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016_永禄三年(1560年) 伊吹山の戦い2

 釣り野伏のぶせという言葉はこの頃まだ存在しない。


 そのため海北かいほう綱親つなちかは一瞬、長政が何を言っているのかわからないと言った表情を浮かべたがそこは歴戦の猛者。


 伏兵や罠と言った単語から何を言いたいのかを理解した。


 はっとして前線へ視線を送れば、確かに竹中隊はこちらを誘うように撤退している。


 それも竹中隊の背後にある伊吹山の森の中へ、まるで押し込まれているように巧妙に見せながら。


「法螺貝を鳴らせ! 全軍停止だ! 急げ!」


 たちまち怒鳴り散らす海北かいほう綱親つなちか


 続けて、すぐさま前線目指して自ら駆けだした。流石の軍奉行と言う事もあって理解までが早く、未だ指示が届いていない兵達に檄を飛ばしながら馬に跨り駆けて行く。


 直後に進軍停止を意味する法螺貝が鳴り響き、何事かと混乱する浅井兵達。


 彼らの指揮を綱親自身が執りながら前線へ進み出たことで、しかし大きく崩れる事なく取り纏められた。


 綱親のこの辺りの加減は流石と言わざるを得ない。


 しかし竹中隊もただでそれを見送る訳が無かった。

 策が見破られたのを悟った竹中隊は、竹中隊本陣の法螺貝が鳴った途端に今までの形勢が嘘のように激しく攻撃を開始。


 更には長政の予想通り、伊吹山の山林から続々と敵兵が姿を現し、浅井軍目掛けて突撃を開始した。


 竹中家の有する石高からして、先ほどまで見えていた部隊が全力のはず。


 にも関わらず現れた伏兵は、ざっと見積もっても五百は優に超えている。一体どこからそれだけの兵を用意したのか――


 その時、伏兵の掲げた旗に刻まれた家紋が目に飛び込んだ。


五三ごさんきり……まさか、斎藤か……!」


 五三桐ごさんきりとは斎藤義龍よしたつの使った家紋である。


 浅井にとって斎藤家の参戦は想定外。竹中と斎藤が裏で繋がっていると言うまさかの状況に浅井軍は一気に動揺し、戦線が乱れ始めた。


 その動揺を突くように、竹中隊改め斎藤軍は一気呵成に攻め立てる。


「それがしが殿しんがりを務める! 殿、生きてまたお会い致しましょう!」


 そこへ現れたのは殿しんがりの準備を進めていた赤尾清綱。供の兵を引き連れ前線へと駆けていく。


 殿しんがりとは即ち、本隊が撤退するための時間を稼ぐ少数の足止め部隊だ。

 当然その危険度は高く、指揮する将は生きて帰れない事も多い。


 だからこそ清綱は、自らその危険な役目を買って出たのだ。


 その直後恐らく海北かいほう綱親つなちかが命令したのだろう、撤退の法螺貝が鳴る。

 この瞬間、この戦における形勢が決まった。


 不意に現れた敵増援によって味方は怖気付き、負け戦の空気が出来上がってしまったのだ。


 このまま戦っていても良いところで相打ちが精々。最悪、敵に攻め込まれて当主の長政が討ち取られる事すらあり得る。


 そんな判断からの撤退指示だったのだろう。


 戦場の急展開に長政は翻弄され、ついていけずにいた。


 しかし法螺貝の音を聞くと、すぐさまそばに控えていた雨森あめのもり清貞きよさだが「急ぎ退かれよ!」と長政を馬に跨らせ、馬に鞭を入れた。


 先ほどまでの優勢が嘘のように崩れ出し、隊列が次々と乱れて行く。


 そんな味方が混乱から立ち直る時間を稼ぐために赤尾清綱は殿しんがりを率い、斎藤軍と激突する。


 その隙に部隊の退却を進める海北綱親は、混乱する味方を鼓舞して的確に軍を纏めて行き、本陣では雨森清貞が部隊を再編していく。


 もし彼ら『海赤雨の三将』が居なければ、瞬く間に浅井軍は崩壊した事だろう。


 本陣の兵数百を伴い、長政は馬に跨ったまま近江へ向けて撤退を開始する。


 すぐ首元まで伸びていた半兵衛の牙に気付いた長政は、頬に冷や汗が伝うのを感じた。


 半兵衛が仕掛けて来たこの策、名を釣り野伏のぶせと言う。この頃まだ知る者のいないその策は、後に九州統一目前まで勢力を拡大する九州の勇、島津家によって確立される最強の罠だ。


