035_永禄五年(1562年) 浅井五カ条1
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ご注意下さい。
徳政令とは、町人の借金を全て帳消しにし、貧困に喘ぐ民を救済するための政策である。
徳政令の歴史は鎌倉時代まで遡り、鎌倉幕府より発布された永仁の徳政令から始まったと言われる。
当時から武家、或は戦に臨む百姓たちは、戦に使う装備や食料を揃えるために借金をするのが一般的だった。
所有している土地を質として寺社や商人に預け、代わりに金や米を借り入れて戦に臨む。
そうして勝利した後に主から渡された報酬で借金を支払い、土地を取り戻すのである。
その借りた金や米をまとめて帳消しにし、無かったことにするのが徳政令という訳だ。
つい先日、六角は三好との戦いに勝利した折、戦勝祝いとしてその徳政令を発布した。
徳政令を発布できるのはいつの時代も力を持った者たちばかり。
言ってみればこれは、六角による示威行為でもある。
天下に対して、三好を退けた六角の力を見せつけたと言う訳だ。
長政が評定の間に家臣らを呼び集めたのは、そんな徳政令が六角から発布され、南宮山の戦いも終わって一月ほどしてからの事であった。
「皆に集まってもらったのは他でもない。六角を切り崩す策について、聞いてもらいたいのだ」
長政の言葉に、家臣らが「おぉ……」と声を漏らす。
昨年の太尾城攻め失敗からぱったりと止まった六角に対する攻勢であったが、ついに長政が自ら腰を上げたのだ。
彼らを代表するようにして、赤尾清綱が口火を切る。
「して、策とは?」
「うむ。先日、六角が徳政令を布いたのは聞き及んでおるな?」
家臣らは静かに顎を引いた。
この時期、米や金を貸し付けるのは寺と商人の仕事である。
彼らから米、金を借りた武士や百姓らはそれを元手に戦の支度をし、戦の後に貰った報酬を支払いに充てる事で軍資金を調達していた。
これは先日、京へ出兵した六角も同様で、対三好の為に集まった将兵らの多くは、寺や商人から米と金を借り受ける事で軍備を整えて三好との戦に臨んだ。
しかし計算違いだったのは、この三好との戦が余りに実入りの少ない戦いに終わってしまった事だ。
結果だけを見れば六角の勝利ではあるが、その内実は三好が京から立ち退いただけ。
勝った事による領地の拡大も、米の収入も当然ない。
これに困ったのは、当然借金を抱えた将兵である。
貰えるはずの報酬も微々たるもので、借り受けた金の支払いがままならない。
そのため六角は徳政令を発布し、この借金を帳消しにしたのであった。
「それは無論……しかし、それが一体?」
「うむ。この徳政令、当然六角が親切心から発したものではない。六角家にとっても大きな得があるのはわかるな?」
「農兵や家臣の借金を帳消しにすること、それから……寺社の勢力を削ぐ事ですな?」
「左様。寺の借金を踏み倒させ、負債を抱えさせることで奴らの力を削いだのよ。奴らと古くから敵対する六角にとって、一石二鳥という訳だ」
清綱の言葉に長政は大きく頷いた。
商人、寺社から金や米を借りた将兵らは、報酬が無ければ返済の為に自分の持っている資産――すなわち土地や武具、農具を売り払うしかない。
そうなれば戦の際、六角のために戦える者が必然的に減り、六角の弱体化を招く。今回の徳政令は、それを防ぐ意味があった。
しかし六角としてはもう一つ、寺社の勢力の切り崩しも目的としていた。
元々六角家は、先々代の当主、六角定頼の代には幾度も寺社勢力と衝突を繰り返しているほど不倶戴天の敵なのだ。
この時期の寺社は高利で金を貸し付け、その利子と借金のカタに土地や農具、果ては人までを強引に徴収し、領主が自分達の意にそぐわなければ一向一揆で乱を起こすというような横暴を働いている。
そのお蔭で、教えで質素倹約を謳いながらも、内情は一国にも等しい程の軍事力を有していた。
そんな寺社の力を削ぐのが徳政令である。
借金を帳消しにしてしまえば、寺社が貸し出した米や金はそのまま損失となる。
これに反発して一向一揆を起こそうとしてもこの徳政令で助かるのは他ならぬ百姓たちであるため、彼らが寺社に手を貸すことはなく一向一揆が成立しない。
そのため寺社は、徳政令が布かれれば泣き寝入りするしかないのであった。
「しかし、それがどう六角の弱体化につながるので?」
「うむ。ではなぜ、徳政令を乱発せぬのかわかるか?」
「それは……先の鎌倉幕府が滅びた遠因も、その徳政令だからでありましょう」
清綱の答えに、長政は再びうむと頷く。
この徳政令、一見領主にとっては得しかないように見えるが、当然大きな問題点もある。
何せ借金を帳消しにするということは、経済基盤を根元から粉砕するという事に等しい。
そんな事をしてしまえば寺社はおろか、商人達さえも米や金の貸付を取りやめてしまうのだ。
先の鎌倉幕府もこれが原因で武士達への貸付が一切行われなくなり、結果借入ができなくなった武士達の首を絞めて、幕府の権威を失墜させたことに繋がった。
戦には多大な費用を要する。
自費だけでその費用を賄いきる事は、よっぽど大きな経済基盤を持つ大大名でもない限り困難であり、寺社や商人が貸付を行わないという事は彼らが戦えなくなる事に等しいのである。
長政はそこに目を付けた。
