032_永禄五年(1562年) 南宮山の戦い3
「ま、まだ浅井は討ち取れぬのか!」
一方、最前線がそんなことになっているとはつゆ知らず、南宮山のふもとでは痺れを切らした斎藤龍興が所在なさげに声をあげていた。
「戦況はどうなっておるのだ!」
それらしい事を言って当主であると言う体裁を取ろうとしているのか、仕切りにそんな事を叫ぶ龍興。
とは言え周りの者達からすれば、鬱陶しいことこの上ない。
「は、それが山道に兵が殺到しており、物見も前線の様子がわからぬようで……」
「ならば兵を引き、様子を確認せねば!」
「しかし、もし浅井との戦いが膠着状態ならば、今兵を引くと前線が崩壊する恐れが……」
「わ、わしの命がきけないのか!?」
そんな様子を横目で見ていた半兵衛は、内心でほくそ笑む。そうら見た事か、私の忠告を聞いていればこんな事にはならなかっただろうに、と。
半兵衛の見立てでは今頃、森の中に仕掛けられた浅井の罠で足止めを喰らった斎藤兵達が立ち往生し、進軍も後退もできなくなっている頃合いだ。
そして少数の利を活かして、浅井軍が深い森に紛れてあちこちから散発的に攻撃を仕掛けているはず。
浅井長政はそうやって時間を稼ぎ、斎藤龍興の不在に気付いた織田が美濃へ侵攻するのを待つつもりなのだ。
……いや、もしかしたら既に文か何かで織田に連絡を取り、挙兵の準備を進めさせているのかもしれない。
であればどの道、ここで撤退したところで浅井の兵数では追撃は困難なため、手早く兵を退いて織田に備えるのが上策だろう。
様々な状況を想定して考えを巡らせる半兵衛であったが、よもやその浅井に斎藤兵の先発隊が悉く討ち取られているなど予想だにしていなかった。
そんな中、前線の様子を遠目に伺っていた日根野弘就が、妙案を思いついたとばかりに斎藤龍興へ声をかける。
「ならば、兵を分けては如何でしょうか」
怒りと焦りからか肩で息をする龍興が、何が言いたい? とばかりに視線を送ると、日根野弘就は言葉を続けた。
「控えさせている兵を南宮山の反対側へ移動させ、そちらの登山道を使うのです。移動には一日ほどかかるでしょうが、何が起きているかわからないままいたずらに時間を浪費するよりは利口かと」
「なるほど、良い案だ。ならば本陣の兵を早速――」
「お待ちください」
龍興の声を遮ったのは、竹中半兵衛であった。
「……半兵衛殿、まだ何か?」
露骨に鬱陶しそうな顔をする弘就を他所に、半兵衛は続けた。
「このまま兵を分ければ敵の思う壺。かつての桶狭間のように、奇襲を貰えばひとたまりもありません。もし浅井が兵を伏せていたなら、たちどころに急所を突かれて瓦解する事になりましょう」
「ならば半兵衛殿がその伏兵とやらに備えられればよろしい。先の戦で浅井に策を看破されて以来、半兵衛殿は随分慎重になられたようだ」
半兵衛の指摘も弘就は馬鹿にするように取り合わず、そして周りの者たちも半兵衛を馬鹿にするように笑う。
そして斎藤龍興も、そんな弘就の言葉を鵜呑みにして本陣の兵を二つに分けたのだった。
――どいつもこいつも。
自身の主とは言え、斎藤龍興の愚かさに頭を抱えたくなる。
竹中半兵衛は昔から頭がよく切れる。その分、常人には理解が及ばない域まで考えが及んでしまう。
何故この程度の事がわからないのか。半兵衛が少し考えればわかる事ですら理解できないこの者達は、一体どこで頭を使っているというのだろうか。
なまじ頭がよく切れる故に他者より数手先まで見えてしまう半兵衛は、いつもこうして自分の考えが理解できない者達に苛立ちを募らせていた。
