029_永禄五年(1562年) 蒼き鷹の兵
永禄五年(1562年)、四月。日根野弘就救援を大義名分として二千の兵を挙げた浅井と、その応戦の為に一万の兵を挙げた斎藤が南宮山の東、垂井の地にてついに激突する。
初戦こそ予め備えていた浅井軍が戦況を有利に進めていたが、浅井長政自らが率いているとは言えたった五百の兵で戦う浅井に対して、迎え撃つ斎藤軍の兵は一万。
いくら野良田で三倍の兵を退けた浅井軍と言えども、流石に多勢に無勢と言うもの。この兵力差に抗う事はできずにすぐさま後退を始め、逃げ込むようにして南宮山へと兵を退いた。
これを更に追撃しようとする斎藤軍を止めたのは、父の竹中重元亡き後、竹中家の家督を継いだ竹中半兵衛であった。
「お待ち下さい。余りにも奴らの撤退が早すぎます。それに、劣勢であるにも関わらずあの統率。何か裏があるに違いありません」
敗色濃厚な撤退と言うものは、得てして兵の逃走が相次ぐものだ。しかし、その兵の逃走が一切見られない事が、竹中半兵衛には違和感として感じ取れた。
それに、元から兵数に差があるにも関わらず、そこから更に兵を分けて、あろうことか総大将の浅井長政自らが僅かな兵と共に前線へ出るなど、常識では考えられない愚行と言える。
以前の半兵衛であれば、この愚行を冒す長政を鼻で笑い、そして正面から叩き潰していた事だろう。
しかしその驕りが隙になり、事実上の敗北に繋がった二年前の戦いが脳裏を過ぎった。
絶体絶命の窮地に追い詰めたはずの必殺の策は、長政の鮮やかな指揮と軍略によって看破され、あろう事か逆に半兵衛が追い詰められる結果となった。
それどころか、昨年の侵攻の際にはひた隠しにしていたはずの斎藤義龍の不調まで看破され、挑発するかのようにたった五百の兵だけを城に詰められて、まんまと追い返された事もある。
長政の智謀は半兵衛の予想をはるかに凌駕しているのかもしれない。今まで考えた事もなかった自分よりも頭の切れる存在に、半兵衛は一抹の恐怖すら覚えていた。
一度その考えに至ってしまえば目の前で長政が行っている愚行も、何か考えがあっての策に思えて仕方がない。
現に南宮山は鬱蒼と草木が生い茂る深い山だ。それらによって大軍での侵攻はまず困難で、軍を進めるには大人数人が横に並ぶのが精いっぱいの細い山道を通るしかない。
少数が多数に対抗するには隘路(狭い道のこと)での戦闘が大原則。その基本に則った理に適う布陣だ。
半兵衛の直感が囁く。浅井長政は何かを企んでいる、と。
「随分と慎重ですな、半兵衛殿。よもや臆した訳ではありますまいな?」
そんな半兵衛をあざ笑うかのように声を発したのは、この盤面を描いた日根野弘就であった。
日根野弘就は昨年、斎藤龍興に浅井を誘い込み撃破すべきだと進言し、自身が造反するという文を浅井に届けて西美濃を攻めさせたのだ。
西美濃の国衆は今、織田の調略によって織田家へ寝返ろうとしている。それを浅井に攻めさせる事で両者の力を削ぎ落とし、反乱を起こさせないようにすることが狙いだ。
更にその浅井を斎藤が追い返す事で、西美濃衆へ恩を売る事ができれば上々、と言うのが日根野弘就の策であった。
最も、これによってがら空きになる美濃の南、対織田との戦線に関しては、半兵衛の策によって織田信清が斎藤側へ寝返ったため膠着状態となり、彼の策を実行できた。
つまりこの策が実行できているのは他ならぬ半兵衛のお蔭なのだが……策が決まったとばかりに増長する今の彼は、そんなことなどお構いなしだった。
「日根野殿、あまり浅井備前守を見くびらない方がよろしい。将としての器量もさることながら、あれは知略にも秀でている。日根野殿の策も看破されているやもしれませぬ」
半兵衛が忌々しそうにそう呟くも、負け惜しみとしか受け取らなかったのか日根野弘就は鼻で笑った。
「どちらにせよ南宮山へ入った以上、正面から攻めるより他は無い。……ですな、お屋形様?」
そうして弘就が視線を向けた先に座るのは此度の斎藤軍総大将、斎藤龍興。
彼は弘就の言葉に「あ、ああ。そうだ」とまるで周りの様子を伺うように視線をさ迷わせながら頷いた。
これが現在の斎藤家の実情だった。
お屋形などと、役職だけは立派な斎藤龍興は、弘就を始めとした奸臣たちの言いなりで、いつも彼らの顔色を見て答えを選んでいる。
確かに先代、斎藤義龍が残したいくつかの問題を解決するために奔走したのは弘就らであるが、そのために他の重臣達を遠ざけていては意味がない。
しかしそんな半兵衛の苦言はとうの昔に蹴られており、斎藤龍興のその言葉に弘就らは「おおっ」と声をあげた。
「浅井の弱兵何するものぞ。近江の田舎侍如き、我らの軍をもってすれば一網打尽というもの。皆、臆せず進め! 進軍開始!」
日根野弘就が勢いに任せてそう叫べば、随所で『オオーッ!』と鬨の声が上がり、斎藤軍は士気高く南宮山へ侵攻を開始した。
そんな熱気渦巻く戦場でただ一人、竹中半兵衛だけを置き去りにして。
「……」
