020_永禄四年(1561年) 醤油が食べたい
近江の冬は雪深い。秋の暮れ頃から降り始めた雪は、年越しの頃には分厚く積もる。
他国は冬と言えば戦の時期で、戦国大名らが刈り入れたばかりの米を抱えて遠征をしている頃だが、近江を始めとした雪国では誰もが家籠りをしていた。
それは長政とて同じ話で、家督を相続してからというもの内政と戦続きだったが、年始の仕事を納めたこの頃、数ヶ月ぶりに訪れた暇を存分に堪能していた。
「ふぅー……」
浅井家の居城、小谷城がそびえる小谷山のふもと。須賀谷と呼ばれる土地には、温泉がわき出している。
将来的には掘削技術の発達により日本の各地で見られるようになる温泉も、この時代には自然に湧きだしたものしかなく珍しい存在だ。
そんな温泉が近江にもある事を知った長政は、すぐさま護衛の遠藤直経を連れてこの須賀谷へとやってきていた。
「湯加減は如何でございますかな?」
「片桐殿。いや、極楽……温泉にいつでも入れる片桐殿が羨ましい限りだ」
普段の肩肘張った姿とは打って変わって、素っ裸で全てを投げ出したように力を抜いている長政に声をかけたのは、この地を治める片桐直貞と言う男。
柔和で優しげな顔立ちの彼は、温厚な中年男性といった印象だ。
「それはようございました。殿のため、いつでもご用意しておりますれば」
そうして、直貞と他愛ない言葉を交わしながらしばらく湯船でまどろんだ後、長政は体を冷ますために一度湯から上がった。
今年でまだ十六。元服したばかりであるにも関わらず戦ばかりで細かな傷が多い体は、既に大人のそれと大差ないように見える。
「名誉の傷が、多くございますな」
長政の体を見た直貞がそんなことを呟く。
確かに、たった数ヶ月でこれならばこれから先の人生で一体どれほどの傷が刻まれるのだろう。
「私が死ぬ頃には、一体どれほど傷が増えるのであろうな」
「それはきっと、無数にございましょうな」
長政の言葉に、直貞は愉快そうに微笑んだのだった。
◆――
浅井屋敷に戻ってきてすぐに、長政は醤油づくりに臨む事にした。
先日の新年会でも露呈した通り、この時代は調味料が足らず、味の幅も非常に狭い。
とは言え砂糖や香辛料は今の日本で手に入れるのは非常に難しいため、ならばせめて醤油くらいは、と言うわけである。
醤油は日本古来からの調味料だと思われがちだが、本格的に製造されるようになったのは江戸時代からだ。
それまでは味噌だまりと言って、味噌を入れた容器の底に溜まる、醤油に似た液体をたまに使う程度の事で、それも量が少なく普段使いできるものではなかった。
とは言え醤油の作り方など、大豆を煮て炙った小麦と一緒に寝かせておくと、発酵して醤油になる程度の知識しかない。ならば色々と試して見るのみである。
倉から大豆と小麦を取り出し、大豆は煮て小麦は炙る。そうしてこれらを器に並べれば外気に触れてすぐに冷めるため、それらを混ぜ合わせて壺に入れ、蓋をしておいてみる事にする。
それから二日程経過した頃。大豆が緑の菌に侵されていた。
「カビか? とても食えたものじゃないな……」
恐らく、というかやはりと言うか、食べ物をそのまま放置していれば腐るというのは至極当然の事である。
それを防ぐために必要な物と言えば。
「この辺に確か……これだこれだ」
取り出したのは壺に入れられた塩。現代のようなきめ細やかなものではなく、どちらかと言えば粗塩に近い出来だが塩は塩。
腐らない食べ物筆頭と言えば塩漬け。ならば塩を一緒に入れれば上手く行くのではないかと考えたのだ。
「そういえば醤油は菌が必要だと聞いたな」
遠い記憶を探れば、醤油には醤油を作るための菌が必要なため、職人たちは醤油を作成している間は納豆などの菌を持つ食べ物を一切口にしないと聞いた事がある。
つまりは何かしらの菌が必要と言う事になるのだが、この時代に都合よく必要な菌がわかる訳もない。
「まぁ……味噌だまりも似たようなものだろう」
ざっくりとした結論を導き、女中に味噌だまりを持ってこさせた長政はそれを大豆にかける事にした。
菌と言えば先ほど覗いたカビてしまった大豆もある。もしかしたらこれが醤油に使う菌なのかもしれないとも考え、カビてしまった方の壺と新たに作る壺の両方に味噌だまりを入れる事にした。
そうして塩を溶かした塩水も一緒に入れて、二つの壺を密閉するとそのまま倉に保管した。
これから時折様子を見て、それっぽい見た目になったら絞ってみるという、何とも大雑把な計画が始まった瞬間だった。
◆――
醤油の仕込みが終わったところで、他に食事事情を改善できそうな事は無いかと思案する。
『新九郎覚書』をパラパラとめくってみるも、出てくるのは海外の香辛料や食材ばかりで今すぐに何か変えられそうな物は見つからない。
六角家の人質として囚われていた頃に書き起こした『新九郎覚書』。これから起こる事、未来の技術や知識を長政の記憶にある限り書き連ねた物であるため、記載の順序は滅茶苦茶で無秩序に書きなぐられている。
そんな中から、それも未来の文字や文法で書き起こされているこの文章を、この時代に慣れつつある長政が読み進めていかなければならず、読み解くのに非常に時間がかかる。
「これは……本……能寺ではないな……国? もしや、本圀寺か? 圀が書けなくてごまかしたな?」
