021_永禄四年(1561年) 畑仕事
雪融けが始まり、冬ごもりをしていた動物達や土の中で越冬を終えた植物たちが、陽射しを求めて目を覚ます春。
雪に閉ざされていた小谷山も、暖かな陽射しに晒されて、他国より少し遅い春の訪れに目を覚まし始めていた。
そうした雪融けと共に活発になり始めるのは、何も動植物ばかりではない。
近江周辺の諸大名達も春の訪れと共に活動を始め、遠藤直経の手の者によってそれらの情報が続々と長政の元へ届けられていた。
そんな中でも特に注目すべきは、京を中心とする近畿の情勢だ。
近畿では三好長慶の弟、十河一存が病を患い急死し、三好家中に混乱をもたらしていたのである。
和泉国と三好家の軍部を管轄していた十河一存の急死は三好政権に大きな風穴を開ける事になり、近畿情勢を大きく揺るがす事になった。
一説には病を癒すために湯治を行っていたところ、帰り路に落馬し死亡したとも言われている。
その十河一存についていたのは三好長慶の右腕として有名な松永久秀だったが、十河一存と松永久秀の不仲はあまりにも有名で、一説には彼が十河一存を暗殺したのではないかともいわれているが、真実は定かでない。
とにかく、そんな三好家の混乱をいち早く察知し、早速動き出した勢力があった。
それこそ他でもない六角家だ。
将軍家を代々擁立していた六角家と、その将軍家を時には敵に回し、時には傀儡として政治中枢を支配し続けてきた三好家では相いれる訳もなく、この両者の対立は根深いものであった。
そして、今こそ好機と見た六角は、三好を中央から排除するために立ち上がったのである。
まずは三好によって父を幽閉されている細川晴之を擁立して大義名分を掲げると、かつて三好に敗れ、紀伊国に退避していた名門、畠山家の当主、畠山高政と共に挙兵の動きを見せる。
三好に敗れたとはいえ腐っても名家。名門同士の連合軍は推定五万とも言われる兵を動かし、一方の三好もこれを迎え撃つ動きを見せた。
後に三好の進退と近畿情勢を決する事になる、三好対畠山・六角連合軍の長い戦いが、ついに始まろうとしていた。
そんな緊迫する近畿情勢の中、北近江の浅井家はと言うと、六角が長く動けなくなる事を察知した長政が、今まで着手できていなかった改革を本格的に始動させた。
その最初の一歩は、雪残る山道を降りた先、浅井家直轄の領地へ訪れる事だ。
「えーこの度、この浅井郡を治める浅井家当主、浅井備前守様よりこの村の統治を仰せつかった、浅元新十郎と申す。今後は私が代官としてこの村を治めるため、そのつもりでいるように」
「ええい、さがれさがれ!」
仰々しい態度で長政がそう告げれば、すぐさま供に連れて来た遠藤直経が、手に持った和鞭を振り回し百姓たちを威嚇する。
何事かと集まって来ていた百姓たちは、雪融け水でぬかるんだ地面に頭をこすり付け、ははぁと頭を下げた。
この時代は酷い身分制により、百姓たちは大名に謁見する事すら叶わない。そのため大名やその代官、或いはその家臣らが村に訪れた際には、失礼が無いように徹底的にへりくだるのである。
食料が不足し、食料よりも人の数のほうが多いこの時代、百姓は人としてすら扱われない。口減らしの為に売られるならまだ良し、下手すればその場で切り捨てられる事も多々あった。
そのため彼らは地面に頭をこすりつけ、武士に言われるがままに従い、嵐が過ぎ去るまで静かに、穏便に息をひそめるのである。
とは言えこの時代の感覚にまだ慣れ切っていない長政からすれば、彼らの態度は有難迷惑この上ない。ましてや自身の事を腫物のように扱ってくるのだから、居心地の悪さもひとしおだ。
もし本名である浅井長政の名を使ったなら、どうなったかなど考えたくもない。
「喜右衛門、構わん。そなたらも顔を上げてくれ。私は頭を下げさせるために来た訳ではない。それより乙名はいるか?」
長政が聞くと、すぐさま初老の男が名乗り出た。
「へぇ、あっしであります」
乙名とは、成人の事ではなく村を治める村長の事を指す。
目の前に進み出てきたこの男が、村を直接管理している村長と言ったところだろう。