 仕組みは単純で、囮の部隊を使って兵を潜ませている場所へ敵を誘い込み、囮部隊と伏兵で一斉に反撃する策である。


 この単純な策の凶悪な点は、戦いながら囮部隊に誘い込まれるため伏兵に気付きにくく、またわかっていても対処のしようがない事だ。


 一見すると力負けして後退しているようにしか見えないため、罠を警戒していても嵌まりやすく、下手に追撃をやめても今の浅井軍のように戦線が崩壊しかねない。


 釣り野伏は最強の布陣であると主張するかのように、後に島津家はこの策を用いて何倍もの敵を、幾度も撃滅していく事になる。


 しかしこの釣り野伏、使うに当たって難点がある。それは将兵に相当な練度と技量が求められる事だ。


 中央の囮部隊は前述の通り、上手く負けを装いながら撤退しなくてはならない。


 そのため将は兵に対してこれが策の布石である事を周知させ、兵は将を信頼し、統率の取れた撤退を行う必要があるからだ。


 この時代、少しでも敗色が濃厚になれば途端に逃走兵が現れる。そんな敗色をわざわざ演出しながら戦う事がどれだけ難しいかなど、考えずとも明白というもの。


 その上敵を誘い込むにはただ退くだけでなく、罠を仕掛けた場所に誘い込む必要がある。


 敵の攻撃を受けながら退き、更に反撃の際には一気に転進して敵を追撃しなければならないため、中央の囮部隊には将兵ともに高い練度を要求されるのだ。


 そんな釣り野伏を、なぜ半兵衛が使っているかはわからない。


 しかし一つだけわかるのは、その必殺の策を成功させる直前まで仕立てられるほど、竹中半兵衛には他を凌ぐ才が備わっているという事だった。


 これが本当に竹中半兵衛の策なのかはわからない。

 しかし、長政はこれを彼の策だと確信していた。


 佐和山城を六角に襲わせることで、嫌でも短期決戦に持ち込む必要が出てきた浅井軍。


 その焦りを的確に突き、ただこの戦に勝つだけでなく、長政の首まで取って浅井家そのものを追い詰めようとしていたのだ。


「なんて男だ、竹中半兵衛……」


 とは言え何とか窮地は脱した。


 カラカラの喉を鳴らしながらも前線から離れることに成功した長政は、馬上で大きく息を付く。


 しかし、そんな長政目掛けて、半兵衛の更なる一手が襲い掛かる。


「殿! 北から敵が!」


「はぁ!?」


 見れば、そこにたなびくのは斎藤家の旗。伊吹山から斎藤の伏兵が、撤退する長政目掛けて進軍してきていたのだ。


 恐らくは山中を抜けて来たのだろう。余りに突然の出現で長政に焦りの色が浮かぶ。


「いつからあそこに敵が居た!? いや、そんな事はどうでもいい! 迎え撃つぞ!」


 半兵衛はあろうことか釣り野伏だけでは飽き足らず、更にそれが見破られた時に備えて更なる一手を用意していた。

 そこに覗くのは、確実に長政の息の根を止めるという明確な殺意。


 迫りくる死の予感を実感する。史実ではまだ長政が死ぬには早すぎる。ではこれは史実の長政も体験した悪夢なのか? それとも既に、歴史の改変が始まっているのか――


「竹中、半兵衛……!」


 しかし、だからこそ死んでたまるものかと覚悟が決まる。

 脅威は織田信長だけだと思い込んでいた己の油断を戒め、馬を止めて槍を手に構えた長政は、斎藤の伏兵を迎え撃つ姿勢を見せる。


 そして。


「やらいでかあァァァァ!!」


 混乱の渦中、戦場の喧騒に呑まれて潰走していた浅井軍のど真ん中で、長政の人並外れた咆哮が響き渡った。


 その効果はてきめんで、恐怖に呑まれていた浅井兵達は長政の声にはっとした様子で顔をあげる。


 視線の先には槍を振り上げ、かつての野良田でそうしたように、敵へ突撃の姿勢を見せる浅井長政の雄姿。

 劣勢の中でなお前に進もうとする猛々しいその姿は、浅井兵達に力を与える。


「おおォーッ! 勝つぞー!」


「勝つぞォー!」


 あちこちで長政に続いて声が上がり、長政と共に斎藤の伏兵を迎え撃つため隊列が組まれる。


 こういう場合、総大将が前線に居るというだけで無条件に味方の士気はあがるため、危険が伴うものの今の状況では好都合と言えた。


 そうこうしているうちに瞬く間に斎藤兵が押し寄せ、あちこちで戦闘が始まる。長政の周りに集まっていた者達も迫りくる斎藤兵に向けて突撃を始めた。


「殿を死んでもお守りしろ!」


「斎藤如きにやられてたまるか!」


 次々前へ歩み出る兵達と共に、長政も前へ突き進む。

 長政目掛けて振り下ろされる槍を弾き、一閃。続けて斎藤兵を突き殺す。


 やがて手にしていた槍が折れると、地面に転がった槍を拾い上げて襲い来る斎藤兵達を弾き、突き、その槍も折れると腰に下げた刀を抜き、切り捨てる。


「敵の大将はあそこだ! 首を獲れ!」


 やがて斎藤兵の一人がそう叫ぶと、辺りの敵が長政に向けて殺到。


 それを見た浅井兵達は長政を守るために集い、瞬く間に長政の周りで激しい乱戦が始まる。


 そんな乱戦の中でも頭一つ身長が飛びぬけている長政は、的確に周囲の状況を把握し、浅井兵と戦っている斎藤兵を横から次々討ち取っていく。


「どォりゃあッッ!!」


 時には蹴り飛ばし、時には殴り飛ばし、血で汚れて斬れなくなった刀を敵に突き刺し、その敵が腰に差している刀を引き抜き、さらに敵を切り捨てる。


 しかしそうしているうちに不意を突かれて、腕や脚に傷が増えて行き、更に疲れも相まって長政の動きは鈍っていく。


 疲れの余り、額からしたたる汗をぐっと拭い去った、そんな一瞬の隙を見せた時だった。


「覚悟!」


 たおれた斎藤兵の影から突然現れた敵。その手には刀が握られ、切っ先はまっすぐ長政の腹に向けられている。


 しまっ――

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