「兄上? 如何なさいましたか」
一人でぶつぶつ呟いていると、不意に長政へ声がかけられた。視線を送ればそこに立っていたのは、三つ年下の今年で十三になる弟、新八郎であった。
未だ元服前である彼は、諱を持っていない。
長政と違って体付きは人並みで、長政から無鉄砲な部分を差し引いたような性格をしており、今は父、浅井久政や腹心の浅井政澄の元で内政・財政について学んでいた。
「新八郎か。いや、何でもない。それより新八郎こそどうだ、算盤の勉強は進んでいるか?」
「はい。少々難しくはありますがなんとか」
長政の向かいに座り、スラスラとそう受け答えする新八郎はとても十三の子供には見えない。
十五で家督を継いだ長政の言えた事ではないが、長政には大人としての記憶も存在している事を考慮すると、新八郎のしっかりしたその姿は少々不気味にも思える。
――なるほど、これが私を見ていた大人たちの気持ちか。
賢すぎる子は神童や麒麟児と持てはやされる前に、何かが憑いているのではないかと疑われるような時代だ。恐らく新八郎も長政同様に苦労している事だろう。
長政とてそれは同じで、幼い頃はこの時代の文化や常識に慣れないまま自分の知識を得意げに披露したものだから、陰陽師を呼ぶ騒動にまでなりかけた事があった。
それからはなるべく大人しく静かに過ごし、知識だけは先ほどの『新九郎覚書』に全て書き写したものだと昔を懐かしむ。
そんな事を思っていると、新八郎が口を開いた。
「……兄上はやはり凄いですね。久方ぶりの休みだと言うのに、こんな時まで異国語の勉学に励まれているなんて」
新八郎の視線の先には長政の持つ『新九郎覚書』が。なるほど、確かに崩し字ばかりのこの時代では同じ漢字でも異国の字に見えるのは仕方ない。
中身を知る長政からすれば、これを勉強と言われると少々居心地悪くなってしまうが。
「まぁ、私は浅井家の当主だからな」
「父上も家臣たちも、兄上を褒めておられます。武術に優れて判断も素早く丹力もある。その上で内政にも武芸にも精通されておられる。兄上が当主であれば浅井は安泰だと。……私も兄上のように、武勇に優れた将になれるでしょうか」
竹中半兵衛の策に嵌まり、命からがら撤退し、なんとか佐和山城を死守した伊吹山での戦い。
長政からすれば消し去りたい過去だが、赤尾清綱ら家臣の宣伝によって、『もう少しで勝てるところだったが、卑怯にも当主の不在を狙った六角の出兵により、止む無く撤退した』戦いだと世間では評価されている。
そのため今でも、近江の百姓たちは長政が負け知らずの戦上手だと信じ切っているのだ。
そして、どうやら新八郎もその一人らしく、彼にしてはしおらしくそんな事を言う。
長政からすれば新八郎の方がよっぽど凄いと思うが、かと言ってそんな事を口にすれば、嫌味にしか聞こえないことだろう。
肩を落とす彼に何と声をかけるべきか幾ばくか考え込んだが、長政はひとつ大きく息を吐くと、ゆっくり口を開いた。
「私――いや、俺はな、新八。戦が何より嫌いだ。人を斬るのも、誰かが斬られるのも嫌いだ。できれば今すぐにでも戦なんざ……戦国なんざ、終わればいいと思っている」
「兄上はお強く、戦で武名を挙げられているのに……ですか?」
驚く新八郎に頷いて見せ、長政は続ける。
「幻滅したか? けどな、これが本当の俺だ。戦も殺し合いも真っ平ごめんだ。出来る事なら囲碁と鷹狩だけして、気ままに暮らしていたいのだ」
それから「しかし」と続ける。
「しかし、武士とは因果な生き物で、常に敵が必要だ。奴らは敵がいなければすぐに身内で争い始める。だからこそ、常に敵を求め続けなければならない」
「浅井にとっての六角のように、ですか?」
「そうだ。そしてそれは他国も同じこと。いくら戦が嫌だと言っても、時には守るために戦わなければならん。だから俺は、近江や浅井家を守るために槍を取る」
そうして一息ついて続ける。
「しかし、刀や槍を揃えるには金が必要だ。時には金を稼ぎ、家を支える。それも立派な戦いなのだ。新八、お前は既に、立派に戦っている。目に見える武勲ばかりを讃え、求めるのは過ちだ。お前にならもうわかるはずだ。……いや、わからずとも、いずれわかるときが来る」
長政の言葉をどう受け取ったのか、新八郎は静かに虚空を見つめる。
そんな時、もう一人訪問者が現れた。
「なんだ、姿が見えんと思ったら新九郎とおったのか」
シワだらけの顔を更にしかめて、深いシワを眉間に浮かべるのは二人の父、浅井久政。
戦下手で臆病者と散々な評価を受ける彼だが、同時に長政が知る限り最も北近江に精通した内政家だ。
そんな彼は、どうやら新八郎を探しているようだった。
「あ、申し訳ありません兄上。父上と約束をしていたのでした」
「全く、ワシを待たせるとは良い身分になったものよな。急ぎ支度せい」
久政が嫌味交じりにそう告げると、新八郎は慌てて部屋を後にした。
そうして久政は、残された長政と一瞬視線を交わすと、「フン」と鼻を鳴らしてその背中を追う。
最後に一言、「あれはでかくなるぞ」と言葉を残して。
きっと、体つきの事を言っているわけではないのだろう。
二人の去った部屋で一人。長政は誰に言うでもなく呟いた。
「当然だ、俺の弟だぞ」
と。