目覚めないで、旦那さま
淫魔というものがいる。
それは悪魔とか霊とかそういった類の超越的存在で、若く美しい女に憑依し、男とまぐわって精を貰い受けると、満足して消える。
ニコラの国では、この淫魔に取り憑かれた女性が半年に一回ぐらい現れる。けっこうな頻度だが、憑依を予防する対策が何もないので、誰も何も出来ていないのが現状だ。もっと言うと、淫魔は憑依した女性の身体から消える際に、胎の中の精まで持っていってしまうので、望まない妊娠をすることもない。もちろん不幸なことには違いないのだけれど、恋人や夫がいる女性にとっては、実を言うとそこまで恐ろしいことではなかった。
そういったこともあって、この天災にこの国の人たちはそこそこに慣れていた。憑依された女性は身体のどこかにそれと分かる紋様が浮き出るので、見かけた場合は粛々と対応して淫魔が消え去るのを待つのが一般的だった。
黒髪に青い目の冷たい印象の美人で、21歳のニコラも、例によってある日、淫魔に憑依された。彼女には夫がいたので、そこまで悲惨なことにはならないはずだった。
ならないはず、だった。ニコラはただ、不運だったのである。
「ごめん、出来ないみたい」
夜、広いリネンのベッドの上で、向き合った夫が申し訳なさそうに項垂れている。その言葉に、ネグリジェを脱ごうとしていたニコラはそのまま固まって、無表情で夫を見返した。
「……出来ない、とは」
冷え冷えとして聞こえるニコラの声に、夫はますます項垂れた。
「そんな気に、なれない……」
不運は奇跡的に重なった。
屋敷でニコラが淫魔に憑依されたとき、商人である夫は遠方に出張をしていて、3日間は戻らない予定だった。ニコラに憑依した淫魔はそれを家令から聞いた途端、怒り狂って、今すぐに男なら誰でも良いから性交させろと要求し、しなければこの場で舌を噛んで死ぬと言った。
困った家令は高齢で、その場にいたのはもう1人、中年女性のメイドのみ。2人は慌てて、商会の従業員で若い独身男性を1人連れてきて、秘密裏に淫魔と性交させることにした。優秀で人柄の良い男性従業員は、事情を聞き、「奥様の命を救うためならば」と、決死の覚悟をもって請け負った。憑依された女性にその間の記憶はない。家令とメイド、その男性のみが墓場までその秘密を持っていけば、それで終わるはずだった。
ニコラの夫が、遠方から何故かとんぼ返りして、ちょうど彼女と男性従業員の真っ最中に、ニコラの部屋に訪ねに来さえしなければ。
「……それは、私のような、夫以外に身体を開いた不貞な女には、今後いっさい触れたくないという意味でしょうか」
ベッドに座るニコラの声は震えていた。
夫とはあからさまな政略結婚をした間柄であり、ニコラがここにいる理由は、彼の跡取りを生むことにある。それが出来ないとなれば、放り出されるのは時間の問題だ。生家から勘当されているニコラに戻る場所はない。路頭に迷うこと間違いなしである。
「それは違う」と、夫がゆっくりと顔を上げた。
「だってあれは事故じゃないか。そりゃ、その時は僕もきみの不貞を見たと勘違いしたけど、あれは淫魔のせいだ。そんなこと思ってない」
「では何故」
「……分からない……」
困り果てたような夫が哀れに思えて、ニコラは真顔のまま、首をかしげた。
「困りましたね」
夫も、真似して首をかしげた。
「困ったね」
この町で一番大きな、メディ・アン商会を束ねる商人である夫……バードは、ニコラと結婚をしてから1年が経つというのに、なかなか理解のしがたいところがある男だった。最近染めるのをやめた、色素の薄い茶色い髪。人あたりが良くて穏やかだが、常に上がった口角と細い狐目が、本心を察しさせない。典型的な腹の読めない商人である。