「此度の徳政令、六角領内で商いを行っていた商人らは丸損しておる。六角領内ではしばらく商いを行いたくない、というのが本音であろう。そこを突く。六角領内で商いを行っている商人を北近江へ呼び寄せ、六角家の経済基盤を叩き潰すのだ。先の鎌倉幕府のようにな」
言うなり長政は、傍らに置いてあった巻物を広げた。そこ記されていたのは、以下の五カ条であった。
一、近江浅井領今浜における諸座の特権、雑税などその他一切を免除とする。
一、近江浅井領において徳政令を発布した場合、今浜においてはその一切を免除とする。
一、他国の者であっても近江浅井領今浜における商いの自由を認める。
一、近江浅井領において、関税の一切を廃止とする。また商人の往来を自由に認めるものとする。
一、近江浅井領においてはいかなる理由があろうと浅井家の預かり知らぬ乱暴狼藉、その他暴力行為の一切を禁ずる。
右記に反する者、厳正な処罰を行う。
「これは……」
読んだ者達はその内容に唸りを上げていたが、ただ一人、長政だけが彼らの中で笑みを浮かべている。
「浅井五カ条。これを今浜にて発布する」
長政が浅井五カ条と呼んだそれに記載されていたのは、浅井家家臣団にとっては驚愕する約定の数々であった。
現在、長政が居城としている小谷城の西、淡海のそばに今浜と呼ばれる街がある。
そこは朝倉の治める越前やその先の加賀、越中、越後といった東日本北側に繋がる北陸道と、美濃、信濃、果ては奥州まで続く東山道の二つの道が繋がっている、北近江でも比較的大きな街の名だ。
史実では浅井家が滅亡した後に秀吉によって長浜と名前を改められ、北近江でも一番の商業都市として発展を遂げた。
その今浜で、長政は税の一切と徳政令を免除し、商人の往来と商売を自由に認めるというのである。
これは、後に信長が発布した事で有名な楽市楽座令を元に長政が作り直した楽市令であり、今浜をいわゆる経済特区とし、経済を活性化しようという試みに他ならない。
楽市とは即ち、現代で言うフリーマーケットの事である。
認められた商人が税を納めて初めて開く事の出来る市を、誰でも自由に開けるようにしようという政策だ。
因みにこの時よく勘違いされるが、この楽市楽座は信長が初めて考案したものではない。
六角家や今川家と言った名家が行った楽市令を元に、信長が改良を加えたものが楽市楽座令である。
また楽座、と記載はあるものの座の廃止を実際に行えたのはそれからずっと先、豊臣秀吉による統治が行われてからで、座の廃止を行う事のできた戦国大名は誰一人としていない。
これはそもそも座と言うものが長い歴史の中で権力や寺社勢力と結びついてしまい、下手に手を出せば一向一揆や国衆の造反に繋がる危険があるためだ。
とは言え確かに、この五カ条を発布すれば近江中の商人は今浜へと集い、大いに活気づくことは間違いないだろう。
それどころか、北陸道・東山道を通って京へ向かう商人達も集まり、北近江はおろか日本有数の大都市となる事さえありうる。
「上手くいけば六角領内の商人全てが北近江に流れてこよう。既に今浜を治める弓削殿には話を通し、承諾してもらっている」
長政が視線を送ると、控えていた弓削家澄が静かに頷く。
「後はこれを――」
「某は反対にござる」
長政の提案にざわつく評定の間、その喧騒を割いたのは赤尾清綱の一言であった。
「諸座の免除、税の免除、徳政令の免除、他国商人の商売の自由……確かに六角の商人は流れて来ましょう。しかし……これは余りに問題がありまする」
「と言うと?」
白々しく問い返す長政であったが、赤尾清綱の懸念する事には既に心当たりがあった。
「まず諸座と税の免除。さような事を行えば、近江で商売を行っている者達の商売敵が増えるばかり。六角の商人が流れてくる前に、浅井領の商人が逃げてしまっては元も子もありませぬ。それに税を免除してしまえば、その税で生きる国衆や領主が飢えましょう」
赤尾清綱の言葉に、何人かの家臣らが頷く。見れば彼らは、そういった税収を元に生計を立てている者達だ。
「北近江の商人らは淡海の利権があろう。確かに多少儲けは落ちるだろうが、その分今浜は盛況になる。さすればすぐに儲けは取り戻せる」
「確かにそうかもしれませぬ。しかし一番の問題は、その諸座と税の利権を最も抱えているのが寺社……それも叡山である事でございましょう」
清綱の言葉に、その場にいた国衆達は静かに息を呑んだ。
前述のとおり、この時代の寺社は金や米の貸付とその利子の取り立てによって私腹を肥やしていた。
金を持つものが強いのはいつの時代も変わらずで、寺社はその莫大な金を使ってあらゆる市場の利権を掌握していた。
その中でも、淡海の西にある天台宗総本山、叡山こと比叡山延暦寺は特にタチが悪い事で名が知れていた。
何せその比叡山の主は、現在天皇に即位している正親町天皇の実弟にあたる人物なのだから。
そんな由緒ある場所には、当然他の有力大名の子供も集まってくる。
この時代、名家の次男・三男など嫡男以外の子は、殆どが嫡男の家臣となるか出家するかの二択であった。
そのためこの比叡山には、有力な武家や名家の次男・三男が集っているのだ。
信仰、金、そして家名。この時代に力を持ったありとあらゆる物をこの頃の寺社、特に比叡山は掌握していると言って差支えなかった。
そんな比叡山の利権を全て取り上げるような浅井五カ条は、明確に彼らを敵に回す行為に等しいのだ。
彼らが敵に回れば、次にどうなるかなど誰の目にも明らかであった。