025_永禄四年(1561年) 新たな組織
夏の太尾城攻めが失敗に終わり、浅井の動きが敵に知られたため六角への大規模な攻勢がそのまま流れてから数十日後。
浅井家の当主たる長政は、今回露呈した兵の練度不足に危機感を感じていた。
春に斎藤軍一万が近江に攻め寄せた時のことを思い出す。
あの時は当時の当主、斎藤義龍が急死したため事なきを得たが、そうでなかったら浅井家は存亡の危機に立たされていた。
また今回の戦いも、大規模な攻勢に移るための最初の戦いだったからこそ、この程度の被害で済んだのだ。
これがもし一大決戦ともいえるような重要な戦いでの失態だったなら、起請文などと言う書切れ一枚で話が片付くはずがない。
それに今後は太尾城攻めのように、長政自身が出陣することなく家臣に戦いを任せる事が増えるだろう。
その際に長政が居ないから負けてしまいました、では困るのだ。
今の浅井家に必要なのは春や秋でも戦える精兵を揃える事と、長政不在でも正確に長政の意図をくみ取り、采配できる将を育てる事だった。
とは言えそんなもの、この時代の大名達は皆が求めているものだ。簡単には手に入れられないだろう。
今、浅井家で兵を独立して扱える立場にあるのは、家臣団筆頭である赤尾清綱や海北綱親、雨森清貞と言った古参衆と長政の相談役で浅井一門衆である浅井政澄。
後はいよいよの時の苦肉の策として、父の久政に兵を任せるくらいだろうか。
戦下手の父に任せたところでどうなるかは火を見るよりも明らかだが。
とは言え古参衆に関しては、長政の意思を正確に汲み取っているとは言い難く、確かに熟練ではあるものの、場合によっては朝倉に助力を求めるような事さえしかねないため本当の意味で長政の求める水準に達しているのは、浅井政澄くらいのものだろう。
また磯野員昌を始めとした他の家臣達も同様だ。未だ古い価値観を有しているため長政の意を正確にくみ取れるとは言い難く、場合によっては最悪の選択を下す事も考えられる。
どんな戦いでも後の世から見ると到底あり得ないような選択をして大敗するという事例が多々あるが、こういう場合は大抵、当時の政治情勢や仲間内での立場の問題、そして当事者同士の軋轢などが原因だ。
どう考えても戦わずに退いた方が良い場面でも、自身の失脚を望む者達から戦わずに退いた事を罪として咎められては反論できないため、あくまでも戦おうとしましたが負けました、と言う体裁を整えるのである。
その結果、国そのものが滅ぶことになろうとも、だ。
こういった下らないしがらみに囚われない、常に合理的な判断をその場その場で即決できる指揮官と、その指揮官に忠実に従う強力な兵が今の浅井には必要なのだ。
――という訳で白羽の矢が立ったのが、先日家臣にしたばかりの藤堂虎高と、近江の鉄砲生産の要である国友の地を治める野村直隆、そして腹心の浅井政澄と遠藤直経であった。
「なるほど、つまり我らに殿の直轄兵を練兵させたい、と言う訳にございまするな?」
長政が浅井屋敷にて、護衛の遠藤直経を含めた四人に詳細を話すと、まずは野村直隆がそう答えた。
「そうだ。お主達には私の率いる鷹の兵、その一翼を担ってもらいたい」
長政がうなずくと、三人は各々にううむと唸り声を上げた。
そうして、今度は藤堂高虎が。
「しかし、殿直轄の兵と言われましても……そもそも、なぜ我々なのですか? 赤尾殿や磯野殿を始めとした重臣のお歴々がおりますれば、お三方はともかく、それがしのような新参者に任せて家中に不和でも起きようものなら……」
「そう、まさにそれよ」
虎高の言葉に、長政は手に持った扇子で膝を打った。
「浅井家三代、長いとは言えぬものの短くは無い時が流れ、目に見えるところ、目に見えぬところにあらゆるしがらみが増えた」