「名はなんと?」
「弥七と申します」
「では弥七。田畑を一部、浅井家の直轄として借り受けたいのだが……どこか良い場所はないか?」
「田を……でございますか? へぇ、ありはしますが……」
「わかっている。私が借りる分、今年の年貢を減らす用意はある。その代わり、少しやってみたい事がある故、力を貸してほしい」
「やってみたい事……でございますか……?」
弥七や百姓たちが不思議そうに首をかしげるのも無理はない。この時代に武家の人間が畑仕事をやる事などあり得ないのだから。
「だから申したのです、畑仕事などやめましょうと。これで浅井家が帰農を考えている等と噂が立てば、北近江の国衆が一斉に離反しかねませんぞ」
長政に耳打ちするようにして、遠藤直経が目くじらを立てる。
帰農とは、落ちぶれて領地からの年貢だけでは生活できなくなった武家が、百姓になる事を指す。
この頃の武家とは即ち領主であり、自身の領地から徴収した年貢で生計を立てていた。
西欧における貴族のようなものである。
この領地経営が上手く行かなかったり、いつまでも出世できなかったりすると土地が足りずに家臣が養えなくなる。
そのため武士は、積極的に他国へ侵略して領地を得るか、それでもダメなときは帰農して田畑を耕すのである。
そんな訳で、武家の人間が農作業をやると要らぬ誤解を与える事に繋がるのだが、そんな畑仕事を長政は、あろうことか自ら進んでやりたいと言いだした。
そのお蔭で直経はと言えば朝から不機嫌で、こうして長政を何度も何度も諫めようとするのである。
「だからそなたを連れて人払いした挙句、名前まで隠しておるのだろう。上手くやってくれよ喜右衛門」
長政がうすら笑いを浮かべて直経の肩をわざとらしく叩くと、直経はやれやれと言った様子で首を横に振った。
そうして弥七に案内してもらい田んぼへやってきた長政だったが、その後ろには何やら荷物を抱えた兵達が続々と続く。
その物々しい雰囲気に百姓たちも気が気ではない様子だが、彼らの視線を一身に受ける長政は全く臆することもなく田んぼへ着くと、すぐさまその荷物を広げ始めた。
「これは一体……」
最初に弥七の目に留まったのは、クワのような物体。
一見クワに見えるが、しかし普通のクワと違って土を掘り返すための刃の部分が四股に分かれ、まるで開いた四本の指のような形状をしている。
「これは備中――いや、近江鍬と言う。たった今名付けた。先日下坂の鍛冶衆に作らせていたものが完成したので、早速試そうと思ってな……誰か振ってみてくれ」
長政が声をかけると、様子を見に集まっていた百姓たちはお互いに顔を見合わせた後、体格の良い男が一人「でしたらあっしが……」と名乗りを上げた。
そうして近江鍬を片手に田へ入り、まだ水の引かれていない田んぼを何度か鍬を振るって耕していく。それから何度か振るった後、その男は驚いた表情で声を上げた。
「村長! この鍬、全然疲れねえど! それに湿った土も簡単に掘り返せるべ! なんだこりゃあ!」
男の言葉に、その光景を眺めていた百姓たちがざわついた。
長政が持ち込んだのは後に備中鍬と呼ばれる鍬である。これは見た通り、先端がいくつかの刃に分かれているのが特徴だ。
そのお蔭で百姓の男が言ったように土を耕す際の負荷が下がり楽に作業でき、更には土離れも良いという耕作作業に向いている鍬である。
この備中鍬が実際に普及しだしたのは江戸時代後期の話であるため、年数にすると三百年近い技術の先取りである。
「普通の鍬と違って先端が全て鉄な上、作り方も少々難しいらしく数は揃えられなかったが、試金石としては上等だろう」
言いながら、自分も自分もと続々と手を上げだした百姓たちへ備中鍬改め近江鍬を手渡していく。
そうして持ち込んだ八本の鍬は百姓たちの手に渡り、百姓らはその鍬を振るって次々と土を掘り返していく。
その効果はてきめんのようで、誰もが驚きの表情を浮かべながら、それでも楽し気に耕作作業を行っている。
