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イチノセくんといすゞさん

掲載日:2022/01/27

よろしくお願いします。

「生きているのがつろうございます」


 ある日薬局を訪れた、いすゞさんという女性は、「体調はいかがですか」とたずねた僕の言葉にそう答えた。


「ようやく、ようやく……やっと生きているような感じでございますよ。こんなに生きるのがつらいとは思いませんでした……」


 力のない言葉とは裏腹に、その女性……いすゞさんの声にはとても張りがあった。


「戦争を越えてこうして九十三まで生き、もうすぐ九十四になりますのに……もう何の楽しみもございません」


 僕は九十一で亡くなった曾祖母の顔を思いだし、話を合わせながらあいづちをうった。


「そうですか、僕の祖母もよく嘆いていました。『会いたいのは女学校時代のお友だちなのだけど、もうだれも居ないのよ』と」


 〝曾祖母〟ではなく〝祖母〟にしたのは、〝ひいばあちゃん〟ではさすがに嫌がるかもしれない……という僕なりの気遣いだった。祖母だとしても〝ばあちゃん〟なのだから気に障るかもしれないが。


 けれどいすゞさんはハッとしたようにまばたきをした。〝女学校〟というキーワードが彼女の琴線にふれたらしい。その瞳にすこし生気が宿った。


「本当に……女学校のときのお友だちならば……会いたいですわ。みんなみんなもう……まだ生きている方たちも施設に入ってしまうとそれきりで、連絡もままなりません」


 当時〝女学校〟に通えたのは、裕福な家庭に生まれ育った女性だけだ。いすゞさんはきっと成績もよかったのだろう。


「施設に入ってしまうとそうですね」


 以前僕は老人ホームに車で薬を届けるサービスをしていたことがある。いすゞさんにうなずいて相槌を打ちながら、僕はそこに入居していた七尾さんという女性を思いだしていた。


 お金持ちだけが入れるというその老人ホームの入り口は、季節ごとに大きな花瓶に花が生けられて、まるで高級ホテルのロビーみたいだった。


 石庭がしつらえてある中庭を横目に、ぶ厚い絨毯が敷かれた廊下を歩く。部屋番号が書かれたリストを手に、薬が入ったカゴをカートに載せて、各部屋をまわり薬を届けるのだ。


 大きな施設だから医師の往診があった日は、そこだけで三十件ほどになる。各部屋の扉がバリアフリーで引き戸になっているほかは、普通の集合住宅と変わりない。


 そのうち幾つかの部屋は、ノックのみで入室が許されていた。僕が引き戸を軽く拳で叩いてから玄関を開ければ、すぐに明るい室内が見渡せた。あがりかまちと居室を隔てる戸は、いつも閉められていない。


「こんにちは、ひまわり薬局の一ノ瀬です。お薬のお届けにまいりました」


「はい」


 声をかけると七尾さんの返事があり、僕は靴をそろえて脱ぎ、備えつけのスリッパに履き替えて入室する。


 ホームはヘルパーさんの手が入っているから安心できた。本当に一人暮らしで福祉の手が入るような酷い所は、し尿でびちょびちょになった床の上を、使い捨てのスリッパにビニールをかけて、踏みこまないといけなかった。


「こんにちは」


「お加減はどうですか、七尾様」


 薬をベッド脇の所定の場所に置き、僕がしゃがんで話しかければ、七尾さんはしっかりした声で返事をする。


「……変わりないわ、相変わらず体が痛い」


 寝たきりの彼女はずっと天井を見つめて、一日を過ごしていた。


「この部屋は西日がきついのよ、のどが渇くの」


 ベッドわきのボタンを押せば、いつでもヘルパーさんが来てくれる。だけどひとりでベッドに横たわる七尾さんは、ひたすら孤独にみえた。彼女は確か……いすゞさんよりも十は若かった。


 もうすぐ九十四になるという、いすゞさんは背もピンと伸びて声にも張りがある。血圧の薬を飲んでいるものの、薬歴をみる限り、消化器や心臓にも異常はないようだ。


 服も薄桃の柔らかな色味のカーディガンを、凝った細工がある飾りボタンを、きっちり留めて着こなしている。とても()()()()()()()()()とは思えないが、老人の命のかぼそさも僕は知っていた。