ニコラと男性が部屋で事に及んでいる最中を見かけて、喧嘩では勝てないから、という理由で扉の隙間から終わるまで眺めていたという、そういった理解不能な行動を時々とる。しかもニコラに浮かんだ淫魔の紋様はぱっと見て見えない場所にあったから、後から家令に事情を聞くまで、完全にバードは彼女の不貞の現場だと思い込んでいた。というのにだ。
ますますニコラには理解しがたい。
……まあでも、政略結婚と考えればそこまでおかしな話ではないのかもしれない。
ニコラは膝の上でギュッと手を組んだ。
「出来ないとなれば、策を講じなければなりません。子が出来なければ、商会の跡取りが決まらない。メディ・アン商会はたくさんの従業員を抱えています。彼らの仕事を失くすようなことだけは避けなければ」
バードは目を逸らしている。
「……きみ以外と子供を作る気はないよ。相続が面倒くさい」
「それは私もやめて欲しいところです。私の存在意義がなくなってしまう。……困りましたね」
「困ったね」
2人でむむむ、と考え込む。ニコラは内心焦っていたけれど、バードはあまり気にしていないようだった。
ニコラは跡取りを作るために、どうにかしてバードをその気にさせるか色々案を出したけれど、バードは難しい顔をしたまま、なかなか首を縦に振らない。
「媚薬はどうでしょう、旦那さま」
「そのあと不能になるらしいよ。怖い怖い」
「巷では、女性が上になって責めるのが流行りらしいですよ」
「僕が責めたいんだよね」
「め、目隠しをさせてくださいませ。私と思わなければ、背徳感で盛り上がるかもしれません」
きみとしかそういうことをする気はないよ、とバードは念押しをして、困り果てたように溜め息をついた。
「とりあえず、この件に関しては少し時間をもらえないかい。焦ることもないだろう。僕はまだしも、きみはまだ若いんだし」
ニコラはそこでいったん諦めた。ここで食い下がっても状況は良くならない気がしたからだ。
それを見たバードは、さっきまでのしょぼくれた様子がどこに行ったやら、一瞬でにこやかになった。ニコラの手の甲にキスをして、ベッドから引き上げて自室に戻る。
「ごめんね。じゃ、おやすみ」
手を振った夫にいっさい表情を変えないまま手を振り返して、ニコラはある決意を固めた。
それから1ヶ月ほど経ったけれど、夫は全くニコラに触れようとしない。もともと週に1回程度はあったはずの触れ合いがぱたりとなくなってしまった。
かと言って、夫婦仲は別に冷えても温まってもいない。
ニコラは現在、バードのメディ・アン商会の経理を務めている。政略結婚でビジネスライクな関係だったけれど、クールなニコラとおおらかなバードは不思議と波長が合ったので、あんがい仲良しで過ごしていた。変わらずに。
……夜の営み以外は。
「持ってきてくださいましたか、旦那さま」
夜、ニコラの部屋にて。
ニコラの冷え切ったような美貌で見つめられたバードは、頷いてから、飾りボタンのついたシャツをニコラに差し出した。何やら殊勝な顔をしている。
「これが……」
「『彼シャツ』ですわ、旦那さま」
巷で流行りの「彼シャツ」の効果は絶大だと言われている。恋人や伴侶との体格差を改めて感じて、キュンキュンすること間違いなし、らしい。
「……どうでしょうか」
着替えたニコラはちょっとだけ尻込みした。シャツから伸びた自分の足がいやらしいような、恥ずかしい気がする。自分の白い眦に朱が走っていることに、ニコラは気づいていなかった。
「……そ、その気になりましたか。旦那さま」
ニコラのベッドに座り込んだバードは、ベッドのそばに立った彼女に、何故か難しい顔を向けてきた。
「わ、分からない……」
「ダメですか……」
がっかりしかけたニコラに、バードが唸っている。
「その気にはなってる」
「そうなのですか」
「でも分からない……僕の興奮の出所が……」
「で、出所とは……?」
「ほんとは……僕のシャツじゃないんだ、それ……」
ニコラはぎょっとした。よく見れば確かに、バードはこんなに体格が良くない。
