線を釘付けにされた六角勢が目撃したのは、大きく前脚を振り上げた馬に跨る、長政の雄姿であった。
既に傾き始めた日光を背中に抱え、大きく咆える長政の姿が、一体彼らにどう見えたのかは定かではない。
一方で確かなのは、その姿を目撃した六角兵らの悉くが、足を止めて釘付けになっていた事である。
そんな事とはつゆ知らず、暴れ始めた馬を乗り捨てた長政は、すぐさま手にしていた槍を振り上げて、無我夢中に目の前に居た六角兵へ突撃を仕掛けた。
「うおあああああーーーーーっ!!」
大柄な長政によって振るわれた槍は、ごうと空を切って六角兵の腹目掛けて叩き込まれた。
この時代の男の平均身長は五尺二寸(約160cm)程。それに対し、長政は既に五尺六寸(約170cm)を越え、十五とは思えないほどたくましい体つきをしていた。
まるで子供と大人ほどの体格差、その上相手は呆気に取られている。その体を吹き飛ばす事など、今の長政には造作もなかった。
鉄のひしゃげる耳障りな音を響かせ、六角兵は折れた槍の先と共に宙を舞った。
どさり、とその体が地面に落ちた時、ここぞとばかりに長政は大声を張り上げる。
「我が名は浅井家当主、浅井備前守長政である! 我が首取って手柄とせよ! 死にたい者から前に出ろ!」
あまりの咆哮。あまりの気迫。あまりの体格。
ただでさえ不意打ちされ、何が何だかわからない六角兵達にとって、この時の長政の姿が一体どう見えたのか定かではない。
そんな長政を前に混乱する六角兵に向けて、続け様に災難が襲う。
長政を追ってきた遠藤直経率いる騎兵隊が突撃を仕掛けてきたのだ。
敵陣をかき乱すように騎馬兵が現れ、血気盛んな武者たちが次々に足の止まった六角兵を討ち取っていく。
更には駄目押しとばかりに、長政を追って本陣から出撃した他の後詰まで到来し、先ほどまでの六角有利の形成を覆していく。
見れば先ほどまで潰走しかけていた浅井の先鋒隊さえもが、再び前線へ押し寄せてきているではないか。
もはや六角兵に勝利の空気など無くなっていた。この突撃が決定打となって瞬く間に壊乱していく。
「新九郎様! ご無事ですか!」
そこへ、馬に跨った遠藤直経が長政に駆け寄ってきた。その表情には焦りが浮かんでいるが、長政は知った事かとばかりに折れた槍を投げ捨てて、すぐさま近くの死体から槍を拾い上げた。
そうして馬に跨って再び咆える。
「直経! お前も続け! 六角義賢の首を獲るぞ!」
長政の覇気に、止めても無駄だと悟った遠藤直経はすぐさま応える。
「承知! 露払いはこの遠藤喜右衛門にお任せあれ!! 者共続けェ!」
そう声を上げた遠藤直経は、瞬く間に群がる敵兵を打ち払っていく。
それに負けじと長政が前に出れば、その長政を守ろうと味方の兵が更に前へ進み出る。全力で突撃を続け、現れる敵兵を次々討ち取る長政の前には、長政を守ろうと常に味方が進み出る。
そうして長政が、浅井の兵が敵を薙ぎ払い、まるで紙を裂く矢じりの如く、すっと一閃駆け抜ける。
六角の本陣めがけて、浅井の旗がまっすぐ駆け抜けていった。
こうなってくると慌てるのは六角の方である。先ほどまで優勢だったにも関わらず、みるみるうちに形勢が逆転していく。更には、敵の一陣があろう事か自身の本陣めがけて突撃してくるのだ。
「お逃げ下され! ここは危のうござる!」
本陣で戦況を見守っていた六角義賢は、馬廻りの一人にそう急かされて慌てて馬に跨ると駆けだした。そのすぐ直後、本陣だった場所へ長政の部隊が雪崩れ込む。
「六角義賢覚悟!」
長政は、本陣のどこにいるのかわからない六角義賢を探して、次々に襲い来る敵を薙ぎ、切り、叩き、打ちのめしていく。
長政にとってはこの時代の大人たちは体格が一回り小さく、子供のような物。群れたところで恐れなどあるはずもなかった。
荒く、暴のような武を振るう長政を、直経や浅井の兵達が咄嗟に助けながら六角の旗を次々倒していく。
一瞬でも馬に跨るのが遅れていれば、その槍に討たれていたのは六角義賢自身だった事は言うまでもない。
しかし辛うじて首の皮一枚で生き延びた六角義賢は、自身の後ろで六角の旗が次々と倒れていく様をじっと見ながら戦場を後にした。
やはり浅井長政を、六角の傘下に収めるべきだったと確信しながら。
本陣総崩れ。既に壊乱状態だった六角兵は、本陣に浅井の旗が殺到している様を見て恐れと共に四方八方へ逃げ出して行く。
更には肥田城を囲っていた部隊さえもが、打って出てきた高野瀬秀隆の兵によって次々討ち取られていく。
勝敗は誰の目にも明らかだった。
「新九郎様、お味方の勝利にござる! 深追い無用! 勝鬨をお上げ下され!」
長政が直経の声を聴いたとき、既に日は傾き、影は長くなっていた。
無我夢中で戦っていた長政はようやく、自身が勝利した事に気付いた。見れば鎧は血だらけ、周りも死体だらけ。
息も切れ切れで長政自身、いつの間にか満身創痍であった。
「ハァ……ハァ……勝ったのか」
「お見事にござる。まぎれもなく新九郎様の武勇によっての勝利にござる。さあ勝鬨を」
夕日に照らされながら、一度頷いた長政は勝鬨を上げた。
「えい、えい、オーッ! えい、えい、オーッ!」
長政の声に、浅井の兵達もそれに続く。やがてそれが本隊に伝わったのか、本陣の方からも勝鬨が聞こえ始めた。
「えい、えい!」
『オオーーッッ!!』
槍を、刀を振り上げて。混乱と恐怖と興奮と、それから幾ばくかの喜びを胸に叫ぶ。初めての戦は何ともいえない昂ぶりを長政の中に残していった。
敵の首級、九百余り。味方の損害、四百余り。
野良田の戦いは史実通り、空前絶後の大勝利で幕を閉じた。
それは奇しくも、織田信長の名を天下に知らしめた桶狭間の戦いと同じ年の話であった。