028_永禄五年(1562年) そして初陣へ至る
近江の東、美濃国。かつて斎藤義龍が治めていたこの国を、彼の死後から約一年の間治めているのは義龍の子、斎藤龍興である。
後の歴史に凡愚と称されるこの斎藤龍興だが、そんな彼が若くしながらも美濃の地を治める事が出来ていたのは、ひとえに斎藤義龍時代に築き上げた体制と、それを支える重臣たちによるところが大きいだろう。
しかし、どの時代にも奸臣は居るもので、斎藤龍興はやがて酒と女に溺れるようになり、その頃から自分にとって都合の良い事を言う者ばかり傍に置き、西美濃の国衆を始めとした古参の者達を政務から外すようになっていた。
美濃を狙う織田信長はこれに好機を見出す。
手始めに西美濃三人衆と呼ばれる、斎藤龍興の代になってから不遇な扱いを受けるようになった者達に調略を仕掛けて内通を促した。
一方の調略を受けた者達も好都合とばかりに造反の動きを見せ始め、織田の美濃攻めがいよいよ転機を見せようとしていた。
長政の手元に一通の文が届いたのは、そんな美濃を巡る新たな戦いの火ぶたが切られようとしていた頃の事だった。
「して、文にはなんと?」
突如届けられた書状に視線を落とす長政へ、政澄がそう聞いてきたため投げやり気味に書状を差し出した。
「西美濃三人衆を我ら浅井が攻めれば、それに合わせて造反すると書かれておる」
「拝見致す」
その文は、日根野弘就と言う者から送られた物だった。
日根野弘就と言えば、斎藤道三の代から斎藤家に代々仕える重臣の名だ。
斎藤義龍の代で頭角を現し始めた日根野弘就は、斎藤義龍亡き後も実務経験少ない斎藤龍興を支え続けていた。
――と言うと聞こえはいいが、先の西美濃三人衆を始めとした国衆を政務の中心から排除したのもこの男で、斎藤龍興を堕落させ、自分達が美濃の中枢を握ろうとしているのは明白だった。
今回の文も、そんな政争の中の一手なのだろう。
「ふむ。して、どう見ますか? 罠にしては余りにもあからさますぎるように思えますが」
文を読み終えたらしい浅井政澄がそんな事を口にする。
確かに、罠の可能性が大きい。
長政の挙兵に合わせて斎藤が迎え撃ち、そして背後から六角が脅かすという、かつて長政が手痛い反撃を喰らった竹中攻めの記憶が蘇る。
あと一歩間違えれば自身の首が飛んでいたかもしれない。そんな苦い思い出を、白湯と共に飲み下す。
長政が気になっているのは、政澄も指摘したその策の杜撰さだった。
「六角の様子は?」
「直経の報告によれば、三好との戦いに手いっぱいの様子。背後を突かれる心配はないかと存じます」
政澄の言葉に、長政はふむと頷く。
この頃の六角はと言えば、昨年の夏には地蔵山で三好と小競り合いを開始し、秋にはついに三好との決戦に臨んでいた。
この戦いで三好と六角・畠山連合軍は互いに将が討たれる痛み分けに終わったが、それが転機となって徐々に形勢は連合軍有利となり始めていた。
そして先月には久米田の戦いで三好家当主、三好長慶の弟でもある総大将、三好実休を討ち取る戦果を上げ、躍進劇を見せている。
三好実休は三好家の本拠地である四国方面を管轄する、三好家の屋台骨とも言える人物。
その討死は三好にとっては痛すぎる結果だった。
これにより京からは実質的な政務を握っていた松永久秀らが手を引き、連合軍はその優位を盤石なものとしていたのだった。
しかし三好との戦いが終わった訳ではない。三好はまだ虎視眈々と京を狙っている。
ようやく訪れたこの好機を不意にしないためにも、六角の目はしばらく京に向けられるだろう。
浅井としても南近江の脅威が薄れている今、美濃を攻めるには好都合であった。
「美濃、か」
欲しくないと言えば嘘になる。かの織田信長が覇を唱えるにあたり、その礎となる莫大な資金を生み出したのは紛れもなく美濃と尾張の二国なのだから。