半兵衛の胸中に渦巻く得も言われぬ不安。その不安を抱えたまま、彼は静かに視線を南宮山へ向けたのだった。
◆――
「朝倉宗滴公曰く、戦の前に敵が弱兵などと侮る事を兵に言うべからず」
士気上がる斎藤軍とは対照的に、粛々と陣を整えるのは南宮山に籠る浅井軍であった。
「それは?」
「かつて我ら浅井の窮地を救い、そして浅井を戦国大名として独り立ちさせてくれた朝倉家の守護神の言葉だよ」
朝倉宗滴。それはかつて朝倉家に君臨していた老将の名である。
朝倉家に仇なすあらゆる外敵は、この朝倉宗滴の前に悉く打ち払われ、朝倉家の隆盛を築き上げた立役者だ。
あの上杉謙信、武田信玄すらも一目置いていたと言われ、朝倉宗滴の死はかの有名な川中島の戦いにすら影響を及ぼしたと言う。
その老将は生前、自身の長い戦いの経験から幾つもの言葉を残している。
中でも「犬とも言え、畜生とも言え。勝つ事が本にて候」という言葉は有名だ。
犬と言われようと、畜生と言われようと、武士は勝ってこそであるという言葉の通り、朝倉宗滴はその生涯で一度たりとも敗北を経験した事が無いのだという。
中には「名将に必要な事は敗北を知る事である」という言葉を残しながらも、「自分は一度の敗北も知らないから名将になる事はできないだろう」という皮肉めいた言葉まで残している。
きっとそれは、様々な戦いから得た教訓で己を戒め続け、慢心する事なく堅実に勝ち続けた彼の生涯を表しているのだろう。
そんな朝倉宗滴の言葉の一つが、先ほど長政が口にした「戦の前に敵が弱兵などと侮る事を兵に言うべからず」というものである。
「敵を弱兵だと侮れば、兵の士気は上がるだろう。しかしその敵兵を打ち崩す事が出来なければ、弱兵のはずの敵を倒せない事に味方が焦りを覚えて動揺する。故に敵を侮るような事は言ってはならないのだ」
「なるほど、勉強になります」
そう納得したのは藤堂虎高。かつて長政の窮地を救ったこの男は、今は長政の懐刀として戦場に身を置いていた。
その藤堂虎高が身に纏うのは黒一色で染められた鎧。鉄部分を繋ぐ紐や、その下に纏う服は青一色に染められ、そのせいか黒い鎧がほのかに青く輝いているようにも見える。
辺りを見渡せば粛々と陣を構える兵達も、そんな虎高同様に黒と青の鎧を身に纏っていた。
「蒼鷹隊、行けそうか?」
長政が虎高へ声をかける。
その問いに虎高は、しっかりとした自信を見せて頷いた。
「正直、ここまで練度高く統率の取れた兵は見た事がありません。確かに数で劣ってはいますが、この隘路であれば必ずや戦果を挙げられるでしょう」
その答えに長政も頷いて答えた。
藤堂虎高率いる長政直轄の精鋭部隊、蒼鷹。血気盛んな若鷹、蒼鷹の名を冠するこの隊こそ、長政が一年をかけて作り上げた渾身の部隊である。
昨年の太尾城攻め失敗で露呈した兵の練度の低さを克服するため、長政は一年に渡ってこの蒼鷹隊を育てあげた。
この蒼鷹隊こそが、長政の運命を変えるための一手になるはずだ。
「例え一万の兵でも、隘路では我らを囲めまい。正面から当たれば、兵の質に勝る我らの優位は揺るがぬ」
そう告げた長政は、辺りを見渡しながら「それに」と続ける。
「この南宮山の周りには、寺社が幾つもある。よほどの気狂いか、或は天下に臨む為政者でも無ければ、火攻めも碌にできまい。この南宮山は、どこまでも寡兵の味方よ」
寺ごと山を焼いた男の名を知る長政は、言いながらその男の顔を思い浮かべた。
幾度も見た、しかし実際の顔はまだ一度も見た事がないその男と、いずれこの蒼鷹隊を連れて戦う事になるのかもしれないという思いを抱えて。
「殿。蒼鷹隊、各種準備完了致しました」
そこへ兵の一人が現れ、その兵の言葉を虎高がそのまま長政へ伝えた。
「よし、ならば皆聞け! 我らは敵将日根野弘就の卑劣な罠によって窮地に陥った! 敵は一万の大軍、まともに戦えば勝ち目はない!」
長政の常人離れした声量で、言葉が辺りに響く。作業を行っていた兵達の視線が一斉に長政へと注がれる。
それをしっかりと見届けた後、長政は言葉を続けた。
「しかし、私は知っている! この一年、訓練に励んだお主たちであればこの苦難を超えられると! 敵を打ち払い、我ら鷹の軍の力を天下に見せつける!」
長政の言葉に、藤堂虎高を始めとした蒼鷹隊の者達の意気が上がる。
「皆の者、何もやらずには死ぬまいぞ! ――やらいでかあッ!!」
『オオォーッ! やらいでか! やらいでか! やらいでか!」
長政の声に合わせて藤堂虎高が、そして蒼鷹の兵達が次々に声をあげ、やがて大きな鬨の声として南宮山を覆う。
興奮が抑えきれないのか、足を踏み鳴らし、槍の石突を地面にぶつけ、鎧を叩き、ドン、ドンという轟音と共に彼らは何度もやらいでかと大声で叫ぶ。
これから二十倍近い数の敵と戦うとは到底思えない程に、士気高く吼える彼らの瞳に宿るのは、ある種確信めいた勝利への渇望。
現代知識の粋を凝らして鍛え上げられたこの蒼鷹隊は、紛れもなく戦国最強であると、この時長政は確信を抱いたのだった。