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イチノセくんといすゞさん

作者: 粉雪

よろしくお願いします。

「生きているのがつろうございます」


 ある日薬局にきたいすゞさんという女性は、「体調はいかがですか」とたずねた僕の言葉にそう答えた。


「ようやく、ようやく……やっと生きているような感じでございますよ。こんなに生きるのがつらいとは思いませんでした……」


 力のない言葉とは裏腹に、その女性……いすゞさんの声にはとても張りがあった。


「戦争を越えてこうして九十三まで生き、もうすぐ九十四になりますのに……もう何の楽しみもございません」


 僕は九十一で亡くなった曾祖母の顔を思いだし、話を合わせながらあいづちをうった。


「そうですか、僕の祖母もよく嘆いていました。『会いたいのは女学校時代のお友だちなのだけど、もうだれも居ないのよ』と」


 〝曾祖母〟ではなく〝祖母〟にしたのは、〝ひいばあちゃん〟ではさすがに嫌がるかもしれない……という僕なりの気遣いだった。祖母だとしても〝ばあちゃん〟なのだから気に障るかもしれないが。


 けれどいすゞさんはハッとしたようにまばたきをした。〝女学校〟というキーワードが彼女の琴線にふれたらしい。彼女の瞳にすこし生気が宿った。


「本当に……女学校のときのお友だちならば……会いたいですわ。みんなみんなもう……まだ生きている方たちも施設に入ってしまうとそれきりで、連絡もままなりません」


 当時〝女学校〟に通えたのは、裕福な家庭に生まれ育った女性だけだ。いすゞさんはきっと成績もよかったのだろう。


「施設に入ってしまうとそうですね」


 以前僕は老人ホームに車で薬を届けるサービスをしていたことがある。いすゞさんにうなずいて見せながら、僕はそこに入居していた七尾さんという女性を思いだしていた。





 お金持ちだけが入れるというその老人ホームの入り口は、季節ごとに大きな花瓶に花が生けられて、まるで高級ホテルのロビーみたいだった。


 石庭がしつらえてある中庭を横目に、ぶ厚い絨毯が敷かれた廊下を歩く。部屋番号が書かれたリストを手に、薬が入ったカゴをカートにのせて各部屋をまわり薬を届けるのだ。


 大きな施設だから医師の往診があった日は、そこだけで三十件ほどになる。各部屋の扉がバリアフリーで引き戸になっているほかは、普通の集合住宅と変わりなかった。


 そのなかのいくつかはノックのみで入室が許されており、僕がノックをして引き戸をひくと、玄関からはすぐに明るい室内が見渡せた。玄関と居室をへだてる戸は開けっぱなしだ。


「こんにちは、ひまわり薬局の一ノ瀬です、お薬のお届けにまいりました」


「はい」


 声をかけると七尾さんの返事があり、僕は靴をそろえて脱ぐと備えつけのスリッパに履き替えて入室する。


 このホームはヘルパーさんの手が入っているから安心できる。本当に一人暮らしで福祉の手が入るような酷い所は、し尿でびちょびちょになった床の上を、使い捨てのスリッパにビニールをかけて踏みこまないといけなかった。


「こんにちは」


「お加減はどうですか、七尾様」


 薬をベッドのわきにある所定の場所に置き、話しかければしっかりした声で返事が返ってくる。


「……変わりないわ、相変わらず体が痛い」


 寝たきりの彼女はずっと天井を見つめて一日を過ごす。


「この部屋は西日がきついのよ、のどが渇くの」


 ベッドわきのボタンを押せば、いつでもヘルパーさんが来てくれる。だけどひとりでベッドに横たわる七尾さんはひたすら孤独にみえた。彼女はたしかいすゞさんよりも十は若かった。


 もうすぐ九十四になるといういすゞさんは背もピンと伸び、声に張りもあって血圧の薬を飲んでいるものの、薬歴をみるかぎり消化器や心臓にも異常がないようだ。


 服も柔らかな色合いの薄桃色をしたカーディガンを、飾りボタンをきっちり留めて着ている。とても「ようやく生きている」ようには見えないが、老人の命のかぼそさも僕は知っていた。


