015_永禄三年(1560年) 伊吹山の戦い1
雪降り積もる関ヶ原で一夜を過ごした浅井軍。
その翌朝。未だ日が昇り切らない中、浅井の陣に急報が舞い込んだ。
「報告! 六角軍、挙兵の動き有り! 佐和山城を目指し進軍を始める模様!」
まさか、と誰もが表情を強張らせる。
「それはいつの事だ!」
誰よりも先に、その場にいた浅井政澄が声を上げた。
「はっ! 六角の動き怪しく、物見が知らせに走ったのが二日前、佐和山城の百々盛実様より、知らせを遣わされたのが昨日昼頃の事にございます!」
「六角の兵数は」
「六千とも、七千とも」
「六……!」
政澄だけでなく、その場にいる誰もが言葉を失った。
兵を集めるのに大体一日から二日。そこから出陣したとしても今日には佐和山城に六角軍が到達する。
佐和山城に詰める兵は百々盛実率いるわずか一千のみ。六千もの兵に囲まれれば、勝ち目はない。
その六千の兵がそのまま関ヶ原になだれ込んで来れば、浅井軍は万事休すだ。
「おのれ、示し合わせたか六角承禎!」
「このままでは六角に背後を突かれ、一網打尽にされよう。急ぎ近江へ戻らねば」
「待て、今に兵を退けば、竹中から追撃を受けてそれどころではなくなる。もう少し様子を見るべきだ」
本陣に集められた将たちは、焦り気味に声を上げる。
昨日まで勝ち戦の様相だっただけに突然降ってわいた危機に彼らは浮足立った。
ああでもないこうでもないと誰もが好き勝手に意見を言い始め、軍議は瞬く間に紛糾する。
合議制を採用する浅井家の悪いところが、土壇場で露呈した形だ。
このままではまずい。本能的にそう判断した長政は、彼らを諫めるために口を開いたが、しかしそこから声が発することはなかった。
「静まれぇい!」
海北綱親の割れるような怒声が本陣に響き渡ったためだ。
彼のそのたった一言で、辺りはしんと静まり返ってしまった。
そして、誰もが海北綱親に視線を集める中、彼は一人粛々と告げる。
「六角と竹中が同調して動く事、読めなんだはそれがしが失態。責めは近江に戻りし後にうけましょう。しかし今は、目の前の危機に対処する事こそ肝要と存じまするため、引き続きそれがしが采配を振るいまするが、ようございますな」
そう言って視線を長政に向ける綱親。
その言葉に長政は頷き返す。
「この出兵自体、合議の上で成った事。今更誰の責任だと言うつもりはない。責めを負うならば、判断を誤った私であり、その私に誤った情報を入れた皆の責任だ。綱親一人が背負う責無し。引き続き頼む、綱親。我らは次にどうすればいい」
はっきりと、長政が皆の前で誰に指揮権があるかを明確にしたため、彼らの混乱は瞬く間に収まり、誰もが海北綱親に視線を集めた。
彼らの視線が集まった事を確認した綱親は、一度頷くとすぐに続ける。
「ならば、まずは正面の竹中が追撃して来られぬ様、これを叩きまする。その上で転進し、佐和山城まで退いて六角に当たりまする。他に、異存は」
経験豊富な軍奉行の言葉だ、今更誰も反対などしない。
ましてやそれが長政のお墨付きともなれば、わざわざ反対する者など居はしなかった。
海北綱親の的確な指示によりすぐさま軍議をまとめた浅井軍は、当初の予定通りに竹中隊を撃破し、続けて転進して近江へ引き返す事に決めた。
流石は浅井家屈指の将、不意の機転や判断が素早い。
その豊富な経験に基づく迅速果断な指揮は、兵達に安心を与えるのだろう。
浅井家の当主として、彼の在り方を見習わなければならない。
そう思っていると、誰もが本陣を後にする中、海北綱親が長政の傍へやってきた。
そして。
「殿、ありがとう存じまする」
なぜかそう言って、頭を下げた。
「何だ、何も礼を言われるような事はしていないぞ」
「それがしの過ちを無き物とし、まずはこの場を鎮めるためにそれがしに一任下さった事にございます。そのお蔭で軍議をまとめることが出来た次第。改めて御礼申し上げまする」
長政としては、現状を最も理解しているだろう海北綱親だからこそ指揮を委任しただけで、言ってみれば丸投げしただけに過ぎない。
そんな事にお礼まで言われるとむずがゆくなってしまう。
「気にするな、その代わり結果を出せ。軍奉行の力、見せてもらうぞ」
「ははっ」