自身同様に頭の切れる浅井長政も、同じような悩みを抱えているのか。それとも――
「奴と私で、一体何が違う……」
「……? 何か申されたかな、半兵衛殿」
胡散臭そうに視線を半兵衛へ向ける弘就。
しかし彼の瞳に映ったのは、いつもの涼やかな表情をした半兵衛の姿だった。
「……いえ。私は備えに入ります故、これにて失礼致します」
そうして足早に陣を去る彼の姿に、弘就は半笑いで告げた。
「うむ、ゆるりと備えられよ、半兵衛殿」
そうして、彼の言葉に便乗するようにして『はははは!』とわざとらしく笑う者達を無視し、半兵衛は陣を後にした。
……この時、彼らは気づくべきだったのだ。
半兵衛の、凍るような表情に。
そして――
「……やはり、奴に勝つには、自ら国を持つより他はないか」
――彼がそう、静かに呟いたことに。
怪しく輝く龍の瞳は、そうしてただただ、次に為すべきを見定めたのであった。
◆ ――
こうして竹中半兵衛が備えに入った頃、南宮山での戦況も動き始めていた。
斎藤兵の出足が鈍り始めて居たのである。
始めこそ恩賞欲しさに前進を続けて居た斎藤兵だったが、何度も何度も彼らの進軍を跳ね返し、そして死体の山を築き上げる浅井の兵に恐れを抱き始めたのだ。
また、丁度本陣では日根野弘就の采配によって兵を二手に分けた頃だったため、続々と送られていた後続の兵も勢いが衰えていた。
これらの事が重なり、浅井軍と斎藤軍の間には奇妙な空間が生まれつつあった。
「如何致しますか」
そう長政に問うのは藤堂虎高。
蒼鷹隊の構えるファランクスと言う陣形は、動きが鈍く守りに特化した密集陣形だ。
そのためこうなると全く使い物にならなくなる。
盾と盾とを重ね合わせて長い槍を正面に無数に構える都合上、言ってみれば全員が二人三脚を行っているような状況で、転進はおろか前進すらままならないのが一般的だ。
そのため、敵が攻めてこなければただの置物と化してしまうのである。
これを防ぐためには一度陣形を解いて前に進むしかないが、そうすれば当然、そこへ隙が生まれる訳だが――
しかし、長政にはその程度想定内であり、そのための備えも十全に行なっていた。
「当然、前進する」
長政の言葉に、虎高は「はっ!」と応えるとすぐさま声を張り上げた。
「全隊! 進軍準備!」
直後に鳴り響く竹笛は、やはり一定の拍子で「ピッ、ピッ」と鳴り始める。
その音に合わせて「えい、えい」と声を上げ始めた蒼鷹隊は、合わせて足を左右交互に踏み鳴らす。
そして。
「進め!」
虎高の声に合わせ、一斉に右足を踏み鳴らすと、左足、右足と綺麗に揃えて進軍を始めたのである。
ザン、ザン、と一歩一歩確実に進み始めた鉄の壁。
盾も槍も乱れる事なく、一斉に前へ前へと進み出る。
確かに、まるで二人三脚のように足並みを揃えて進軍する事は非常に難しい。
しかし、不可能ではない。
蒼鷹の兵であれば、この高度な要求ですら可能にできる。
やがて折れた槍を踏み越え、刀を踏み越え、斎藤兵の死体の山を踏み越えて進み出た蒼鷹隊。
時に兵が躓き、隊列が乱れたとしても、すぐさま次が進み出て壁を形成し、新たな秩序が作り出される。
秩序が消え失せ混沌と化す戦場において、その様はまさに異様。
その異様な鉄の壁がみるみるうちに迫りくれば、既に恐慌状態の斎藤軍がどうなるかなど想像に容易い。
やがて鉄の壁から逃げるようにして次々に斎藤兵が逃亡を始め、足を踏み外して山道を転げ落ちる者、後続の間をかき分けて逃げる者など続々と現れ始めた。
彼らに既に、浅井軍と戦おうと言う意志は一切見られない。
これを好機と見た長政は更に声を上げる。