 もう午後のピークを過ぎ、薬局の外も暗くなりかけた頃だ。店にいた患者はたまたま、いすゞさんだけだった。


「お子さんは?」


「子どもはもうとうに……おりません」


 いすゞさんは言葉を濁し、僕はそれ以上聞くのをやめた。


「老人ホームの広告もこうやって持ち歩いておりますの……ほら、こうして。でもねぇ……とてもお高いのですよ」


 そういうといすゞさんは手提げバッグから、伊豆半島にあるという老人ホームの新聞広告を取りだした。


 新聞の全面広告をつかったそれには、全国にある施設一覧と豪華な館内や付属する施設を紹介する写真が載っている。広大な敷地にはスポーツジムに温水プール、ゴルフ場などもついていた。


 館内にはカラオケルームやミニシアターもついていて、きっと往年の名画が観られるのだろう。僕はざっと写真をながめて返事をする。


「そうですねぇ……ゴルフ場やプールなどは要らないかもしれませんね。あまりにも早く入りすぎるとみなさん退屈だといわれますよ、買い物ひとつ出るにも不便されるとかで」


「あらやっぱり。こういう施設はどれも人里離れたところにございますものねぇ」


 ちょっとマイナス面をいいすぎたかと思い、僕はあわててフォローをいれた。


「けれど詩吟の会などもあって楽しいと聞きます」


「まぁ、そうですか……」


 いすゞさんはもう一度新聞広告に目を落としてから、丁寧にたたんでそれをバッグにしまった。もう何度もながめているのかもしれない、新聞紙はすこしシワが寄ってごわごわしていた。





 入所金が何億もするような施設であっても、生きていることを嘆きながらその一日を過ごす入所者もいた。


「楽に死ねる方法はないかしら……薬剤師さんならその方法をご存知でしょう?」


 そういう相談を受けたことがある。NYに所有していた不動産を処分して入居したというその女性は、十代で亡くなったという娘さんの遺影とともに広々とした一室で暮らしていた。


「好きなように生きてやりたいことはやり尽くしてしまったの。もう生きていたくないのよ。いつでも死ねるようにその方法を知りたいだけ」


 愛娘が消えてしまったこの世界は、彼女にとってもう生きる価値がないかのようだった。


「……僕は知っていたとしてもお答えできません。患者さんが『生きる』ために手を尽くすのが僕らの仕事ですから」


「そう……」


 彼女は僕のその答えだけでは満足しなかった。それからすこしNYやパリでの生活について話したあと、彼女は気が済んだのか笑って送りだしてくれた。


 ほっとして薬局に戻り同僚にその話をしたら、みな彼女には同じようなことをいわれたことがあるらしい。


「イチノセ、一軒あたり五分で済ませろ。十分もかけてたら三十件まわるのに五時間かかる。それと自分たちがやるのは〝服薬指導〟だ、雑談じゃない」


 叱られる、というほどではないが薬局長には注意された。


「イチノセはさ、もっとうまくやんなきゃ。めんどくさい仕事をうまいこと他人に押しつけて楽をしないと、自分ひとりでやろうとすると行きづまるぜ」


 先輩の言葉は乱暴だったけれど、自分の欠点をズバリと言い当てられた。彼女にとってはただの退屈しのぎだったのかもしれないな……と僕は思った。


 なかにはわりと元気で季節ごとにホームで開催されるイベントにも、夫婦そろって参加し楽しむ九重さんというご夫婦もいた。


 花見の会や紅葉狩り……元気すぎて部屋を訪ねても捕まらなかったりするが、薬を渡すと笑顔でねぎらってくれてこちらも嬉しかった。


 ある日めまいの薬を届けると彼らにいつもの笑顔はなく、廊下の端にあるぶ厚い扉を横目で見ながら奥さんが声をひそめた。


「二〇三号室の千広さん、向こうに行かれたのよ。部屋からあまりでてこられなくなって、最近お姿をおみかけしなくなったな……と思っていたのだけれど」


 穏やかな日常を過ごす居住棟と扉一枚でへだてられたその奥に、完全介護で二十四時間看護師が常駐する介護棟がある。


 ベッドがならび酸素吸入の機械が置かれ、病院とそう変わりない空間……それが保証されているからこその何億という入所金なのだ。


 比較的元気で日々の生活を楽しんでいるようにみえた彼らも、やがて自分たちがそこに行くことを、心のどこかで恐れながら暮らしていた……そんなことはいすゞさんにはいえなかった。





