023_永禄四年(1561年) 次なる改革
斎藤義龍病死。
死因はハンセン病とも暗殺とも言われているが、長政にとって最も重要だったのはこの義龍の急死によって、斎藤家が混乱した事にある。
これは西の六角と東の斎藤が、共に北近江を攻撃できなくなった事を意味するのだ。
「まさか……誠に殿の仰る通りになるとは……」
「桶狭間の事といい、殿は天下を鷹のように見通しておられるのか」
義龍病死の知らせを受けた直経や政澄は、近頃はまるで異形でも見るような目で長政を見ていた。
しかしそれは彼らだけの話ではない。近江の者達は近頃、長政を鷹の目を持っていると噂している。
「ただの勘だ。そう持ち上げるな」
謙遜してみせるが、直経は一つため息をつく。
「ただの勘で寿命を言い当てられては、義龍めも立つ瀬がありませぬな」
確かにその通りだ。
とは言え浅井にとって、これまでにないほどの好条件が整ったのは事実。この好機を逃す訳にはいかないと、これまで着手できなかった内政の数々に早速取り掛かる事にした。
まずは築城。
昨年の佐和山城陥落と、前回の斎藤家の侵攻を受けて、刈安尾城や佐和山城が突破された場合、小谷城までがら空きになる事が防衛の際に問題となった。
そのため長政は、小谷の南にある横山の地に目を付けた。
この横山に城を築けば、西は佐和山城が、東は刈安尾城が守り、その二つの城の後ろを横山城が守ると言う形になるため互いに支援し合える関係となる。
これが案外馬鹿にならず、三角形のように見えるこの三城の位置関係は、鉄壁と言っても良いほどの守りの硬さを見せるのだ。
史実でもこの横山城は築かれており、主に対織田との戦いで活躍した。
しかし残りの二城はと言えば、刈安尾城は織田との開戦直後に調略によって寝返り、佐和山城は織田の策略によって磯野員昌が降伏して落城している。
史実では結局、この三城による防御布陣が敷かれる事はなかったのである。
とは言え磯野員昌に関しては史実で長政に裏切りを疑われ、人質として長政の元へ差し出していた母を殺されているため、降伏したのも仕方ない。佐和山城は引き続き彼に任せて問題ないだろう。
横山城が完成次第、残り二城を誰に任せるか考える必要があるが、今は一旦保留とする。
続けて長政は先月から行っている農業改革の続きとして、直轄領の村の者達に田植を指示する事にした。
「さがれさがれ! 無礼であるぞ!」
「直経、構わんと言っているだろう」
いつかのように浅元新十郎として村に訪れた長政は、新たな試みを行なっている最中の畑へやってきた。
前に長政が指示した通り村の者達は上手く苗を育て、木桶の中ではしっかりと稲が根を張っていた。
「桶で育てたお蔭で鳥に食われる事もなく、立派に育ちましただぁ」
「んだ。ここまで育てるのもえれぇ楽でした」
そんな言葉を聞けたため、施策としては十分だろうと納得した長政は、その苗を早速田んぼへ植える事にした。
「では早速」
そう言って苗を田んぼに植えようとする百姓たちを引き留める。
「いや、待て待て。苗にも植え方があるのだ」
「植え方……でごぜぇますか?」
「まぁ……お侍様がそう仰るなら……」
長政は彼らに、苗を植える際に一定の距離で規則正しく植える事を伝える。
麻で結った紐を使い、田んぼに横断させて田植えを行う事で、苗を均一に植えられるようになるのである。
こうすることで均一に陽の光を当てる事が出来るようになり、また整列しているため管理も楽になるのだが――相変わらず半信半疑と言った様子だ。
効果のほどは、一度実際に見てもらうしかないだろう。
「それから……これを畑に撒いてくれ」
「これは……?」
「干したイワシを砕いた物だ。米の育ちが良くなるのよ」
「イ、イワシでごぜえますか……おいみんな、これを畑に撒いてくれ」
村長の弥七がそう言うと、村の者達は口々に「イワシ……?」「なんで魚なんか……」と首を傾げながらイワシの粉を畑に撒いていく。
しかし彼らの反応も無理もない。
何せこの干したイワシを若狭から大量に仕入れていた際、若狭の者達にも同じような反応をされたからだ。
長政が治める北近江から西に位置する若狭国は今、守護家である若狭武田家のお家騒動によって荒れに荒れている。
そのため若狭の商人達は逃げるようにして近江や越前へやってきているのだが、その伝手を辿って若狭の漁師たちから売り先の無くなったイワシを大量に仕入れる事に成功した。
しかし近江には淡海があり、マスやアユを始めとして様々な魚が獲れる。
そのためわざわざ若狭から、それも干したイワシを仕入れる必要が余り無く、長政の意図を測りかねた者達はこぞって首を傾げた。
しかしこの長政の行動にも当然意味がある。
この干したイワシは、後に干鰯と呼ばれる肥料であり、戦国時代末期から江戸時代にかけて農業事情を大きく改善することになるのだ。
しかしこの頃はまだ、一部の漁村でしか知られていない事であり、近江の者達がそれを知らないのも無理はなかった。