「今こそ好機。全軍、これより山を下り、そのまま本隊と合流する!」
長政が声を張り上げれば、その声に合わせてピィー、と甲高い笛の音が鳴る。
そして。
「突撃ーッ!」
長政の大声が辺りに響き渡り、その声に合わせて『オオーッ!!』と大声を上げた蒼鷹隊は、盾の壁を崩すと一斉に槍を突き上げた。
「やァらいでかあッ!!」
『やらいでか!』
「やァらいでかあッ!!」
『やらいでか!』
湧き上がる浅井軍はたちまち攻勢に転じ、逃げ遅れた斎藤兵を次々討ち取っていく。
そしてその誰一人として討ち取った首には目もくれず、次なる敵を求めて前へ進み出て来るのだから追われる側には恐怖しかない。
その恐怖に襲われて、踏みとどまっていた斎藤兵達もついに前線を放棄して逃げ出し、ついに前線は崩壊。
この頃になるとたかが数百の浅井兵を討ち取って手柄を立ててやろうと考えていた者達は、とっくに骸となって地面に転がっていた。
「行くぞ、続けェ!!」
ここぞとばかりに長政は叫び散らし、そして駆け出す。
その長政を追うようにして蒼鷹隊も一斉に駆けだした。
「殿をお守りせよ! もし殿が傷一つでも負えば我ら蒼鷹隊末代までの恥! 殿を前に立たせるな! 死ぬならば殿の前で死ね!」
負けじと虎高も怒鳴り散らす。その声に充てられたのか、長政の前には次々と蒼鷹隊の兵士達が集まり、かつての野良田を彷彿とさせるように長政の前に次々と味方が進み出る。
もはや斎藤との戦いと言うより、長政と蒼鷹隊の一番槍の奪い合いと言った方が正しい様相に、斎藤兵達も思わず道をあけて行く。
彼らの前に下手に進み出れば、たちまち鉄の盾で殴られ、槍で串刺しにされ、黒い具足で踏みつぶされるに違いない。
「鬨を挙げろ! えい、えい!」
『オオーッ!』
「えい、えい!」
『オオーッ!』
鉄の鎧や盾を抱えて、その上で走りながら大声を張り上げると言う滅茶苦茶な力技さえも可能にする屈強な兵は、鬨の声と共に瞬く間に山を駆け降りた。
これに驚いたのは当然、山のふもとに布陣していた斎藤龍興である。
「な、何事だ!」
「お屋形様、敵の奇襲にございます! ここは危のうござる!」
家臣らに急かされ、何が起きているのかわからないまま斎藤龍興はすぐさま馬に跨って駆けだした。
更にはそれに続いて弘就を始めとした重臣らも、碌に戦わずに逃げ出していく。
そんな総大将達の姿を見た者たちも敗北を悟ったのか瞬く間に恐慌状態に陥り、散り散りに四散し始めた。
「えい、えい!」
『オオーッ!』
「えい、えい!」
『オオーッ!』
そんな混沌とする戦場の中、けたたましい大声と共に浅井軍の勝鬨が戦場に響く。
その大きさたるや、未だ浅井軍と戦っていない者達や南宮山を迂回していた兵達も、まさか斎藤龍興が討たれたのではないかと勘違いしたほど。
そうして長政達が南宮山のふもとへたどり着くころには斎藤軍は壊乱状態に陥り、誰もが四方八方散り散りに逃げ始めていた。
それは、浅井軍の完全勝利を意味していたのだった。
「斎藤兵一万を散々に討ち取ってやったわ! 見たか斎藤よ、これが我ら浅井の力よ!」
かつての野良田の戦いの折に長政が告げた天下への躍進。まるで夢物語のように思えたそれが、途端に現実味を帯び始める。
このまま美濃へ攻め入り、西美濃の地をかすめ取る事が出来れば浅井の地盤も盤石となるかもしれない。
そんな思いと共に、浅井軍は逃げ惑う斎藤軍の残党へ更に襲い掛かる。
既にこの頃には浅井に対抗しようと言う殊勝な者達はとっくに死に絶えており、誰もがただただ逃げ惑うばかり。