 老人ホームの七尾さんは今も天井を見つめて過ごしているかもしれないし、娘の遺影と暮らす女性はまだ、楽に死ねる方法を探しているかもしれない。


 めまいの相談をしてきた老夫婦は、怯えながらも寄り添って日々の生活を楽しんでいるのだろう。僕は何もできなかった。ただ薬を届けて会話を交わす……やっていたのはそれだけだ。


 とりたてて何かあった訳でもない。だれかの家の玄関まで薬を持って歩く……ひたすらそういう夢をみるようになり僕はその仕事を辞めた。


 僕にアドバイスしてくれた先輩は僕より先に辞めてしまった。いまは別のだれかがその仕事をしている。


 僕らに求められるのは〝優しさ〟じゃない。仕事の正確さと、ちょっとした会話からも異変に気づけるだけの知識と慎重さだ。いろいろなことをうまくこなせなかった僕は、単に力不足だったのだろう。


「生きているのがつろうございます。みなさん『その年でそんなにお元気で』とおっしゃるのですが、私にはようやっと、なのでございますよ」


 そうこぼすいすゞさんに下手な慰めはいえなかった。老いれば食事をするのも、朝起き上がるのもつらいと感じることがある……生きているのもようやっと……曾祖母の言葉で僕はそれを知っていた。


「そうですね……僕の祖母は九十一で亡くなりましたが、最期はまるで自分で決めたかのようでした。なんというか『もういいわ』といった感じで」


「それはいいですね、私にもそんな時が来ますでしょうか」


 薬局で死ぬ話をするのも変なものだが、たまたまその時はいすゞさんしか患者がいなかった。


「僕が知っているなかで一番いい死に方だと思ったのは、誕生日か何かでご家族が集まってお祝いの会をしたときに大好物のカステラを食べられて、『あぁ……わしゃあ、幸せだぁ!』とおっしゃられたまま、後ろにパタリとひっくり返られてそのまま……」


 いすゞさんの顔がパッと晴れやかになった。


「まぁ!本当にいいわね、うらやましいわ!」


「えぇ、おわかれの会も悲しいはずなのに、ご家族のかたがその話をされながらみなさん笑顔で見送られて」


「そうですよ、本当にうらやましいわ」


「とにかく笑って過ごされることです。あなたの笑顔に勇気をもらうかたがいらっしゃいますよ」


「お若いかたにそう言ってもらえるなんて本当に……勇気がでたわ。ありがとうございます、本当に……」


 そういっていすゞさんは、僕にむかって何度も頭を下げながら帰っていった。死ぬ話をして「勇気がでた」と笑われるのは、なんとも妙な話だ。


 戦争を越えて九十四まで生きた女性に、生きることを嘆かせる社会であっていいのかとも思う。けれど僕にできることは何もない。


「患者さん、笑顔で帰られましたね」


 受付にいた医療事務の三坂さんが、僕にむかって笑顔をみせる。三坂さんの笑顔に僕もホッとして息を吐くと同時に、彼女が僕たちの会話を聞いていたのだと思うと急に照れくさくなった。


 明るい茶髪の三坂さんは左耳にピアスの穴が三つもあいていて、私服でいるとギャルみたいなオシャレな子だから僕は話すのにいまだに緊張してしまう。


「……僕がしたことはアクリル板で隔てたカウンター越しに会話して、薬を渡しただけだよ」


「それでも一ノ瀬さんのおかげですよ、一ノ瀬さんの人柄だと思います」


 三坂さんはそういって立ちあがり、閉店準備をはじめた。





 いまの僕は街中の薬局で働き、カウンター越しに薬を渡して患者さんたちと会話するだけだ。


 たまたま閉店間際でほかに患者もいなかった。ちょっと話して元気づけるだけのつもりが、むしろいすゞさんに勇気をもらったのは僕のほうだった。


 僕は僕のままでいい。それに今の僕にいすゞさんを笑顔にすることができたのなら、あの日々は決して無駄ではなかったのだろう。


 僕たちは歯車じゃない。けれど僕は歯車でいたい。どこかでこの社会とつながって、それを動かす一人でいたい。歯車になったままで僕は〝僕の形〟をとりもどすことができるだろうか。

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