そうして混乱から立ち直った浅井軍は、早速竹中隊への攻撃を開始した。
後方を六角に脅かされている事もあって、浅井軍は本隊も含めて前進し早期撃滅を狙う。
その甲斐あってか、開戦直後から瞬く間に敵を押し込んだ浅井軍は、竹中隊をじわじわと後退させていく。
視界の先で行われる合戦を眺めながら長政がちらりと綱親の表情を伺えば、彼の予定通りの戦運びのようで伝令の知らせを受け取る度に「うむ」と頷いていた。
「順調か」
視線の先、竹中隊の旗の動きを見ながら問えば、綱親は「はい」と答えた。
「竹中め、さしずめ我らの後ろを六角に攻めさせて、撤退するところを追撃するつもりだったのでしょう。我らが反撃に出た途端、まともな抵抗もなく退いていきます。このまま竹中めを討ち取ってくれましょう」
どうやら綱親の予定通りに戦が運んでいる様子で、長政も胸を撫で下ろす。
このままいけば、昼前には竹中隊を破ってそのまま近江に引き返す事が出来そうだ。
……しかし、そう思う一方で、引っかかるように心の底に不安が残る。
相手はあの竹中半兵衛だ。
戦国時代に蘇った諸葛亮、今孔明と呼ばれる程に智謀に溢れたとされる名軍師が、果たしてそんな単純な策だけで数の不利を無視して戦に臨むのだろうか、と。
もし浅井軍がそのまま竹中隊を攻撃し、早期撃破を狙ってきた場合、彼は何も成す術無く撤退するつもりだったのだろうか――
「……」
ぬぐいきれない違和感を抱えたまま、長政は本陣に広げられたこの辺りの地図を見下ろす。
綱親が置いたのだろう碁石が、それぞれの部隊の位置に合わせて地図の上に点々と置かれていた。
関ヶ原に置かれているのは黒い碁石。今まさに後退している敵、竹中隊を表現しているのだろう。
その西には自身が居る浅井軍本陣。更にそこからずっと西には百々盛実が守る佐和山城と挙兵の動きを見せる六角軍。
もし何かを仕掛けるのであれば、真っ先に思いつくのは奇襲、もしくは伏兵だ。
しかし、関ヶ原は広く見通しが良いため、今の浅井本陣を狙える位置に兵を伏せられるような場所があるとは思えない。
ならば六角軍が想定よりも早く襲い来る危険はどうだろうか。佐和山からの伝令は、百々盛実から送られたもの。日数にして一日から一日半ほど情報の遅れがある。
もし既に佐和山城が攻め落とされているような状況になっているとしたら?
そこまで考えても、どの道正面の竹中隊を排除する必要性に行き当たる。竹中隊を無視して撤退でもしようものなら、たちまち背後を突かれて総崩れとなるだろう。
実は戦の勝敗が決定的に決まるのがこの退却の時で、真正面からぶつかり合っている間はどちらの損耗も大して変わらないが、追撃戦になった途端に撤退する側の死傷者が増えるのだ。
だからこそ、正面の敵に背後を見せる事は危険であり、まずはその排除を誰もが考えるのだ。
「……いや、待てよ……」
長政の心に残る引っかかり。その正体を見つけた気がした。
そう、竹中隊を無視して撤退するのは総崩れに繋がる。追撃戦こそが最も犠牲者の出る瞬間だからだ。
そうなれば必ず、浅井軍は竹中隊撃破の為に全力を傾ける。それも、背後から六角軍が攻めてくるかもしれないという焦りと共に。
「まさか……それが狙いか?」
長政の首筋にヒヤりとしたものがよぎる。敵が正面から力押しで攻めてくるとわかっていれば、これほど対処しやすいものはないはずだ。
にも関わらず、竹中隊は来るとわかっていたはずの浅井軍に押されてじわじわ後退している。これ自体が違和感の塊だったのだ。
先ほどから浅井軍優勢を伝える伝令は次々入っている。だと言うのに、竹中隊の壊滅、或は兵の逃走を伝える報告は入らない。
気づいてしまえば何もかも違和感しかなかった。
この時代、不利になれば兵は逃げ出すのが常。
だからこそ将の勇名は重要で、どれだけこちらが有利かわからせるため、大義名分を掲げて常に箔を付ける必要があるのだ。
そして、だからこそ不利にみせかけて敵を誘引するような動きは非常に難しいと言われ、兵の練度を必要とするのである。
「不利に見せかけ……敵を誘引する?」
考えがそこまで至ったとき、長政は背筋がゾッとする感覚を覚えてすぐさま叫んだ。
「綱親、罠だ! これは釣り野伏だ! 敵の伏兵が居る!」