その上、昨年末の評定で露呈した通り、近頃では浅井家臣の中にも長政のやり方に不満を抱く者たちが増えている。
そろそろどこかで一戦を交え、この一年の成果を見せる必要がある。
であればこの美濃攻めは、丁度いい頃合いだと言えた。
「……一戦交えて、今の斎藤の力を見定めておく必要もあるか。織田との関係を考えれば、美濃を切り取るのはまずいとは言え戦っておくに越した事も無いだろうな」
長政が独りそう呟くと、それに政澄が答えた。
「ならば織田に書状を送っては? 織田は近頃、犬山城の織田信清が斎藤家に寝返った事で手を焼いている様子。我ら浅井が西を攻める旨を伝えておけば、向こうに恩を売れましょう」
政澄の言葉に、なるほどと頷く。
織田としても犬山城の織田信清を討伐するにあたって、斎藤家から分断したいと言うのが本音だろう。
ここで浅井が斎藤を攻めて支援を断てば、織田信長に恩を売れる。後々織田との関係を築く上で役立つかもしれない。
「よし、織田信長に書状を出そう。織田に恩を売れれば上等。もし日根野の造反が事実ならば、その上で西美濃を手に入れられる。分の悪い賭けでもなさそうだ」
「事実である場合と罠である場合、双方を頭に置いて話を進めるべきでしょうな」
「ああ。皆には春、雪融けに合わせて西美濃に出陣すると伝えよ。兵は二千も居れば充分。それから、藤堂虎高に出陣の支度をさせよ」
「虎高に? では、アレを使うつもりで?」
政澄の言葉に、長政はニヤりと笑う。
「あぁ。せっかく一年かけて備えたのだ、一度どこかで成果を確かめておきたいと思っていた所。何かと都合がいい」
「では、そのように伝えておきましょう」
そうして政澄が立ち去った後、長政は一人静かに思考を巡らせる。
一年かけて準備した、長政の運命を変えるための渾身の策。この成果によって、史実では滅亡に彩られた長政の運命が変わる事になるだろう。
「さて……鬼が出るか、蛇が出るか。俺の運命は一体どこへ転がるのやら」
薄く笑う長政が日の昇る青空を見上げれば、天高くを舞う鷹の影が蒼天の中へ消えて行ったのだった。
◆――
日根野弘就への返書と織田への書状を届け、雪が解け始めた春。長政はついに西美濃攻略のための兵を挙げた。
「これより我らは日根野弘就殿救援のため、まずは足掛かりとして西美濃を攻略する! 全軍進め!」
あくまでも大義名分は日根野弘就を救出することだという部分を強調し、西美濃攻略はその足掛かりだとしておく。
こうする事でもし罠であった場合でも、救援にきた浅井軍をだまし討ちした卑劣な日根野弘就を罵る事ができ、戦う理由付けになる。
この時代、大義名分の有無によって兵の士気が天地ほど変わるため、これがただの侵略ではなく大義を掲げた正統な戦いだと声高に主張する事は何よりも重要な事であった。
「果たして、大人しく我らにつきますかな」
皆の不安を代弁するかのように、赤尾清綱がポツりとこぼした。
「西美濃は今、斎藤と織田の間で揺れているという。斎藤からすれば、浅井の脅威から救ってやったと西美濃の者らに恩を売りたいのやもしれぬな」
遠藤直経の調べによれば、織田の調略によって織田に就くか斎藤につくかで西美濃の国衆は揺れ動いているという。
特に西美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三名は、斎藤龍興に邪険にされている事もあってか、斎藤家の中では親織田寄りになりつつあるとか。
確かに史実でもこの三名は、竹中半兵衛と共謀して稲葉山城の乗っ取りを行ったり、その後には織田に与して斎藤家滅亡の引き金を引いたりしている。