それらの光景を「よしよし」と満足げに眺めた長政は、では次だ、と弥七に視線を向けた。
「今年、この田に植える予定だった種もみを見せてくれ。それからこの桶に水を」
「種もみ……でごぜえますか? はぁ、すぐに……」
長政から木の桶を受け取った弥七は村人たちへ指示を飛ばし、それから少しして村人たちがもってきた種もみと水を受け取った。
今年この田んぼに植えられる予定だった種もみ達と、木桶いっぱいに入れられた水を見た長政は、持ちこんだ荷物の中からまた何やら取り出すなり、水の中へと継ぎ足していく。
そうした後には水の中へ種もみをひとつかみほど入れ、ああでもないこうでもないと何やら試行錯誤し始めた。
「……あのぉ、一体何を……?」
しばらくの後、つい我慢できないとばかりに聞いた弥七にニヤりと笑って見せた長政は口を開く。
「良い種もみを選んでおるのよ。浮いた種もみは中身が軽く、育ちが悪い。育ちのいい種だけを選んで育てれば、豊作の苗だけを無駄なく育てられるという算段よ」
「はぁ……」
何故そんな事をする必要があるのかわからない、と言った様子の弥七を他所に、長政は作業を続ける。
長政が始めたのは塩水選と呼ばれる、種もみの選別だった。
水の中に塩をある程度入れる事で比重を変え、中身が軽く、成長の悪い種が水に浮かぶよう調整する。そうして水に沈んだ、中身の詰まった種だけを選別する手法である。
塩水選が本格的に始まったのは明治時代からのため、こちらは実に数百年以上の技術の先取りになる。
この塩水選に成功すれば、飢饉続きの戦国時代における農業革命の一歩となる事間違いないだろう。
とは言え長政も、塩水選という知識はあっても正確にどれだけの塩を水の中に入れればいいのかまではわからない。そのため少しずつ塩を継ぎ足しながら様子を見る。
そうして種もみの半分程が浮いた頃に浮いている種を全てすくい出し、次の種もみをまた入れる。それを続けて浮いたものだけを除いて行った結果、残った種を水洗いして塩水選は完了した。
「よし、これらが良い種だ。これを育てるぞ」
「では早速、田に」
「いや、田には撒かん」
「……?」
長政の言葉に、弥七はまたしても首を傾げる。
現代の稲作とこの時代の稲作は全くの別物だ。その理由の一つが稲の育て方にある。
この頃は春になると畑に種を撒き、芽がある程度育ったところで田んぼに水を引くという方法で稲作を行っていた。
しかしこの方法では芽が育つまでの間、鳥に種を食われないように見張ったり雑草を抜いたり虫を取ったりと、管理の手間が膨大になるのだ。
「この種は、こちらの木桶で育てる。これに土を入れて育て、芽が出てから田に植えなおすのよ。そうすればわざわざこの広い田んぼで鳥に種を食われる心配も、歩き回って雑草を引き抜く必要もなくなる」
「はぁ……」
弥七だけでなく直経さえもが何を言ってるのかさっぱりわからないと言った様子。
この時代の人間からすれば、何故そんな事をわざわざするのか、長政の考えが全く読めないといったところだろうか。
「とにかく種はこの桶で育ててくれ。鳥や虫に食われぬよう、見張りも付けるようにな」
「へぇ、わかりやした。畑の側に置いて下されば畑を見張るついでに一緒に見れまさぁ」
「よろしく頼むぞ。これで浅井の稲作は大きく変わるはずだ。まずはその第一歩よ」
農作を知らない武士が一体何を言っているんだか。そんな空気が漂う中、長政の農業改革は第一歩を歩み始めた。これが吉と出るか凶と出るか、結果がわかるのは今年の秋になることだろう。
「さて、と。まずは上出来、だな」
今できる事は一通りやり終え、額ににじむ汗をぬぐう。始めて行った農作業に思いの外の楽しさを感じた長政だった。
「いよいよの時は百姓になるのも良いかもしれんな」
「冗談はよして下され……」
長政の言葉に直経が苦い表情を浮かべる。長政としては割と本気だったものの、本気だと言えば直経がまたやかましい事になりそうだったため黙っておく事にした。
そんな春の陽射しが差す日々の事だった。再び斎藤義龍による、北近江への侵攻が開始されたのは。