「つい先日『質流れ』した、貴族のオジサンのシャツなんだ、それ……金糸と宝石のボタンで……15年前に亡くなった有名なデザイナーが作った一点もの……僕は……着たことがない……」
なんてものを着せてくれたのか。
ニコラは真顔でバードを見返して、夫は苦渋の様子で額を押さえてぶつぶつ言い始めた。
「あの強欲そうなオジサンのシャツを……きみが……着て……いや、着させられていることに興奮しているのか……何か他に理由があるのか……分からないけど……今なら出来そう」
それはちょっと。いやかなり。
「い、嫌ですわ、旦那さま」
「そうかい」
結局彼シャツ作戦は失敗し、相変わらずバードは特に気に留めた様子もなく、自室に引き上げていった。
ニコラが淫魔に憑依された事件の一連を、のちに意識が戻った彼女が聞かされたとき。
ニコラは震える声で「離婚は嫌です」と一番に言った。
気づいたらそばにバードがいて、青ざめた顔で「僕もその気はない」と言った。でも色々問題がある、と。
ニコラとバードは普通の夫婦ではない。その下にはたくさんの商会の従業員がいる。筋を通すためには色々としなければならないことがあると聞かされて、ニコラは何が何だかよく分からないまま、ただバードから捨てられたくない一心で、いくつかの書類に署名をした。その間、バードは両手をぶらぶらさせながら、無表情でニコラの周りを歩き回っていたと思う。
そのあとのバードの対応は的確で迅速だった。ニコラと関係を持った男性従業員は、遠方での新しい事業を任された。もともと優秀な人だったからやっと栄転したのだと、従業員たちは信じきっているようだった。ニコラと男性従業員はもう、お互い顔を合わせることもなくなり、彼らに何かあったのを知っているのは、ほんの数人だけだった。
バードは冷静だった。あんまりにも。
ニコラはだんだんと確信を得た。
また夫と何の触れ合いもなく日々が過ぎて、ある日、隣街の商談会兼パーティーに、夫婦で招待されたときのこと。
ニコラの着た青いドレスを褒めた商業ギルド長の一人息子が、調子に乗って彼女の頬にキスをした。真顔で見返すと謝られた。
そしてニコラが何故か視線を感じて辺りを見回すと、人影からバードがじっとこちらを眺めていることに気がついた。普段この夫はあっちこっちに引っ張りだこで、ニコラに構うことはほとんどないというのに。
ニコラと目が合ったバードは、いつもみたいににこーっと口角を上げて笑って、手を振った。
ニコラは真顔で口をパクパクした。
『は・な・し・が・あ・り・ま・す』
その夜。
「……確信を得ましたわ、旦那さま」
帰りの馬車に揺られながら、相向かいに座ったバードに、ニコラはキリッと切り出した。
「旦那さま。週末にレ・ドラの港に行きましょう。綺麗な景色を見に行きましょう」
バードは頷いてから「いいけど、どうしてだい」と首を傾げた。ニコラの頬っぺたを盗み見ている。気がする。
「旦那さまはきっと、私が淫魔に憑依されたあの事件から……人妻でありながら他の男性に媚を売る私を、好むようになってしまったのです」
「……そんな」
「今だって私の頬っぺたばっかり見ているではないですか。さっき他人にキスをされた」
バードは黙り込み、ニコラは抑揚のない声で滔々と続けた。
「きっと旦那さまは、ご自身でも気がつかないうちに、心のどこかでストレスを感じてらっしゃるに違いありません。リフレッシュのために綺麗な景色を見にいきましょう」
ニコラは勉強をした。そしてどうやら最近の夫に当てはまる特徴に、ある名前がつきそうで、そしてその対処法が色々あることを突き止めた。これはそのうちの1つだった。
「つまりあれだね」
バードはややあってから、いつものようににこにこしながら明け透けなことを言う。
「きみは僕の性癖がイカれたと思って、それを綺麗な景色を見に行って浄化して、正常な精神状態に戻そうとしてるってこと?」