 もう午後のピークを過ぎ、薬局の外も暗くなりかけた頃だ。店にいた患者はたまたま、いすゞさんだけだった。


「お子さんは?」


「子どもはもうとうに……おりません」


 いすゞさんは言葉を濁し、僕はそれ以上聞くのをやめた。


「老人ホームの広告もこうやって、持ち歩いておりますの。ほら、こうして。でもねぇ……とてもお高いのですよ」


 いすゞさんはそう言って手提げバッグから、伊豆半島にある老人ホームの新聞広告を取りだした。


 新聞の全面広告を使ったそれには、全国にある施設一覧と、豪華な館内の設備を紹介する写真が載っている。広大な敷地にはスポーツジムに温水プール、ゴルフ場などもついていた。


 館内にはカラオケルームやミニシアターも設置され、きっと往年の名画が上映されている。『寅さん』なんかは今でも人気だ。僕はざっと写真をながめて返事をする。


「そうですねぇ……ゴルフ場やプールなどは、要らないかもしれませんね。あまりにも早く入りすぎると、みなさん退屈だと言われますよ。買い物ひとつ出るにも不便されるそうで」


「あらやっぱり。こういう施設はどれも人里離れたところにございますものねぇ」


 ちょっとマイナス面を言いすぎたかと思い、僕はあわててフォローを入れる。


「けれど詩吟の会などもあり、楽しいと聞きます」


「まぁ、そうですか……」


 もう一度いすゞさんは新聞広告に目を落としてから、丁寧にたたんでそれをバッグにしまう。もう何度も眺めたのだろう、新聞紙は少しシワが寄ってごわごわしていた。


 入所金が何億もするような施設でも、生きていることを嘆きながら、その一日を過ごす入所者もいた。


「楽に死ねる方法はないかしら……薬剤師さんならその方法をご存知でしょう?」


 そういう相談を受けたことがある。NYに所有していた不動産を処分して入居したというその女性は、十代で亡くなったという娘さんの遺影とともに、広々とした一室で暮らしていた。


 夭折した美しい少女の横で、笑顔を見せている彼女は、華やかな美貌の持ち主だった。体のあちこちが痛むという老婆に、その面影はもうない。


「好きなように生きて、やりたいことは全部やり尽くしてしまったの。もう生きていたくないのよ。いつでも死ねるように、その方法を知りたいだけ」


 愛娘が消えてしまったこの世界は、彼女にとってもう生きる価値がないかのようだ。


「……僕は知っていたとしてもお答えできません。患者さんが『生きる』ために、手を尽くすのが僕らの仕事ですから」


「そう……」


 彼女は僕の答えだけでは満足しなかった。それから少しNYやパリでの生活について話したあと、彼女は気が済んだのか笑って送りだしてくれた。


 ほっとして薬局に戻り、同僚にその話をしたら、みな彼女には同じようなことを言われた経験があるらしい。


「イチノセ、一軒あたり五分で済ませろ。十分もかかったら、三十件まわるのに五時間かかる。それと私たちがやるのは〝服薬指導〟だ。雑談じゃない」


 叱られるというほどではないが、薬局長には注意された。先輩は呆れた顔をして、タバコを吸いながら笑った。


「イチノセはさ、もっとうまくやんなきゃ。めんどくさい仕事はうまいこと、他人に押しつけて楽をしないと、自分ひとりでやろうとしたら行きづまるぜ」


 先輩の言葉は乱暴だったけれど、自分の欠点をズバリと言い当てられた。彼女にとってはただの退屈しのぎだったのかもしれないな……と僕は思った。


 なかにはわりと元気で、季節ごとにホームで開催されるイベントにも夫婦で参加し、楽しまれる方もいた。


 九重さん夫妻は花見の会や紅葉狩りとあちこちにでかけられていた。老人ホームの館内は広く、部屋を訪ねても捕まらなくて困った。けれど探し出して薬をようやく渡すと、いつも笑顔でねぎらってくれるため、こちらも嬉しかった。


 ある日めまいの薬を届けると、彼らにいつもの笑顔はなく、廊下の端にあるぶ厚い扉を横目で見ながら、奥さんが声を潜めた。


「二〇三号室の千広さん、向こうに行かれたのよ。部屋からあまりでてこられなくなって、最近お姿をお見かけしなくなったな……と思っていたのだけれど」


 穏やかな日常を過ごす居住棟と、扉一枚でへだてられたその奥に、完全介護のために二十四時間、看護師が常駐する棟がある。


 ベッドが並び酸素吸入の機械が置かれ、病院とそう変わりない空間……それが保証されているからこその、何億という入所金なのだ。


 比較的元気で日々の生活を楽しんでいるように見えた彼らも、やがて自分たちがそこに行くことを、心のどこかで恐れながら暮らしていた。


 そんなことは、いすゞさんには言えない。


 老人ホームの七尾さんは、今も天井を見つめて過ごしているだろうし、娘の遺影と暮らす女性は、楽に死ねる方法をまだ探しているかもしれない。


 めまいの相談をしてきた老夫婦は、怯えながらも寄り添って、日々の生活を楽しんでいるだろう。僕は何もできなかった。ただ薬を届けて会話を交わす……やっていたのはそれだけだ。


