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039_永禄五年(1562年) 三方よし

 パチン。パチン。

 小谷山のふもとにある浅井屋敷に、石と碁盤が鳴らす軽快な音が鳴り響く。

 

 音の鳴る方へ辿れば、屋敷の縁側で晩夏の陽射しに照らされながら碁盤を挟む人影が二つ。


 一人は浅井家の当主を務める浅井長政。


 このところ着手しだした数々の内政改革により慌ただしい日々を送っていたが、それらがようやく長政の手を離れた事で数ヶ月ぶりのまとまった休みを謳歌していた。


 その相手を務めるのは、最近元服したばかりの長政の弟、浅井政元まさもと


 元服してから急に囲碁に興味を持ち始めた政元は、このところ時間さえあれば長政に囲碁を教えてほしいとねだるため、今日もこうして相手をしていた。


 パチン。白石を握る長政が一手指すと、それを見た政元は迷いながらも黒石を指し返す。しかし。


「そこに置くと」


 パチン。長政の一手で政元の表情が変わる。


「あっ」


「このように、分断されて孤立する」


 最善手を打ったつもりだったが、長政の返しによって最悪の手に変わる。


 すると普段の政務をこなす政元の姿からは想像できないほど、おずおずと言った様子で「やり直してもよろしいですか……?」と自身を見上げてきたため思わず笑みがこぼれた。


 一手やり直し、再び二人で碁盤を睨む。

 そうしてパチン、パチンと何手か指し合った頃、政元が不意に顔を上げて口を開いたのだった。


「兄上、前から伺いたい事があったのですが」


「ん? どうした、今更改まって」


 パチン。長政が白石を指す。その一手を受けた政元は、碁盤を睨みながらゆっくりと続ける。


「兄上は、何故千歯こきや近江ぐわ、洗濯板といった道具を百姓たちに配るのですか?」


 パチンと黒石が鳴った。そこは長政が考える中で最も良い手。このところ付きっ切りで教えた甲斐があると少し嬉しさを滲ませながら、次の一手と共に政元への答えも考える。


 政元が言っているのは、このところ長政が行っていた蒼鷹隊再編の際、人を出した村々へ千歯こきや近江鍬、洗濯板と言った浅井家が買い付けた道具の数々を無償で貸し出している政策の事だろう。


「何故、か。それらの道具を貸し出す事でより早く仕事が終わり、余った時間を更に畑仕事に費やせば一度により多くの米が育つ。そうすれば税で入ってくる米も増え、浅井も百姓も豊かになる。それだけでは不満か?」


 答えると同時に一手指すと、政元はそれを見ながら答えを紡ぐ。


「それはわかります。百姓が豊かになれば近江も豊かになり、結果浅井も豊かになる。しかし、今のやり方が最も良いやり方とも思えません」


 そうして取り上げた石を指した政元は、長政の目を見据えて続けた。


「千刃こきや近江鍬は確かに画期的な道具です。しかし、構造自体はそう難しいものではありません。それ故、真似しようと思えば誰にでも真似できる。それこそ日本各地、どこにいる鍛冶衆にでも、です」


 白石を指し返しながら思考を巡らせる。政元の言う通り、それらの道具は農作業の負担を一気に減らした画期的な道具だが、作り方さえわかれば誰でも作れる単純な構造でもある。


 恐らく政元が懸念しているのは、その画期的な道具の情報が流出する事なのだろう。


「そんな道具を村々に配れば、いずれそこから六角や朝倉、斎藤にも漏れるでしょう。そうなれば浅井だけでなく、周りの大名達まで力をつける事になります。ならばせめて、それらの道具は我々が許した相手にのみ売り、浅井が独占して高値で売った方が効果的なのでは?」


 そこまで言い終えた政元は黒石を指した。その手の鋭さ、そして何より政元の告げた言葉に、長政はほうと声を漏らした。何せ、政元の言う事は戦国大名として最善の手だったからだ。


 長政のもたらした未来の道具は、上手く扱えば浅井家に莫大な利益をもたらすが、下手すれば敵国を強くする諸刃の剣となる。


 そんな危険な知識を不用意に与える長政の存在が、もしかすると利に聡い政元からすれば軽率に見えたのかもしれない。


 長政は、ふっと笑みを浮かべた。まるで政元にはかなわないとでもいうように。


「お前は本当に賢いな新八郎。確かにお前の言うように、千歯こきも近江鍬も洗濯板も、浅井が独占すれば今以上の金になるだろうな。恐らくは他国の大名らも欲しがって多額の金を出すようになる」