ニコラは改めて自分の失礼さに気がついて言葉を詰まらせたけれど、バードには嘘をついても何にもらならないことを知っている。この夫は、どんな嘘も見抜くのだ。
「はい!」
「……きみ……。そんなすごいはっきり……」
週末の仕事を前倒しして、バードと2人で観光地の港に出かけた。潮騒の街は活気に溢れていて、塩の匂いと漁師の声に、ニコラは深く息を吸い込んだ。
夫は気乗りしないのかと思いきや、ご機嫌だった。つば広の帽子を押さえるニコラの腰を抱いて、あっちこっちの店を覗き込んでいる。
「楽しそうですね、旦那さま」
「きみと2人で遠出をしたの、初めてだろ。なんだかんだ新婚旅行も断られたし」
「それは……私なんかに使って頂く時間もお金も、とてももったいないように感じられて……」
「知ってるよ。でも今はもう違うだろ。……食べたい?」
店先で買った小魚入りのパイを夫に勧められて、ニコラは首を振った。食べたくなかったわけではない。バードはニコラが欲しいとか羨ましいと言うと、何でもその場でくれてしまう。
たとえ一口目の、まだ皮だけしか食べていないパイだって。たとえどれだけ綺麗で、高価な月長石の指輪だって。
優しさからではない。
バードは質屋という仕事柄か、びっくりするくらいに物事に執着しない人間だった。ニコラはバードの持ち物を褒めるのをやめた。月長石の指輪も、もったいなくて一度もつけられなかったけど、バードがそれに気づいた様子もなかった。
「……綺麗な景色ですね、旦那さま」
「そうだね」
昼下がりの港は、水平線上の漁船がキラキラと輝き、帰ってきた漁師たちがのんびりと野良猫に魚を投げている。穏やかで、時間が止まったような気にさせられる景色だった。
ニコラはバードと一緒にレンガ道のベンチに腰を掛けて、その景色を眺めていた。夫の汚された性癖を浄化するのと同時に、ニコラも気分転換をしようとしていた。
温かい陽気に、静かな波の音。広い海。
ニコラの悩みなんてちっぽけだと笑い、抱きしめてくれるような、雄大な自然……。
「……はあ」
あそこにいる漁師たちは、きっと、家に帰ったら奥方を抱き締めるのだろう。そして子供を作るのだろう。
ニコラは遠い目をした。何がちっぽけな悩みに見えるものか、と怒りを感じた。海など見たって夫がニコラを抱けない事実は変わらない。安易な声に騙された自分に嫌気がさしそうである。
「実はね」
自己嫌悪をしているニコラの隣。夫は夫で喋り出すタイミングを見計らっていたようだった。
「きみの兄さんが始めた新しい事業ね、失敗したみたいだよ」
「……そうですか」
「自己破産の申し出があったんだって。借金が膨れ上がってて、もう誰にもどうにも出来なかったみたい」
「……もう、あんな家、どうなろうとどうでも良いですわ」
ニコラが本心からそう言うと、バードはややあって、にこーっと笑って海を眺めた。浮かんだ船を指さした。
「あの船、うちの商会の船だよ。隣国の香辛料の買い付けに行って、帰ってきたところだ」
「あの、とっても不思議な味のスパイスですね」
「そうそう。王都は最近すごい健康志向だからね、あれと野菜を粉砕して水で割ったジュースが人気が出そうだよ。向こう3ヶ月は利益が出るはずだから、あとでまた数字をまとめたら教えてくれる?」
「ええ、もちろんです。旦那さま」
結局そのあとも、バードは楽しそうに仕事の話をした。ニコラはバードの仕事の話を聞くのが会った時から好きだったけれど、今回ばかりは彼の性的嗜好が元に戻ったのかどうかが気になって、半分上の空だった。
という訳で、夜、泊まったホテルのダブルベッドにて。
ニコラは死ぬほど自分を鼓舞して、隣に横になった瞬間のバードに馬乗りになった。
「旦那さま、どうですか」
「……」
「こ、興奮しますか?」
