010_永禄三年(1560年) 文殊の知恵
その日の夕暮れの事。長政と直経の二人はその日のうちに小谷へ戻る事を諦め、四木村で十兵衛、島勝猛らと共に夜を明かす事にした。
村で一番大きな屋敷に向かう中で、遠藤直経が長政に耳打ちする。
「妙な気は起こさぬよう、くれぐれもお頼み申します」
妙な気、とは言わずもがな、この村の事情に首を突っ込むなという事なのだろう。
「しかし……元はと言えば浅井が――」
「だとしても、です。……かような事、日本のどこでも起きています。その度に殿は、首を突っ込まれるおつもりですか?」
「……そんなこと、わかっている」
長政はただ一言、そう答えるばかりだった。
そうして屋敷に通され、夕飯として粟や稗ばかりの握り飯が一つと焼き魚が一匹それぞれ出された。普段の長政の食事からすると貧相この上ないが、六角に襲われて食料に困窮するこの村ではこれが精いっぱいのもてなしなのだろう。
むしろ、急に現れた長政や直経に対して食事があるだけありがたい。
せめてもの気持ちだと手持ちの金を渡したものの、金で腹は膨れない。あの金が彼らの助けになる事を祈るばかりである。
「十兵衛殿は、これまでどんなところを巡られたのだ?」
明かりは夕日だけのため部屋の中は薄暗く、どうしても気落ちしてしまう気分をごまかすためか、島勝猛がそんな風に十兵衛に話を振る。
近江しか知らない長政も、この時代の別の場所がどうなっているのか興味がある。「私も聞きたいな」と勝猛に続くと、十兵衛はうむ、と頷いてゆっくり口を開いた。
「これまでに美濃、尾張、近江……それから京に赴いた」
「ほう、京に! 京には様々な物が集まっているという。さぞきらびやかな街並みなのだろうな」
十兵衛の言葉に身を乗り出して島勝猛がそう言った。
この時代の京と言えば、日本の政治の中心だ。現代で言えば東京のようなところだが、この時代の者達にとって、京は現代よりもずっと遠い場所だった。
交通が発達していないこの時代、同じ日本でも隣国に行けばそこは別の国家と言っていいほど勝手が変わる。
現代で例えるならばそれこそ、国境を跨ぐようなものだ。
そんな国境を幾つも越えた先にあるのが京なのだから、誰もが京に住まう人々を想像し、伝え聞く京の街並みに憧れを抱いていた。
しかし、そんな勝猛の様子とは打って変わって十兵衛の表情は暗く沈む。
「いや、今の京にそのような街並みは残ってはおらん。相次ぐ乱と騒動で建物は焼け落ち、あちこちで仕事を求めてやってきた者達が行き倒れ、死んでいる……そんな場所だった」
「そ、れは……」
予想だにしない答えに、勝猛も長政も口をつぐんだ。
「そんな彼らを供養する者も、崩れた建物を修繕する者もおらず、誰もが見て見ぬふりをして必死に生きている……さながら地獄に居るような気分であった」
十兵衛の言うように、この時代の京は応仁の乱から続く度重なる戦によって疲弊しきっており、細川や三好の政争によって内政どころでは無くなっていた。
長政もそんな事情を頭では理解していたが、いざそれを見た者から直接話を聞くと、自身の想像がまだ甘い事を痛感する。
「しかし、京には将軍様がおわすのであろう? ならば将軍様が一言、戦を辞めよと、そう申して下されば戦は止まるのではないのか?」
勝猛の言葉に、答えられるものは誰も居なかった。
第十三代征夷大将軍、足利義輝。
後に剣聖として歴史に名を残す彼ですら、幕府の衰退を留めることはできずにいた。
百年程前に起きた応仁の乱。その乱以降、幕府の権威は地に落ちた。
当時の将軍の世継ぎ争いに端を発したこの戦いは、やがて各大名が己が利の為に他国を侵略する戦いへと変貌し、各地へ戦火を飛び火させ、日本を真っ二つに引き裂いた。
全てを力で決着させる時代、戦国時代の幕開けである。
足利家より土地を任された守護大名らは次々に侵略や下剋上によって国を追われ、当の将軍家も応仁の乱の影響で力を失っていく。
街が、村が、畑が戦火に焼かれ、秩序とは程遠い混沌の中で略奪や飢饉に見舞われ、戦と飢餓と疫病で次々に人が斃れていく。
誰もが明日をも知れぬ恐怖と不安に呑み込まれて武器を取る、そんな暗黒の時代が長く続いた。
その暗黒は、幕府の権威を人々から忘れさせるにはあまりに十分な時間だった。
やがて人々は何故戦い始めたのかも忘れ、大義のためだった戦いは因縁と因果によって縛られ、仇討ちのために戦い、報復のために戦い、守るために戦い、あらゆる戦いが起こるその度に人や畑が焼かれていった。
この長い戦いの中で京は幾度も戦火に焼かれ、歴史ある公家屋敷や寺社は焼け落ち、文化財に指定されたであろう貴重な書物の数々はいずれも灰になった。
この頃になると幕府は金も武力も持たない、名ばかりの飾りと成り果て、各地で好き勝手に土地を治める大名達を咎めることすらできなくなっていたのだ。
「今では京を統治するのは三好長慶やそれに連なる者ばかり。将軍家もその三好を傘下に加えたとは言え、傀儡である事には変わりないままだ」
暗い表情で十兵衛は語る。
