031_永禄五年(1562年) 南宮山の戦い2
「まずは上出来、と言ったところか」
戦果を見て、長政がニヤりとほくそ笑む。
密集陣形ファランクス。
それが長政の指示した、蒼鷹隊の布く陣形の名前だった。
ファランクスの歴史は古く、紀元前にまで遡ると言う。
歩兵戦が主流だった古代において、盾と槍を持った兵士達が横一列に並んで敵に当たる基本的にして最も強固な陣形こそがこのファランクスだ。
強固ゆえに動きは遅く、方向転換もままならない弱点があるものの、逆に言えばそれらを必要としない今のような守りの布陣においては未だに最強格の陣形と言っていい。
それを証明するかのように、古代の戦いでは何度もこのファランクスによって敵を撃滅する戦いが幾度も生まれ、中には数百万の敵軍をファランクスを組んだ数百の歩兵だけで撃滅したと言う記録さえあるほどだ。
長政は、このファランクスでの戦いを一年かけて戦国時代に蘇らせたのである。
「苦労した甲斐がありましたな」
隣に控える藤堂虎高がそう呟くと、長政は「全くだ」と頷いた。
ここに至るまでに、課題は山ほどあった。
まずは盾。戦国時代には矢を防ぐための木製の矢盾はあっても、剣や槍を防ぐための盾という歴史はない。
これは半端な盾では刀に簡単に貫かれる事、刀や槍、弓と言った戦国時代の主力武器は全て両手で使用するため盾を持つ事が出来ない事、そのため盾の代わりに籠手や鎧が普及した事などが理由として挙げられる。
そして当然、鉄製の盾を作ろうにも製法は碌に残っていなかった。
そのため鉄の盾を蘇らせるのにも、近江の下坂村に居を構える鍛冶衆が一年をかけてようやく、五百の数を揃える事が精一杯だったのだ。
しかしその成果は十分で、斎藤軍の槍や刀をしっかりはじき、襲い来る斎藤兵を押し返していた。
少々金はかかったが、それに見合うだけの戦果だと言っていいだろう。
とは言え鉄の盾を再現したところで、それを扱う兵士が弱くては意味がない。
蒼鷹隊の兵をどうするか。それが長政にとっての二つ目の課題だった。
この時代の兵士と言えば、金で雇った傭兵である足軽と、農民達から徴兵する農兵の二種類に大きく分けられる。
この頃は農兵が一般的で、後に信長が実施した兵農分離によって兵士を金で雇う文化が一般化し、後に足軽が主力となっていく。
しかし、この頃の足軽は非常に弱いとされていた。
理由は単純で、守るものが違うからだ。
地元から徴兵された農兵たちは負ければ自分達の村や畑を失う事になるため、意地でも負けられないという強い意志がある。
そのため特に防衛戦になると無類の強さを発揮し、時には数の差さえ覆す事もある。
しかし足軽は金で雇われているため、土地に対する執着も主人に対する忠誠も無いと言っていい。
金を貰うために兵士になった以上死んだら元も子も無いと言わんばかりに、形勢が悪くなると逃げ出す弱兵になるのだ。
史実では織田の兵は弱兵であると散々嗤われる事になるのだが、その一番の理由はこれだ。
他の戦国大名に先駆けて足軽を主力にするようになった織田兵は、戦いになるとすぐに離散する弱兵ばかりとなってしまったのである。
そのため信長はこの弱点を克服するため、金をかけて槍を長くし、装備を買い揃え、数を増やし、農兵が戦えなくなる農繁期に敵を攻める事で戦わずに圧倒する軍勢を作り上げて弱点を補った。
しかし、これを真似できるほどの財力は今の浅井にはまだ無い。
そこで長政が考えたのが、農兵をそのまま足軽にする徴兵制度の実施だった。
昨年からの内政改革によって北近江では千歯こき、洗濯板、近江鍬と言った未来で産まれるはずの道具の数々が既に生み出されている。
その結果農民達の労働は比較的楽になったが、同時に働き口が減るという雇用問題も生まれ始めていた。
今はまだ改革の規模が小さいため大きな問題にはなっていないが、いずれは労働力が余剰となり、不要となった人口が口減らしのために村から追放され、行く当ても無く賊へ身を落とす、と言うような事になりかねない。
そこで溢れた労働力の受け皿として、彼らを一時的に浅井家が雇い、訓練して鍛える事でこの雇用問題の解決と調練を行う事としたのだ。
行った事と言えば単純で、長政が作らせた未来の道具を各村へ貸し出す代わりに農民を数名ずつ集め、彼らを足軽として金で雇っただけ。
そして定期的に人員を入れ替えつつ訓練する事で、ある種の国民皆兵制度のような物を導入したのである。
これによって元々規律や軍規からはかけ離れ、呼ばれたら集まり戦っていた烏合の衆のような農兵達に、軍隊における秩序を与える事になったのである。
更に長政は集まった彼らに対して、徹底的にラジオ体操と行軍の訓練を行った。
この時代の農兵たちは食糧事情の都合もあって体こそ細めだが、普段の農作業で鍛えられているためか筋力や体力に関しては現代人のそれよりも遥かに勝る。
そのため重要なのは筋力・体力をつける訓練よりもいかに指示通り動けるかという練度だと感じた長政は、手始めに農兵たちに一緒に戦うという連帯感を持たせるため、ラジオ体操を覚えさせる事にした。