これら長政の農業改革によって北近江の米事情が変わるのは、まだ少しばかり先の話である。
そうして着々と、来る決戦に備えて準備を進めている頃。五月雨が減り、少しずつ夏の日差しが強くなる北近江の長政の元へ知らせが入った。
畿内で覇を唱える三好と雌雄を決すべく、六角家が将軍地蔵山を目指してついに進軍を開始したと言うのだ。
「今こそ、南近江を攻める好機!」
月に数度ある評定の中、ただでさえ近頃は蒸して暑苦しいと言うのに、家臣たちからそんな熱気に溢れる声が上がった。
背後を浅井に晒して畿内へ向かう六角を叩くには、今はまさに好機という事だろう。
確かに、彼らの意見には同意する。攻めるなら今しかないだろう。問題は、どうやって攻めるかだが――
「であればまずは、太尾城を攻めるべきかと」
そう告げたのは佐和山城のそばにある箕浦城の城主、今井定清。
かつては六角にも仕えていた事のある男だが、長政が野良田の戦いで立ち上がる際には進んで協力を申し出て来たし、四木村での騒動の際には兵を出してくれた者でもある。
長政にとっては何かと恩のある御人だ。
「地図を」
長政の言葉に、すぐさま浅井政澄が近江の地図を広げて簡潔に状況を述べた。
「太尾城は、佐和山城の北東に築かれている六角方の山城にございます。周りは既に我ら浅井に降っておりますが、朝妻からの支援を受けて未だ堅牢に守りを固めており、佐和山城の背後を脅かしております」
続けて、補足するようにして今井定清が頷く。
「いかにも。我らの治める箕浦城と佐和山城で目を光らせているため、今は大きな動きこそありませぬが……いずれ南近江へ侵攻するのであれば、背後を脅かされる事は必定。ならば、まずはこの太尾城を攻め、背後の守りを固めるべきかと」
すると、その言葉を聞いた重臣の赤尾清綱も、珍しく声を荒げながら身を乗り出した。
「太尾城と言えば先々代、浅井亮政公や先代である大殿の代にも攻めかかり、どちらも六角方に敗北している因縁の地。此度こそ攻め落とし、打倒六角の先駆けと致しましょうぞ!」
どうやら太尾城は、六角に二度も敗北した因縁の地らしい。その地を長政が攻め落とせれば、家中の評価が上がる事は間違いないだろう。
余りにも規模が小さい戦いは後の歴史では資料が少なく、詳しく調べた者でもない限り知識を持ち合わせている事が稀だ。
幸い長政は現代の一般人に比べれば戦国時代の知識を持ち合わせているものの、生憎と太尾城攻めの知識までは持ち合わせていなかった。
攻めるべきか否か、長政は葛藤する。
もしこの太尾城攻めに成功すれば長政の目標に大きく近づくことは間違いないが、昨年の竹中との戦いのように、予想外の事態が起きる事も考えられる。
長政の目標とは当然、史実の流れから脱却し、浅井家もしくは浅井長政が生き残る事だ。
そして史実から最も簡単に脱却する方法は、六角家を他でもない長政自身の手で滅ぼし、南近江を浅井の領地にする事だろう。
史実では上洛を始めた織田によって六角家は滅ぼされた。結果、南近江はそのまま織田の直轄地となり、安土城が築かれる事となる。
その南近江を浅井が手に入れる事ができれば、もし織田と戦う事になったとしても勝てる見込みが十二分に出てくるだろう。
それにもしここで尻込みすれば、家臣達からは臆病者との評価を受けて見限られるかもしれない。
そうなれば久政のように押し込められて傀儡当主となるか、最悪は家臣達が浅井家から六角家へ一斉に寝返る事まで考えられる。
彼らの期待に応えるためにも太尾城攻めは必要だ。
史実の長政が家臣達の顔色を伺って朝倉家と手を組み、最後は織田に滅ぼされた事を知っていながら、その時の長政と同じ選択をしている事に嫌気が指すが……今はまだ仕方ないと割り切るより他ない。
「……相分かった。まずは太尾城を攻略し、その後に南近江へと進軍を行う。太尾城の攻略は今井定清、そして磯野員昌の両名に任せる。我ら本隊は出陣に備えて支度を行う。そして太尾城陥落後に本隊で南近江へ侵攻する事とする。以上、各々抜かりなく備えよ!」
『ははっ!』
家臣らが声をあげて長政の意見を承諾。すぐさま戦の支度を始めるため、評定の間を後にしていったのだった。
「気乗り致しませぬか」
そんな彼らの背中を見送る長政に、そう声をかけてきたのは浅井政澄。
彼には長政の心中が筒抜けのようだ。
「まあ、な……攻める必要性はわかっているが、少々気になることがある」
「気になること?」
「いや……まあ、気のせいだろう」
ついに始まる六角攻め。これに成功すれば浅井は大きく躍進する事になり、六角は窮地に追い込まれることだろう。
しかし、長政には不安が残る。
史実ではこの数年後に観音寺騒動が起こるまで、六角家の衰退は始まっていないはずだ。
ならば何故、史実では太尾城攻めが起きなかったのだろうか。
まさか既に、史実の流れから外れ始めているのだろうか。それとも――
そんな長政の不安が的中した事がわかるのは、夏に入ってからの事であった。