「陰では、三好長慶を副王などと呼ぶ、不遜な者達もいる始末……戦をやめるどころか、これからますます荒れるであろう……」
最後にそう締めくくった十兵衛の言葉は正しく、長政の知る未来では、ここから京を舞台とした政争が更に混沌を極めていくことになる。
京に真の平穏が訪れるのはこれから十年以上先、信長の天下が決してからなのだ。
これから先の未来を知らない十兵衛も、そして先を知る長政も。
京にしばらくの間、平穏が訪れない事がわかり自然と口をつぐんだ。
二人が口を閉じれば勝猛や直経も自然と口を閉じ、四人の間には重い空気が漂う。
「とにかく、まずは六角だ。どうやって対処するか、考えねばな」
空気に耐えかねた長政が口を開くと、十兵衛や勝猛もその言葉に頷いて握り飯をさっさと口に運んだのだった。
◆――
その翌朝から、百姓達に対しての島勝猛の指導が始まった。
とは言え時間は限られている。教える事といえば専ら、簡単な武器の扱いと戦い方だけだ。
「次は右から敵だ! 構えェー!」
島勝猛が高らかに叫ぶが、そもそも百姓達の中には右がどちらかわかっていない者も多く、バラバラと方向を変えてはあっちこっちと振り向いている。
これには思わず、十兵衛もため息を漏らす。
「贅沢は言えぬものの、これで六角兵と戦うにはいささか不安が大きいな」
十兵衛の言葉に長政も頷く。
義務教育が存在しないこの時代、日々を生きるので精一杯の彼らは子供ですら畑仕事に勤しむ必要があるため、勉強の時間なんてものは当然作れない。
また僅かな時間を使って行われる教育も大人達の記憶を頼りに口頭で受け継がれていくものであるため、それが世代を越える毎に積み重なっていけば、算術はおろか読み書きすらできない者達ばかりになるのは当然と言えた。
その結果目の前にいる百姓たちのように、簡単な動きすら揃えられなくなるのである。
そしてこの時代の戦の主力はこうした百姓達であるため、彼らが特別酷いわけではない。
秩序も規律も存在せず、烏合のように集まって大将の指示に従って戦い、そして解散する。どこでもよく見られた農兵達の日常の一コマである。
それでも心もとなく感じるのは、普段は数千人規模の大群であるため多少の乱れは気にならないが、今回は数十人規模のためどうしても一人一人の乱れが目立つからだろう。
「このまま正面から戦っても難しい。何か策を用意すべきでしょう」
長政がそう提案すると、十兵衛はううむと唸る。
「とは言え、これでは策らしい策もろくに用意できん……どうしたものか」
「ならば一つ、策……というほどの物ではございませんが」
長政がそう告げると、十兵衛は興味深そうに片眉を上げた。
「この戦いは、あくまで米や民を守るための戦い。勝てずとも、負けなければよろしい」
「それは、その通りだが……」
「敵は南より来たる。下手に引き込めば村を焼かれ、被害が広がる。ならば南に陣を築き、敵に諦めさせるのが上策かと」
そこまで言えば心得があるのか、長政の言いたい事を察したらしい十兵衛は「なるほど」と声を上げた。
「敵はこの村に米を奪いに来る。それは裏返せば、敵は兵糧を持たぬという事。攻め手に兵糧無くば、援軍無き籠城とて勝ち目はある。確かに、勝てるやもしれん」
十兵衛の言葉に、長政は頷き返したのだった。
米や金を守るための砦。
村の南の道にひたすら瓦礫を積み上げて侵入を困難にし、そこを中心に四方を囲むことで寄せ手の心を折り、空腹で退く事を目的とする守りの策。
堀を掘ることができれば尚良い。
万全とは言い難くとも、今を乗り切るには充分だろう。
それから地面にがりがりと砦の詳細について長政が描けば、「こうすれば良いのではないか」と十兵衛がそこへ更に描いていく。
「上手いものですね」
「多少心得がある」
そう言って次々描いていく十兵衛の絵は確かに見やすい。
そこへ先ほどまで百姓たちを見ていた島勝猛も現れ、三人で更に案を出す。
「火を使われた際はいかにする? いくら守りを固めたところで、柵を焼かれては元も子もなかろう?」
「米がある事知れれば火は使えますまい。肝心の米まで焼いては意味がありませぬから」
予想される敵の数、お互いの戦力差、敵の考え、敵の動き、そしてそれらに対応する味方の動き。それらをそれぞれの視点から詰め、やがて一通りの意見が出そろったところで十兵衛が満足気に頷いた。
「これならば守り切れるやもしれん」
描き上げたのは四木村を守るための砦。
なるべく狭く、より高く壁を築き上げることで限られた手勢で米を守りきる砦だ。
「三人寄れば、とはよく言ったものだな」
百姓達に指示を出し、早速砦を築き始めたところで勝猛がそんな事を言って笑う。
「新十郎殿のお蔭だ。私と勝猛殿の二人では、こうは行かなかっただろう」
続けて十兵衛もそう言って長政に笑って見せる。
「いえ、私は何も……」
正面から褒められると少しばかり照れ臭いが、悪い気はしない。
元はと言えば、浅井家が六角に対して反旗を翻したところから始まった戦いだ。
多少なりとも罪滅ぼしができたのなら喜ばしかった。