ラジオ体操は基本的な運動ができる上に、特定のリズムで動きを合わせるという集団行動の基礎を意識付けるにはもってこいの文化だ。
そのため長政はラジオ体操の内容を思い出しつつ、一部あやふやな部分は自分で体操を付け足して浅井式準備運動を生み出した。
これを繰り返し農兵に覚えさせる事によって準備運動という概念を理解させ、村に帰ってもこの体操を普及させることで基礎体力の向上と、複数人で一緒に動く団体行動の意識付けを行ったのである。
結果は上々。蒼鷹隊の動きが一切乱れる事なく統率されていることからも明らか。
訓練の時点でそれを確信していた長政は、次に行軍訓練に力を入れた。
元々全く違う村で育った者達では息も合わせにくく、意識も違う。そこで長政は現代の体育の授業をヒントに、軍隊の統率に竹笛を用いる事にしたのである。
そもそも、僅か五十名ほどの行軍練習ですらままならないこの戦国時代に対して、現代では数百人規模の人間が足並みをそろえて行軍・転進・停止を行っていた。
それが何故可能かを考えてみれば単純な話で、小学校の頃から気を付け・休めといった集団での動きに必要な基本的な教育から広がる・集まる・前にならうと言った整列に必要な動きまで義務教育で学んでいるからだ。
そのため咄嗟に統率が必要な場合でも笛の音に合わせて動くという意識付けができており、集団で動く事が比較的容易なのである。
これを真似して竹笛に合わせて足を動かすという基本を徹底的に守らせ続けた結果、ようやく数百人規模の統率を笛の音一つで行えるようになったのである。
ゆくゆくは鼓笛隊のように笛と旗、視覚と聴覚で動きを合わせ、数千、数万規模の軍隊を作り上げる事が目標だ。
そして最後の課題となったのが食料事情である。
この飢餓の時代では食べられればそれで良いという考えが蔓延しており、栄養バランスは二の次。
その上仏教が現代よりも浸透しているため五畜と呼ばれる鶏・羊・牛・馬・豚の肉は食べてはならないという考えが浸透していた。
そのためどうしても筋肉のつき方に限界があり、鍛えてもある程度のところで頭打ちになってしまう。
そこで長政は蒼鷹隊の訓練の一環として山に入り、畑を荒らす鹿や猪を狩って肉を食べるようにしたのだ。
蒼鷹隊の実践的な訓練になる上、肉を食べて栄養バランスを整えたことで体つきも良くなり、また畑を荒らす野生動物が減った事で畑の収穫量も上昇した。
これらの施策が合わさる事で、蒼鷹隊はたった五百の兵でありながら数千の兵にも勝る力を見せるに至ったのである。
しかし、この徴兵制度は戸籍が存在しない今の時代では徹底させるには少々難点が多く、現状では浅井直轄領でのみの運用に留まっている。
ここに揃う蒼鷹隊は、そんな直轄領から連れて来た精鋭なのであった。
「そろそろか。前線の兵を交代させよ」
「はっ」
長政の策が嵌まり次々と斎藤兵を斃す浅井勢ではあるが、優勢とは言え人と人とが殺し合う最前線では気力や体力の消耗が激しくなる。そのため定期的に休ませる事が必要だ。
頃合いを見て藤堂虎高が合図を出すと、竹笛を持った兵がピィーと甲高い笛の音を吹き鳴らした。
南宮山に笛の音が響き、気付いた斎藤兵達は何事かといぶかしむ。
すると先ほどまで怒声を挙げながら戦っていた蒼鷹隊が一斉に静まり返り、不気味な沈黙を生み出し始めた。
「後発隊、前へ! 陣形組み次第、先発隊は後退!」
そんな不気味な静寂の中、虎高の声だけがはっきりと響き渡る。
直後、ピッ、ピ。ピッ、ピ。と規則的になり始めた竹笛の音に合わせて、蒼鷹隊が一斉にその場で足踏みを始める。
「えい、えい。えい、えい。えい、えい」
更にその音に合わせて声をあげ始めた蒼鷹隊。
まるで威嚇するようにも見えるその動きに、がむしゃらに突撃を行っていた斎藤兵達も思わず動きを止めた。
「行動ー、開始!」
笛の音に合わせて虎高がそう叫べば、蒼鷹隊の兵達も笛の音に合わせて一歩ずつ移動を開始する。
盾を構えた者達の間から槍が一斉に突き出され、斎藤兵が怯み開いた前線に割り込むように後発隊が前へ進み出る。
そしてその兵達が盾を構え、槍を突き出し、新たな鉄の壁を生み出す。その一瞬の交代に初見で対応できる者は誰も居なかった。
秩序が崩壊し、混沌に溢れ、時には総大将の指揮すら届かない戦場において、数百人規模の兵が一糸乱れなく足音を立てて移動する様はまさに異様。
ましてやそれが黒と青に彩られた、全く同じ鎧をまとう者達の動きとなれば、その動きだけで練度の高さを伺わせる事となる。
その上今まで戦い続け、ようやく消耗の色を見せ始めていた敵兵が一瞬にして後ろで控えていた者達と入れ替わり、再び士気高く待ち構えているのだ。
この陣形交代は、斎藤兵の心を折るには充分すぎた。
「この蒼鷹の壁、越えられるものなら越えてみよ」
不敵に笑う長政の視線の先で、斎藤兵らは前にも後ろにも進めない混乱の渦中へと叩き落されたのだった。