扇子を開け閉めしながら長政がとうとうと語る。
「水運の利権、水源の利権、田畑の利権に政治的利害。それらを父上の代で上手く抱き込んだおかげで、銭も味方も増えて今の浅井があるが、それは同時に配慮すべき相手が増えたという事でもある」
「それは……確かにそうですな」
「そしてやがては浅井のためではなく、彼らのための領国経営をしなければならない時が来る。彼らに裏切られては国が傾く故な。そうして彼らの利害が対立すれば再び北近江は荒れる。それでは意味がないのだ」
「それ故に殿が力を付け、皆をまとめ上げたいと言う訳にござるな?」
傍に控えていた遠藤直経がそう問うと、長政は顎を引いて頷いた。
「左様だ直経。そして今、それらの利害を捨て置いて、私の言葉と浅井の利を考えられるのはそなた達だけだと思っている」
言いながら長政は、直隆と虎高に顔を向ける。
「自身の得を捨ててでも私に忠言してくれた直隆。自身の命を捨ててでも私を守ろうとした虎高。そなた達二人だからこそ、私は私の命を預けたいのだ」
かつて鉄砲増産の話をした際に忠言し諫めた事や、かつての撤退劇の事を持ち出し、四人に自身の思いを吐露する。
長政の望みはただ一つ、浅井家が滅亡する未来を阻止する事だけなのだ。
しかし、今のままでは、もしその選択が来た時には家臣達に配慮が必要になる。
そしてそれが間違った選択肢だった場合、浅井家は再び滅亡の道を歩む事になるだろう。
史実の長政は親織田派だったらしいが、それでも結局は朝倉に付き、そして滅んだ。
その裏にはきっと、家臣達が朝倉派であった事と、そんな彼らに対しての配慮があったのだろう。
長政は同じ轍を踏む訳には行かない。だからこそ、長政の言葉に従ってくれる家臣が一人でも多く必要なのだ。
「まずは少数でもいい、私の好きに動かせる精鋭が欲しい。その精鋭を率いる任を藤堂虎高、そなたに任せたい」
「んん……」
虎高は眉間にシワを寄せて悩んでいる様子だが、構わずに続ける。
「次に野村直隆。そなたにはかつて申したように、鉄砲の増産と鉄砲隊の鍛錬を頼みたい。……とはいえこちらはまだ銭も人も足らぬ故、少しばかり後の話にはなってしまうのだが」
「ははっ」
「そして叔父上には今まで通り、内政を始めとした私の補佐を頼みたい。浅井家の屋台骨を支えてほしい」
「承知」
「最後に遠藤直経。お主にはこれまで浅井家の情報網を一任していたが――その情報網を強化したいと考えている」
「強化……にございますか?」
直経に向き合い、長政は首を縦に振る。
「平たく言うなら、浅井の忍びが欲しい。六角にとっての甲賀衆のように、浅井家直轄の諜報集団が欲しいのよ」
「諜報集団……にございますか。確かに今は、伊賀者を雇い諜報を行っておりますからな。彼らが何らかの理由で敵対すれば、我らは他国の情勢を伺い知る事が出来なくなりまする」
長政は肯定の代わりに、扇子をパチンと鳴らす。
今の浅井家の情報網は、全てこの伊賀集団に依存していると言って過言ではない。
伊賀国に住まう伊賀衆。彼らは銭で雇われて依頼をこなす傭兵集団だ。
後の世で忍びと言えば、黒装束を身に纏って闇に暗躍する者達を想像しがちだが、この時代での忍びと言うのは一般的に、諜報や暗殺、流言の拡散など裏工作を行っている者達を指す。
正々堂々な正面突破を美徳とし、力比べによる決着を望む武士とは異なり、裏から敵組織を破壊して勝利するのが忍びのやり方だ。
これを卑怯という者も多く、この時代では立場が低くぞんざいに扱われる事も多いが、それでも重要な存在である事に代わりはない。