ニコラは実は、自分を客観的に見ることができていたので、あまりのはしたなさに胸が悪くなりそうな気分だった。淑女が男性に馬乗りになって、夜着を緩めながら「興奮しますか」と聞いている。あまりにもはしたない。
普段、全く表情の変わらない自分の顔が、珍しく眉を顰めていることに、彼女は気づいていなかった。
真下にいるバードは、何故か感激している。
「すごい……きみ、そういう顔出来るんだ」
「で、出来そうですか?」
「うん」
「! ……よ、良かった……」
ニコラは作戦が上手くいったと思って安心したけれど、バードは口の前で両手を合わせて、辿々しく呟いた。
「あ、そのまま、……嫌そうな顔をしてて」
「え、何故ですか?」
「出来れば……さっきの顔で……『もう後がない』って、言って欲しい……」
ニコラは嫌な予感に固まった。
「きみは今、もう、……ここで僕としなきゃ、……僕とはしてないはずなのに子供が出来て……浮気が僕にバレるっていう、設定にしてあるから……追い込まれた、それっぽい感じにして欲しい」
「……」
「もうとっくに僕に愛想を尽かして、他の人に夢中で……抱かれたくもない僕に、……いやいや迫るきみっていう……設定……すごい興奮する……」
ニコラはバードの上からすごすごと引き上げて、寝台の上でシーツに丸まって横になった。隣の夫にしょぼくれた声をかけた。
「設定って……言っちゃってるじゃないですか……」
「……そうだね……」
「治りませんでしたね、旦那さま……」
「……治らなかったね……」
バードの返事もしょぼくれていた。
綺麗な景色で浄化作戦も失敗した。でも、得られるものはあったと、ニコラは考える。
色々な対策を調べて実践する過程で、彼女は夫の態度に違和感を覚えるようになっていた。でも、その違和感の先にあると思われる事実は、恐ろしくて、悲しくて、到底彼女には認められるものではなかった。
それでも時間は過ぎていく。嫁いだ義務を果たすこともなく、ただ、やりがいのある仕事と、おおらかな夫に囲まれた……ずっと昔から夢にまで見ていた、充実した時間が。
このままではいけない。ニコラは決意した。
「旦那さま。媚薬です」
レ・ドラの港に旅行に行ってから、1ヶ月後。もちろんその間、夫から求められることもなく。
夜、ニコラは、ベッド横のサイドボードに置いた硝子の小瓶を指差した。半分くらいの分量の、薄い透明な紫色の液体が入っている。ニコラが苦心して手に入れた、効果も安全性も確実なものである。
ベッドの上で向き合ったバードが、珍しく顔を歪めた。
「媚薬は嫌だって僕、言わなかったっけ。さすがにまだ不能にはなりたくないよ」
「不能と変わりないじゃないですか」
「……」
バードは推し黙ってから、ベッドから降りて溜め息をついた。
「きみ、思い詰めすぎだよ。今日は早めに寝なさい」
「いやです」
2人の間に、重い沈黙が降りた。こんなことは初めてだった。
だが、ニコラはここで退く気はなかった。
全く。絶対に。なんとしても。
「旦那さまがお使いになる必要はありません」
「……まさか、きみが使うって言うの」
「いいえ、もう使いました」
バードがぎょっとして後ずさった。ニコラは真顔のままベッドから降りて、夫を寝室の壁に追い詰める。
「悪いけど、今日はそういう気分じゃない」
目を逸らした夫に、ニコラは胸元のリボンを解いた。見えるようになった真っ白な鎖骨の下の肌に、赤い痕。
「とっくに、昼間、使って参りました」
「な、」
「質屋にいらっしゃったお客様の中に、前々から何度も私を誘ってきた殿方がいましたので。その方と」
「……」
「これは、その方が興奮してつけた痕です」
バードの顔から表情が消え失せた。ニコラは構わずに、バードの胸元に飛び込んで、首筋にキスをして身体を擦り付ける。
「興奮しましたよね? 旦那さま。私、旦那さまの伴侶でありながら、他の殿方に抱かれてしまいました」
