018_永禄四年(1561年) 新年挨拶
「新年、おめでとうございまする」
小谷城のそびえる小谷山の麓、浅井屋敷。
普段、長政ら浅井の者達が寝起きするこの屋敷には毎年、年が明けると北近江に住まう国衆や豪族らが新年挨拶のために参集する。
「清綱、昨年は野良田を始め、随分と世話になった。これからも私を支えてくれ。よろしく頼むぞ」
「ありがたきお言葉。この赤尾美作守清綱、これからも殿のため誠心誠意、粉骨砕身働く所存にござる」
「うむ、心強い限り。しかし、無理はするなよ、お主ももう若くはないのだ。小谷山を登るのも一苦労であろう」
もう数年で齢五十を迎える赤尾清綱に長政がそんな事を言ってのければ、既に酒が入っている家臣達は笑いに包まれたのだった。
なぜ彼らが集まる場所が小谷城ではなく、その山のふもとにある浅井屋敷なのかと言えば、小谷城のそびえる場所が理由だ。
今では城と聞けば誰もが天守閣を想像するが、天守閣のある城が本格的に築かれるようになったのは織田信長が安土城を完成させた天正七年(1579年)から先の話で、それまでは山城と呼ばれる城が主であった。
山城とはその名の通り、山の上に築かれる城の事である。
敵に攻められにくい要害に築き、敵が諦めて引き上げるまで守り切るための造りをしているのが山城である。
そのため城に至るまでの道は険しく、曲がりくねった道を登らなければならず、戦の折には十二分に力を発揮する。
問題は、その山城は戦のない平時も難攻不落だという事。
山の上にある城に住まおうものなら、城に出入りをするだけで険しい山道を上り下りするハメになる。
これでは普段から城を応接のために使うのは困難というもの。
また、山城は城とは名ばかりで、山の上にあるのは敵の侵入を拒む城壁と、平屋のような屋敷のみ。とても誰かを持て成すような造りにはなっていなかった。
当然小谷もその例に洩れず、それどころか日本でも有数の要害たる小谷山に築かれているため、上り下りすら苦労する始末で、父の久政に至っては近頃は小谷城に寄り付きもしない。
そんな事情もあり、平時はこの浅井屋敷やその周辺に住まい、祝い事もこの屋敷で執り行う事になっているのだった。
「新年、おめでとうございまする」
重臣の赤尾清綱を筆頭に、海北綱親、雨森清貞と、浅井家で名のある者達が続々と長政の元へ訪れる。
その中には、湖北四家に数えられ、昨年の野良田や佐和山の戦いでの武功を認められて佐和山城を任された磯野員昌や、同じく湖北四家であり、同時に長政の母方の実家にあたる井口家当主、井口経親など、浅井を支えるそうそうたる顔ぶれも見える。
こうした新年祝いの席は、主君への挨拶の他、このような重臣たちの序列を改めて確認し、また新たに家臣に加わった者達の縁故を作る交流の場でもあった。
現に昨年六角から寝がえり、浅井の臣下となった肥田城城主、高野瀬秀隆などは、早速酒を片手にあいさつ回りを行っている。
長政の仕事は、そんな彼らの間を取り持ち、また時には密約を交わし、内政を拡充させる事である。
例え新年祝いの席でも戦国大名に休みはないのだ。
「少々疲れたな……」
「ひとまずはこれで落ち着いた、と言ったところですかな」
腹心の浅井政澄がそう言いながら、酒を片手にやってきた。
促されるままに盃を向ければ、白く濁った濁り酒が注がれる。
「あぁ。ようやく飯にありつけるわ」
言いながら長政は盃を傾けた。
この時代の酒は濁り酒が主流だ。澄み切った水のような清酒も存在するが非常に高価で、よほどの祝いの席でなければ飲まれない。
また蒸留技術も進歩していないためアルコール度数も低く、比較的度数の高い清酒でも10%程、濁り酒ならば精々5%ほどといったところだろう。
現代の酒を知る長政からすればあまり強くない酒だが、とは言え体はまだ十五。法律なんてものは無いため酒を飲んで咎められることはないが、無理をしていい年でも無い。
口を多少潤わせる程度に酒を含んだ長政は、それ以上は断ると水をごくごくと飲み下した。
そうして、ふと視線を部屋の一角へ向けた長政。
そこには誰も座らない席が一つ。
他よりも簡単に盛り付けられた料理と、升に並々と注がれた酒が置かれている。
「百々殿、ですか」
「あぁ……酒の好きな御仁であった」
その席は、昨年末の戦いで六角を相手に佐和山城を死守し、そして討死した百々 盛実の席であった。
あの戦の後、彼の身内に百々盛実が戦死した事を告げた際、奥方や彼の子は泣くこともせず、静かに頭を下げていた。
父が死んだことよりも当主自らが挨拶に来たことの方が大事なのだと言う。
しかし百々盛実の子は堪えきれなかったのか、唇を震わせ、涙をいっぱいに溜めて、それでも『本日よりは私が父に代わり、浅井様をお支え致します』と言ってのける姿は、痛々しささえ感じた程だ。
父の討死は誉れである。涙を浮かべながらそう言う彼の姿が、長政にはどうしても納得できなかった。
帰りがけ、直経に『誉れとは何だ。親しき相手が死ぬ事が武家の誉れなのか』とやるせない思いと共に吐き捨てた記憶が浮かぶ。
しかし直経は、その時揺るぎなく答えた。
『自らが主と仰いだ主君がため、命を賭して戦い抜いた事を誉れとせず、一体何を誉れとするのか』
『死ぬことが誉れなのか』
『死して忠節を示した事で、百々家は浅井の家が倒れぬ限り、存続が約束されたようなもの。家名を残せたのです、これ以上はありますまい』
そう言い切っていた直経の横顔を思い出す。