このまま勢いに任せ、斎藤龍興を討ち取ってやる。そんな決意と共に視線を敵の逃げた東へ向けたその時だった。
――長政の視線に入ったのは、燦然と兵を整えた部隊が蒼鷹隊の行手を阻むように布陣する光景だった。
たなびく旗に刻まれた、その家紋は九枚笹。
忘れるわけもない。それは紛れもなく、竹中家の家紋である。
その旗を見た瞬間、先ほどまで血が上っていた長政の頭が一瞬にして冷え切り、理性からか、それとも本能か。途端に右腕を振り上げて蒼鷹隊に静止を指示した。
長政の腕が振り上がった瞬間、辺りには竹笛の甲高い音が鳴り響き、乱戦状態に陥り始めていた蒼鷹隊はすぐさま隊列を組み直す。
これによって逃走する斎藤兵の多くを取り逃したが、そんな事はどうでも良かった。
「竹中、半兵衛……!」
長政の視線の先、陣するは竹中半兵衛。
これ以上の勝手は許すまいとばかりに布陣する敵軍に、恐れの色は一切見られない。
ただ静かに、これより先に踏み込めば討ち取る。そんな殺意を見せるばかりだ。
「浅井備前守……!」
奇しくもこの時、竹中半兵衛もまた視線の先、遠くにたなびく三つ盛亀甲に花菱の家紋を視線に捉えた。
戦場の喧騒の中、しかし両者の間には張り詰めた緊張と沈黙が満ちる。
「殿! ご無事でござるか!」
その沈黙を破ったのは、赤尾清綱、そして遠藤直経率いる浅井軍本隊だった。
錯乱状態に陥った斎藤兵を次々討ち取りながら、浅井軍の本隊が蒼鷹隊に合流したのである。
「あれは……竹中! 追撃致しましょう!」
遠藤直経がそう声を上げるが、しかし長政は首を横に振る。
「いや、今はよしておこう。我らには既に大義なく、そして時を逸した。流石は竹中半兵衛、見事な布陣よな」
静かに直経を嗜める長政。そこにはもう、周りに振り回されてがむしゃらに戦うばかりの浅井家当主の姿は無かった。
そうして最後にもう一度だけ、竹中半兵衛が居るであろう敵軍を一瞥すると、長政はそのまま静かに兵を退く。
その後背を竹中の兵が追撃する事はとうとう無く、浅井軍は近江まで引き上げたのだった。
◆――
この戦いは、後に斎藤軍一万を浅井軍五百が破った南宮山の戦いとして、斎藤龍興の戦下手と共に歴史に記される事となる。
浅井の討ち取った敵は八百余りにも及び、討ち取られた兵は僅か二十余り。
その二十も全てが長政の静止を無視して竹中隊と交戦した者達であり、蒼鷹隊に限って言えば死者無しと言う大快挙であった。
この戦いで家臣の信頼を失った斎藤龍興は、浅井を恐れてこの後の生涯で一度たりとも北近江へ侵攻する事は無かったと言われている。
そしてそんな斎藤龍興とは対照的に、近江の国衆や周りの大名達は、湖北の鷹、浅井長政の勇名を知る事になる。
それはかつて六角に膝を屈した浅井の名を、天下の者達に知らしめた瞬間であり、そして――
「湖北の鷹、浅井長政……で、あるか」
――戦国時代の全てを塗り替えた漆黒の炎。後に魔王と呼ばれるその男の耳に、長政の名が届いた瞬間でもあった。
この戦いで一躍天下へと羽ばたき始めた長政の運命は、時代と歴史のうねりに呑まれて大きく変質し、新生していく。
かつて破滅に彩られた結末が、この時から大きく変わり始めていた。
しかしその変質した運命が、やがて予想だにしない形で目の前に立ち塞がる事など、この時の長政には知る由もなく。
今はただ、初陣となるこの戦いを勝利で飾る事ができた喜びに酔いしれるばかりであった。
◆第一部完◆
ここまでお読み頂き有難うございます。
良ければブックマークの上、ページ下部のスクロールした先にある『☆☆☆☆☆』をタップ頂き、評価のほどお願い致します。