「……」
「あなたが、その方が、興奮するから」
久しぶりに夫の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。踵を浮かせて、彼の耳元で囁いた。
「抱いてください、旦那さま。上書きして……」
次の瞬間、ニコラをかわして、夫は部屋の真ん中に逃げ出していた。
「無理だ」
「……」
「無理だよ」
バードは顔を抑えて、呆れたように肩をすくめている。
「そもそもそこまで子供にこだわること、ないだろ。養子だって選択肢の1つだ」
ニコラはやっぱり、と思って、笑いそうになってしまった。この夫は最初から、ニコラを抱く気なんて毛頭ない。
「旦那さま。それを、私が思い付かなかったともお思いですか?」
「……!」
「私、確信を得ました。巷で噂の、ひとさまに奥方を抱かせる殿方は、他人に抱かせたあとに、奥方ととっても盛り上がるらしいのです」
だから。
バードはそういう夫のフリを、していただけだ。
「……旦那さま。私はもう、旦那さまのそばにはいられません」
ニコラは胸元のリボンを締め直した。背筋を伸ばしてしゃんと立った彼女に、バードが目を瞬いた。
「なんで? ……きみは、とても優秀だ。きみ以上に僕を助けてくれる人なんていない。きみだって、今の仕事が好きだって……」
「ええ、好きです。けれど」
「子供は、また考えれば良いじゃないか。僕はきみ以外、必要ない。だから……」
ニコラはもう、途中で、ぼろぼろ涙をこぼしていた。
「抱いてくれないなら、そばには、いられません……!」
真顔のまま滝のように涙を滴らせる彼女に、バードは露骨に肩を揺らした。
「な、なんで?」
あほ、馬鹿、鈍感、と。
子供みたいな罵倒が、ニコラの頭の中をぐるぐる回る。
でも、出てきたのは、全然ちがう言葉。
「抱いて欲しいに決まってるからじゃないですか」
政略結婚がとか、どうだって構わない。
ニコラが、バードの子供を産みたいのだ。
「辛いのです。好きな人に触れてもらえないことが、とても辛くて、私には耐えられない……!」
「!」
「あなたが私をお嫌いになるのも、無理はないと思います……! 全ては、淫魔などに身体を明け渡した、私の不徳のせいだとは、分かっています。でも、」
ニコラはわっと声を上げた。
「好きです、旦那さま……! だから、私の気持ちを、少しでも、理解してください……」
多分こんなに泣いたのは、産まれた瞬間以来である。ニコラは自分の泣き声に驚いていたし、バードが放心したようにベッドに座り込んだのにも驚いた。
夫は間抜けな顔で、泣きじゃくるニコラを眺めている。
「きみが僕に抱いて欲しい?」
バードはそう言ってしばらくしてから立ち上がって、両手をぶらぶらさせながら近寄ってきた。と思いきや、距離を保ったまま、ニコラの周りをうろうろし始めた。
「僕、……僕、きみを楽しませられないよ」
「……」
「きみに、淫魔が入ったときみたいな、……彼みたいに、あんな顔、させられないんだよ」
「……」
訳が分からないことを言い始めた夫に、ニコラはいよいよ涙腺が破壊された。
「僕、その、下手くそだから……きみは多分、頑張って僕に付き合ってくれてたんだろ。そのことに、あの時、き、気持ちよさそうなきみを見て、気づいたんだよ……」
「……う、う、うわあ〜!」
「な、泣かないで……。困る……」
もうこれ以上、きみにがっかりされたくないんだよ、と。夫は困り果てたように呟いた。
ニコラの家は、今はない旧王家に寵愛を受けた、名だたる騎士を何人も輩出した貴族の家だった。長い歴史の中で、やがて隣国との関係も落ち着くと、国内で力をつけ始めたのは商人たち。彼らは旧王家の体制を批判し、自由に活動をするために新たな王を立てた。ニコラの家系は旧貴族と呼ばれ、行き場をなくし、新たな生き方を見つけなければならない岐路に立たされることになっていた。