確かにあの一件で、浅井家は百々家を無視できなくなった。
長政のために当主が命を捨てた百々家をないがしろにすれば、他の家臣達の忠節が揺らぐ。親兄弟や仏すら敵になる戦国において、相互利益の関係は何よりも信頼できる保証と言えよう。
しかし、長政の未来の記憶に、浅井家家臣、百々家の名は無い。
それはつまり、家名が残らなかったか、或いは残ったとしてもごく僅かな情報しかない事を意味している。
果たしてそれは、本当に家名を残したと言えるのだろうか。
そんな過去を思い返し、複雑な思いを胸中に抱く長政に、政澄は柔らかく声をかけた。
「……そのような顔をなされますな。我らは、殿の御身と浅井の家が残る事こそが本望。殿のお心に、我らの名を留め置いて下さればそれで結構」
現代の感性を持つ長政と、この時代に生きる者達の感覚には未だ大きな違いがある。
頭では理解していても、この時代の死生観に触れると嫌でもその事を思い知らされる気がする。
「それでも私は――」
実際に命を投げ捨て、浅井のために死した百々に失礼な気がして、その先を言葉にすることはできなかった。
長政は未だ、自分のために死んだ者達へどう報いれば良いのかがわからないでいたのだった。
「……さ、料理が冷めてしまいます。今日は祝いの席、楽しむことこそ百々殿への弔いとなりましょう」
政澄に促され、長政は「そうだな」と気を取り直す。
そうして最後に一度だけ、酒が残る盃を、そこにいるかもしれない酒好きの猛将に軽く掲げて一息に煽ると、それから料理へ箸を向けたのだった。
並べられているのは山の幸、淡海の幸が取り揃えられた豪勢な雑煮。こんな時でもなければ食べられないご馳走だ。
「……」
しかし、いざそれを口に運んだ長政の表情はあまり浮かなかった。
それもそのはず、この時代の料理は総じて味が一辺倒なのだから。
調味料らしい調味料と言えば味噌か塩しかなく、醤油すら存在しない時代だ。料理の味は素材の味か濃い塩の味かくらいのもので、十五年も食べていれば飽きてしまう。
その上、料理には肉すら並ばない。
この頃は五畜と呼ばれる鶏、羊、牛、馬、豚は仏教の教えで食べてはならないとされていたからだ。
当然、畑を荒らす猪や鹿は狩られ、その肉を食べている者達も居たがごく少数。肉を食べずに一生を終える者も少なくなかった。
なまじ、食文化の発達した世界の料理を知っているだけに食への欲求は高まるばかり。豪雪で外に出られない事を良い事に、何とかあの味を再現できないかと思考錯誤するも上手く行ってはいない。
「せめて椎茸くらいは食べたいものだな」
「流石に椎茸を揃えるには少々金銭が足りませぬな……まぁ、殿が食す程度の量であればなんとかなりましょうが」
挙句これだ。
養殖の技術がないこの時代の椎茸は非常に高価で、祝いの席ですら滅多に食べる事ができやしない。
お蔭でだしを取る、などということも当然できず、汁物は味噌を入れるか一緒に魚を入れるかばかりで飽きることこの上ない。
「……ままならんな」
この時代に来て最も過酷な点は、案外この食文化の未発達ぶりかもしれないと心の中で愚痴るのであった。
「浅井様、明けましておめでとうございまする」
そうやってうんざりしながら食事をしていると、また新たに挨拶に来るものが現れる。
誰かと視線を向ければ見覚えのある顔で、すぐに居住まいを正した長政は笑顔でその男を迎えた。
「よくぞ参った虎高殿! そなたの登城、首を長くして待っておったわ!」
男の名は藤堂虎高。先の伊吹山での斎藤との戦いの折、長政の命を救った男だ。
あの後調べたところによると、元は武家であったらしい藤堂家だが、この頃はほぼ農民と同じ身分にまで没落していた。
そのため伊吹山の戦いでは、磯野員昌の兵として参陣したようだった。
しかし没落したとは言えかつては武家の男というだけあって、所作は武士のそれであり堂々としていて、黙っていれば他の家臣とも遜色ない。
齢四十過ぎとは思えない若々しい姿ながら、逞しい体つきからは雄々しさも感じる。
「それがしのような百姓が恐れ多きことにございまする」
そんな雰囲気を纏う虎高が礼儀正しく頭を下げるものだから、長政としては居た堪れなくなってしまう。そうして儀礼的に差し出された盃に酒を並々と注ぐと、虎高はそれをぐいっと煽って一気に飲み干してしまった。
「そなたのような百姓ばかりなら、浅井の兵は強兵として天下に名を馳せただろうに」
「勿体なきお言葉にござる」
長政からすれば心からの言葉だったのだが、どうやら世辞として取られたようで、随分と謙虚な男だと感心した。
さて、長政が藤堂虎高を呼んだのは命を救われた礼をするためだけでも、ましてや褒めたたえるためだけでもない。長政にとっての本題はここからなのだが……
「虎高殿。わざわざお呼び立てしたのは他でもない。折り入って話があるのだが……今この場でするには少々不作法というもの。宴の後、改めて席を設けさせて頂きたい。それまでは酒や肴を存分に楽しまれよ」
長政がそう告げると、少々腑に落ちないというような表情を浮かべたものの、虎高は今一度居直って礼をすると、そのまま長政の前から下がったのだった。
「殿。あの話、まことだったので?」
藤堂虎高を見送った後、浅井政澄がそう声をかけてきた。
「私が冗談を言った事があったか?」
口元を吊り上げながらそう返してみれば、浅井政澄は呆れたように「ありませぬな」と静かに答えたのだった。