「では――」


「しかし」


 政元の言葉を遮った長政は、それからゆっくりと続けた。


「しかし、それでは浅井だけ・・が豊かになる。それでは駄目なのだ」


「……? 何が問題なのですか?」


 長政の言葉に政元は首を傾げた。そんな政元を見ながら、長政は続ける。


「浅井家が技術を独占し、利益を得たとする。確かにそれで浅井は多額の銭を得る事になるだろうが……では聞く。我らが売り出したその千歯こきや近江鍬、洗濯板は一体どこの誰が買うというのだ?」


 おかしなことを聞くものだ、先ほど自分で答えを言ったではないか。


 政元はそう思ったが、長政は真剣な表情を浮かべているためからかわれている訳でもなさそうだ。

 仕方ないとばかりに先ほど長政が言った言葉を繰り返す。


「それは商人や他国の大名でしょう。自分達の国で使うため、或は更に他国に高く売りつけるためにこぞって北近江へ買い付けに来るはずです」


「左様。商人や大名らが多額の金を落とすだろうな。では続けて聞く。その商人や大名は、買った道具を一体どうする?」


「それは……必要な者に売るのでは?」


「必要な者とは一体誰だ」


「百姓……でしょうか」


 質問の意図がわからない、と言った様子で困惑する政元を他所に、パチン、と白石が鳴る。真剣な表情を浮かべた長政は、そんな政元の答えを聞いて頷いた。


「そうだ、道具を必要としている百姓達に売られる事になる。それも、我ら浅井が売った時より更に高い値段でな」


「それは……しかし商売とは、そういうものでしょう?」


「そうかもしれんな……では、その次はどうなる? 利益を独占し、技術を独占し、それで北近江が発展し、浅井が豊かになったとしてその後は?」


 政元の、手が止まる。長政の言う浅井が豊かになった先、それが一体何を意味するのかが全くわからなかったからだ。

 そんな政元の様子を見た長政は、ゆっくりと言葉を続けた。


「……きっと、その豊かになった北近江を巡って、次の戦いが始まるだろうな。ただでさえこの近江は、近江を得るものは天下を得るとまで言われるほど重要な土地だ。そこに浅井が稼ぐ膨大な金まで加われば、誰もがこの土地を欲しがるだろう」


 そうして長政は視線を上げて、政元を静かに見据える。


「……いや、それだけでは済まない。更には、馬鹿ほど値段が吊り上げられた道具を買って、米を作り始めた者達と、それを買えない者達の間で格差が産まれ、我ら浅井の作った道具が争いの火種になる」


 長政の言葉にハッとした様子の政元。彼の表情を伺いながら、長政は更に言葉を続ける。


「やがて誰かがこう言うだろう。元を辿れば、浅井が何もかもを独占するのが悪いのだと。そうして膨れ上がった人々の怒りが戦を呼び、北近江が戦火に焼かれ、そうして皆がまた飢える……これでは全く意味がない。そうは思わんか?」


「ならばそうならないように、浅井家が力を増せば良いのでは? 現に兄上は蒼鷹隊や白鷹隊を組織する事で、浅井家の力を増しております。それも、いずれ来るその時に備えているのでしょう?」


「確かに俺は、兵を増やす事で他の大名が北近江に攻め込もうなどと、ふざけた事を考えられぬように手を打っている。しかしそれは、あくまで抑止力にすぎん。一旦タガが外れれば、一向一揆同様にどの道戦は起こるだろうよ」


 ふう、と一息付いた長政は、遠い目で空を仰いで続ける。


「……そしてその時は、六角や斎藤のような勢力が、皆で手を組んで浅井を討ちに来るだろうな。近畿で力を持ちすぎた三好の時のように」


「……では、その敵にも勝てるように更に力を付ければ――」


「勝ってどうなる。より強い力を持ち、より強い敵に勝ち、更に力を増してまた次の敵に勝つ。そうして力を増し続けた結果、行きつく先は一体どこだ。誰一人として浅井に逆らわぬ、その時まで戦い続けるか? どこまで豊かになれば我らに……近江に平穏が訪れる?」