徳川の忍びとして有名な服部半蔵は、その父が「忍びのままでは出世できず稼ぎも少ないから」と言う理由で忍びをやめて武士になった。
そのため実際は半蔵自身は忍びではないのだが、彼の父がそんなことを口にしている事からも、彼らの立場がどのような物だったかは伺い知れる。
「身分は問わない。忍びに領地を与えて召し抱える事も考えている。誰か宛てはないか?」
「忍びに領地を……でございますか!?」
そんな忍びを、長政は領地を与えてでも雇いたいと考えていた。
当然長政の言葉に直経のみならず、この場に居る者達は皆驚きを見せたが、こういった常識外れの行動は今に始まった事でもない。すぐに彼らは気を取り直した。
しかし、直経だけは首を横に振る。
「それは……難しいでしょうな」
「何故だ直経。銭払いのほうが良いか? それとも国衆の事を気にしているのか。それならば――」
「いえ、そうではありませぬ」
無精ひげの生えたむさくるしい顔をしかめて直経は続ける。
「そもそも奴らは、誰かに仕える事を望まぬのです。何故なら、銭で雇われて依頼主の国に入り、そこから依頼を受ける訳ですが、その依頼主の情報も彼らは抜いておるからです」
「なんと」
「そしてその情報をまた他の国に高く売って銭を稼ぐ。これが伊賀のやり方であり、当然それは、浅井相手とて同じ事」
「そうなのか直経」
浅井政澄が驚きの表情を見せると、直経は頷いて肯定した。
「はい。当家にとって特に重要なものは秘匿しておりますが、それでもいくらかの情報を抜かれておりましょう。彼らは多数の者に仕える事で忍びとしての立場を築き上げておるのです」
「そうだったのか……」
そのため彼らを雇ったところで良い顔はされないだろうし、むしろ面倒とさえ思われるだろう。
直経はそんな言葉で締めくくった。
史実の伊賀衆は、最期は織田の軍勢に攻められて滅ぼされている。
その背景には信長の子、織田信雄による一方的な伊賀の乗っ取り計画によって伊賀衆が蜂起し、反発したことが挙げられるが、もしかすると伊賀衆が最後まで織田に付かなかったのは織田の下に付く事が都合が悪かったからなのかもしれない。
近畿一帯が織田によって統一されれば、伊賀衆の仕事も無くなってしまうからだ。
なるほど、そう考えると伊賀衆にとっては今の方が都合が良いのだろう。
とは言えそれでは困ると、直経の言葉に長政は唸りを上げる。
誰もが領国を持ち、大名に仕えたいと言う訳ではないらしい。金さえ積めば何とかなると思っていたが、そう言うわけにもいかなそうだ。
かと言って、もう一つの流派である甲賀衆は尚更選択肢としてあり得ない。
彼らは六角家に仕える者達であるし、史実では六角が織田に負けて観音寺城から落ち延びた後も六角に付き従った忠義の者達だ。
一部造反こそあれ、六角家が完全に没落するまで仕え続けた歴史があるため、多少待遇を良くしたところで六角家を裏切るとは到底思えない。
それどころか、下手すれば寝返ったと見せかけて浅井の情報を六角に流す危険すらある。
いくら忍びが欲しいとは言え六角と敵対している今、甲賀に手を出すのは自滅行為と言わざるを得ないだろう。
抱えるならば、どこの勢力とも深い関わりがなく、ある程度の中立性が保証されている者達が良い。
が、そうなってくると思い当たる節が無くなる。
いくら唸っても簡単に案が出る訳もなく、五人の間には沈黙が漂った。
「……とりあえず、野村殿の鉄砲隊と同じく一旦保留で良いのでは」
そんな政澄の言葉に誰もが頷き、忍びの話は終わりとなった。
「とにかく、今後はそなたら四人を主として浅井家を運営していく考えだ。まだ内密の話故、他には漏らさぬよう頼むぞ」
そうして長政が軽く頭を下げると、四人は各々に頭を下げて「ははあっ」と声を上げたのだった。