ニコラの父と兄は、昔から折り合いが悪かった。騎士としての誇りを忘れずに、常に誠実であれと説く父と、生き残るためには手段を選ばずしたたかであれと言う兄。母は心労からか身体を壊し、ニコラが14の頃にこの世を去って、2人の確執はますます深まるばかりだった。
父のやり方では家の者達をすべて養っていくことは出来ないと兄は判断し、商売人として事業を始め、父の反対を押し切って地方の商人の娘と結婚をした。
そして、兄と義姉はニコラの家中にある価値のあるものをどんどん売り払って、それを元手に大きな商売を始めた。義姉はニコラの家に先祖代々から伝わる、旧王家から贈られた飾剣を勝手に売ってしまった。それを後から知った父は、それがきっかけかみるみるうちに体調を崩し、ニコラの看病も虚しく、1年ほどで亡くなってしまった。
兄は父を哀れな男だと断じて、ニコラをどこかに嫁がせることに決めた。
『お前は、商売には向かない』
昔から喜怒哀楽の表現が下手で、嘘をつくのも好まない。媚を売ることも愛想を振り撒くこともしないニコラを、兄夫婦は疎んじた。ニコラも、その頃には旧貴族の若い娘である自分が、自分で稼ぐことも出来ない現状を思い知っていた。なのでここまで養ってくれた兄夫婦に従い、家を出ることに反対はしなかった。
この国には結婚の際、花婿の家から花嫁の家に祝金を贈る慣わしがある。
美人で若いニコラは一度婿探しの場に出されると、兄夫婦が驚くほどひくてあまたになった。兄夫婦は、ニコラが貴族たちからも婚姻を申し込まれるほどの器量の娘であると知ると、祝金をつりあげることにした。その時に始めようとしている事業の元手にするためだった。けれど。
『なかなか、貴族も貧乏なものだ』
『そうね。たったこれっぽっちも払えないようじゃ、ニコラには相応しくはないわ』
ニコラの相手はなかなか見つからなかった。それもそうだ。一事業の元手になるほどの大金をかける価値がニコラにないことを、知らないのは兄夫婦ばかりだったのだ。
みるみるうちに彼らは焦り、ついに、義姉のツテをたどって、名のある商人たちにニコラの縁談を申し込むようになった。
『質屋のバード』との縁談がニコラに舞い込んだのは、そんな時。
『どうもー』
顔合わせの場として用意した応接間に、年老いた家令1人だけを伴って現れたバードに、ニコラと兄夫婦は、ーー顔にこそ出さなかったけれど、良い印象は抱かなかった。もともと世間が『質屋』自体に胡乱な印象を抱いていた。
おまけに現れた男は、明らかに染色したと分かる、赤ワインみたいな色の短髪を無造作に揺らしている。染髪は、この国ではまだまだ馴染まない文化であった。
という訳で、お互いあまり気乗りのしない雰囲気で始まった顔合わせだったが、バードが持つ雰囲気からか、不思議と穏やかに皆が言葉を交わしていた。気を緩めた兄が、バードの儲けの秘密を探ろうと話題を質屋業にすると、バードはにこにこ笑いながら、屈託なく説明した。
『皆さん、そもそも質屋をよくご存知じゃないかもしれないので、ちょっと私に説明をさせてください。……質屋とは……すごくざっくり言うと、金を貸す代わりに、その同等の価値のある物をお預かりするという商売です』
『ええ』
『返す際に利息をもらって、それを利益にしています。金が返ってこなければ、その預かり物を『質流れ』として所有し、どこか別の欲しい人に売ります。だから基本的に、返せる見込みのない人には金を貸さないし、物は預からない。利息がもらえず、利益にならなく無駄だからです』
バードの明朗な声に、いつのまにか、ニコラはよく聞き入っていた。
『そして、質屋がいちばん怖いのが、その預かり物が盗品、または偽物であることです。『質流れ』したその物の価値がなかったことになれば、それは所有する質屋の損ですからね。ですから質屋は『返せない人』と『怪しい物』を避けて商売をして、……それが昨今、なかなか大変な商売の形になりつつあります。世間の風当たりも強いですし』