また日根野弘就はこの三名と特に仲が悪い事で有名で、さしずめ今回の援軍要請はこの三名に対する当てつけの意味もあるのだろうと長政は考えていた。
そんな読みが当たったのかどうかは定かではないが、浅井挙兵の知らせを受けた斎藤家はたちまち慌ただしく軍備を整え、当主の斎藤龍興自らが出陣したという。
その数、なんと一万。高々二千程度の浅井に対して出すにはあまりに多すぎる兵数だ。
さしずめ、西美濃衆に斎藤家の力を見せつけ、裏切りを抑止しようという狙いがあるのだろう。
「日根野から返答は来たか?」
すると長政の問いに直経が答える。
「いえ、未だ何も。企みがばれたのか、それとも初めから罠だったのか……」
それを聞いた清綱は、忌々しそうに顔を歪めた。
「我らは体のいい当て馬か。日根野め、舐めた事をしおってからに」
「どうやら我らはまんまと敵の策にはまったらしい。さて、一体どうしたものやら」
苛立つ清綱と打って変わり、全く焦った様子も見せずにそう告げた長政。
初めから罠の可能性を考えていたとはいえ、一万の軍勢を相手するにしてはやけに余裕なその表情に直経も怪訝な表情を浮かべた。
しかし、そんな家臣達の胸中を知ってか知らずか、長政は次なる指示を朗々と飛ばす。
「ではこれより、私は藤堂虎高と共に蒼鷹隊を連れて南宮山に陣を張る。あの義龍の跡継ぎが、どれほどの器か見極めてやるわ」
「では我らも――」
「いや、清綱、直経は共にこの地へ残れ。いざと言う時の退路を維持せよ」
そこへ、「しかし!」と声が割り込む。
長政の言葉に真っ先に声を上げたのは、遠藤直経だ。
「蒼鷹の兵は僅か五百名しかおりませぬ! いくら精鋭揃いとは言え、敵は一万にござるぞ!」
「だからこそ良いのだ。どの道、一当てして退くのみだ。ならば迅速に動けるよう、精兵で揃える方が都合が良い。そうであろう」
直経が「しかし……」と言い淀んだのは、長政の言い分にも一理あったからだ。
どの道、日根野の造反が嘘であった以上このまま退くしかない。しかしこのまま何の手柄も無く退けば、浅井は斎藤に恐れを抱いて逃げ出したと笑われかねない。
そしてそう笑われれば、やがて浅井を侮った周辺国の者達がこぞって北近江に押し寄せる事になる。
だからこそ最低限の、それでいて派手な戦果が必要なのだ。
その点、僅か五百の兵で一万の兵と相対したと言えば、勝てずとも生き残るだけで充分な戦果となるだろう。
「……ご自重下され、と申し上げても聞かぬのでしょうな。思えば昔から、殿は無茶ばかりをなさる。そしてその無茶を、幾度も押し通して来られたお方にござる。ならばこの孫三郎、いざという時にはこの身を盾にしてでも殿をお守り致しましょう」
やれやれと言った風に、赤尾清綱がそう告げた。
それが議論の終わりの合図だった。
長政はこれよりたった五百の兵を率いて、斎藤軍一万と決戦に挑む。
「清綱、直経、後は頼んだ。――皆、よく聞け。この一戦は、いわば浅井のこれからを決める戦いだ。ならばその一戦、生き残る事こそ最上の手柄と心得、首は討ち捨てにせよ!」
『ははあっ!』
長政の激に従い、次々と支度に入る諸将。
その姿を見ながらふと思う。
思い起こせば、初陣の日――野良田の戦いの日にはまだ、戦国大名として本当の意味で独り立ちできていなかったと。
周りに言われるがまま兵を起こし、周りに言われるがまま戦い、そして焦りの中で勝利を得た。
しかし、この戦いは違う。
自ら考え、自ら指揮し、そして決断して兵を起こしたこの戦いこそ、戦国大名たる浅井長政として、本当の意味での初陣となるのだろう。
歴史に残る事もないであろうこの戦いが、しかし浅井長政の運命を決める分岐路になる事を、肌でひしひしと感じていた。
「……まだ始まったばかりだ。恐れるな、生き残るぞ」
そう自分を奮い立たせると、長政は南宮山へと向かったのだった。