「それは……」


 長政の、鷹のような瞳が政元を貫く。今の政元には、長政のその問いには答えられなかった。


「良いか浅井・・政元・・。これから銭を扱うならばしかと肝に命じよ。誰かを陥れ、誰かに丸損させて自分達だけが儲けを得る。そういう銭稼ぎは……そういう戦いは、もう終わりにしなければならんのだ」


 パチンと、小気味良い音が響く。


「この戦国は、長く続きすぎた。いい加減に終わらせなければならん。そのためには自分も相手も、皆が一緒に豊かになる。そうして他者から奪わずとも済むような、そういう銭の稼ぎ方をしなければ……戦国は、いつまでたっても終わらんのよ」


 刺された白石によって、最善手だったはずの政元の一手が最悪手に変わる。

 領地を増やして自陣を広げていたはずが、気付けばいつの間にか、周りは白石てきだらけになっていた。


「いうなれば、『三方よし』の心構えだ。商売である以上、自分が得するのは当然だが、取引する相手にも得をさせる。そうして両者ともが得をした上で、得した分を周りに配って世間にも得をさせるのだ」


 三者が全てよしとして初めて良き商売となり、誰からも恨みを買わず共に豊かになれる。

 そう続けた長政に、政元は息を呑む。


 この三方よしという言葉は、江戸時代から明治時代にかけて日本各地で商売を行った、近江商人達がよく口にしていた心構えだという。


 取引を行う両者にとって得な商売を行い、取引で得た利益を世間に還元する事で世間からも良しとされる。


 江戸時代の近江商人らは、既にその頃から商売には信用が第一であり、社会に対して果たすべき責任を負っている事をよく理解していたという事らしかった。


 しかし、戦国時代に生きる政元には、長政のこの考え方は意外なものだ。


 利益を独占し、他国より強くなり、そして勢力を拡大する。この時代の戦国大名達は皆そうして力を増していたし、そうする事で初めて浅井家は安泰になると信じていた。


 そんな政元からすれば、長政の考え方は余りにも甘い考えに思えたのだ。


 長政のそれは、まるで浅井家ではなく日本そのものを一つの単位として考え、商業を発展させていくような大きな物の捉え方だ。


 皆が仲間となって手を取り合い、そして豊かになれる天下。夢物語にも程がある。


 しかし……もし実現すれば。それはきっと、この末法の時代よりよほど良い時代になるだろうとも感じていた。


「俺が何故、焼金法を独占しながら農具は独占しないのかわかるか政元。それは、農具は百姓が使う道具だからよ。焼金法を広めたところで豊かになるのは大名だけで、下手すればそれが争いを生む。しかし農具は広まれば、それだけ百姓が豊かになる」


 しっかりと政元の目を見据えて長政は続ける。


「百姓が豊かになれば国が豊かになる。国が豊かになれば我ら大名も豊かになり、食うために戦う必要もなくなる。そうしてやがて、誰もが食うに困らぬ世になれば……」


 遠く、まるでここではないどこか遠くを見るようにして、長政は言った。


「……そうすれば、この下らぬ、食うために戦う戦国の世も終わりに近づくはずだ。その先に訪れる物こそが泰平たいへいの世だと、俺は信じている」


 泰平たいへいの世。争い無き平和な世界。まるで無邪気に笑う子供のように長政は笑った。

 どう考えてもただの理想論でしかないその言葉を、それでも強く信じているかのように。


 自身の兄の底知れぬ物の考え方。切り返すためにも次の一手を繰り出そうと黒の碁石に手を伸ばした政元だったが、ついにその手が碁石を取る事はなかった。


「……兄上は、甘すぎます」


「わかっている」


「ですが……兄上の言う泰平の世を見てみたいとも思います」


「そうか」


「これ以上は、ありません」


 黒石に伸ばしかけた手を止めて、政元はそう告げた。

 負けたにも関わらず、晩夏の陽射しに照らされた政元の表情は、どこか吹っ切れたようにも見えた。


 きっと、良い将になるだろうな。この時長政は、政元の顔を見てそんな事を思ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 鉄製品を独占して高く売るという発想は、砂鉄と炭を無尽蔵に確保できる前提での話ですね。 実際は無理。 この時代だと独占とかしなくても農民には簡単に買えないほど鉄製品は高価なはず(木製農具が存在…
[一言] 浅井家が技術を独占し、利益を得たとする。確かにそれで浅井は多額の銭を得る事になるだろうが 今回の農具の話についてこの意見が正しいのかどうか。 簡単にまねがされる農具なんだから技術を秘匿しよ…
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