 とりたてて何かあった訳でもない。誰かの家の玄関まで薬を持って歩く……ひたすらそういう夢を見るようになり、僕はその仕事を辞めた。


 アドバイスしてくれた先輩は、僕より先に辞めてしまっていた。給料は良かったし、今はきっと別のだれかがその仕事をしている。


 僕らに求められるのは〝優しさ〟じゃない。仕事の正確さと、ちょっとした会話からも異変に気づけるだけの知識と慎重さだ。いろいろなことをうまくこなせなかった僕は、単に力不足だったのだろう。


「生きているのがつろうございます。みなさん『その年でそんなにお元気で』とおっしゃるのですが、私にはようやっと、なのでございますよ」


 そうこぼすいすゞさんに、下手な慰めはいえなかった。老いれば食事をするのも、朝起き上がるのもつらいと感じることがある……生きているのもようやっと……曾祖母の言葉で僕はそれを知っていた。


「そうですね……僕の祖母は九十一で亡くなりましたが、最期はまるで自分で決めたかのようでした。なんというか『もういいわ』といった感じで」


「それはいいですね、私にもそんな時が来ますでしょうか」


 薬局で死ぬ話をするのも変なものだが、たまたまその時は、いすゞさんしか患者がいなかった。


「僕が知っているなかで、一番いい死に方だと思ったのは、誕生日か何かでご家族が集まって、お祝いの会をしたときに大好物のカステラを食べられて、『あぁ……わしゃあ、幸せだぁ!』とおっしゃられて、後ろにパタリとひっくり返られてそのまま……」


 いすゞさんの顔がパッと晴れやかになった。


「まぁ!本当にいいわね、うらやましいわ!」


「えぇ、お別れの会も悲しいはずなのに、ご家族がその話をされながら、みなさん笑顔で見送られて」


「そうですよ、本当にうらやましいわ」


「とにかく笑って過ごされることです。あなたの笑顔に勇気をもらうかたがいらっしゃいますよ」


「お若い方にそう言ってもらえるなんて、本当に勇気がでたわ。ありがとうございます、本当に……」


 いすゞさんはそう言い、僕にむかって何度も頭を下げながら帰っていった。死ぬ話をして「勇気がでた」と笑われるのは、なんとも妙な話だ。


 戦争を越えて九十四まで生きた女性に、生きることを嘆かせる社会であっていいのかとも思う。けれど僕にできることは何もない。


「患者さん、笑顔で帰られましたね」


 受付にいた医療事務の三坂さんが、僕にむかって笑顔をみせる。三坂さんの笑顔に僕もホッとして息を吐くと同時に、彼女が僕たちの会話を聞いていたのだと思うと、急に照れくさくなった。


 明るい茶髪の三坂さんは、左耳にピアスの穴が三つもあいていて、私服でいるとギャルみたいなオシャレな子だから、僕はいまだに話す時は緊張してしまう。


「……僕がしたことはアクリル板で隔てたカウンター越しに会話して、薬を渡しただけだよ」


「それでも一ノ瀬さんのおかげですよ、一ノ瀬さんの人柄だと思います」


 三坂さんは笑顔で立ちあがり、閉店準備をはじめた。


 今の僕は街中の薬局で働き、カウンター越しに薬を渡して患者さんたちと会話するだけだ。


 たまたま閉店間際でほかに患者もいなかった。ちょっと話して元気づけるだけのつもりが、むしろいすゞさんに勇気をもらったのは僕のほうだった。


 僕は僕のままでいい。それに今の僕にいすゞさんを笑顔にすることができたのなら、あの日々は決して無駄な時間ではなかった。


 僕たちは歯車じゃない。けれど僕は歯車でいたい。どこかでこの社会とつながって、それを動かす一人でいたい。歯車になったままで僕は、〝僕の形〟をとりもどすことができるだろうか。

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