一人で頷いたバードに、兄が『ですが』と言いながら身を乗り出した。
『貴方の質屋はそれをものともしていない。今も収益の半分は経営する質屋の利益だと聞いています。秘訣は何なのですか?』
バードは微笑んだ。
『私の質屋は『返せない人』を避けないのですよ。ついでに言うと『怪しい物』は、絶対に預かりません。それが秘訣です』
『ど、どういうことですか?』
『私の質屋は……『質流れ』した預かり物に、もらえる予定だった利息を、そのまま上乗せした金額で別の人に売ります。だから利益が必ず出る。どんな人からも預かります』
『そんなことが……』
『ええ、はい。本来ならそんな商売、すぐに立ち行かなくなるんですけど、私の質屋は別です。買ってくれるんですよ、皆さん』
ニコラは首を傾げて、バードがそれを見て、彼女に向かって片目を閉じた。
『『質屋のバード』の目利きは絶対です。私が預かったものに、盗品や偽物は絶対にあり得ない。長い歴史が証明しています。メディ・アンの質屋は、……謂わば信用を売っているんですよ。それが、時代遅れと言われる質屋業で利益を出している秘訣です』
信用を売る、質屋。
兄夫婦はお互いに『信用ならない』と言いたげに目配せをして、バードは別の話を始めた。けれど、ニコラはもう、バードから目を離せなかった。バードの話はニコラにとって、父と兄に影響されて凝り固まった視点に、新しい風を吹き込むような、広い世界の話だった。
時間はあっという間に過ぎていった。時計が終わりの時間を知らせると、 ニコラはそこで急に、バードがただの付き合いでここまで来たことと、そして、恐らくこれっきりここには来ないことを思い知った。こんなに聡明で明るい商売人が、愛想のない小娘の何に価値を見出すというのだろう。
『きみは、なにが得意?』
だから、頬杖をついたバードが不意に彼女に声を掛けてきたことに、すぐには反応が返せなかった。慌てた兄が口を開こうとしても、バードはニコラだけを眺めていた。
ニコラが、得意なこと。
兄には、こういう時は、身体が丈夫だと言えと言われていた。けれども。
『計算が、得意です。学院の筆記試験ではいつも一番でした』
ニコラの返事に、バードはつり目を少しだけ見開いたあと、にっこり笑って首を傾げた。
『良いね』
それきりバードは立ち上がって、ニコラ達に頭を下げて帰りの挨拶をした。
『これも何かのご縁です。どうぞこれから、メディ・アンをご贔屓に!』
そう言ってさっさと部屋を出たバードを見送って、兄夫婦は肩をすくめた。
『脈なしだな、あれは。……そもそも縁を結ぶには目ざとすぎる男だ。いつか寝首をかかれそうで油断出来ない』
そう言った兄の横で、ニコラは固まって放心していた。最後のあのバードの笑顔に、気づいたことがある。そしてこのままでは、絶対に後で後悔するとも思った。
『ーーお待ちくださいませ!』
屋敷の玄関でマントを整えていたバードに、ニコラは必死に追いついた。兄夫婦には彼が忘れ物をしたのだと、嘘をついて。
『バードさま、あの』
『おや、どうしたの。お嬢さん』
『べ、弁明を……させてくださいませ』
父の看病で体力が落ちきっていたニコラは、屋敷の廊下を走るだけで息を切らした。首を傾げたバードに、まとまらないまま一生懸命、さっきの言葉の意味を説明した。
『私、あの、バードさまのお話が、とても面白くて。……だから、貴方の役に立ちたいと思って、浅慮にも、嘘をつきました。申し訳ありません』
『……』
『計算が得意なのは確かです。それが何か、貴方のお仕事の助けになれば、と、何も分かっていない身でありながら、そう思い、ああ言いました。いくつも縁談を受けましたが……貴方のお話が、一番楽しかったのです』
でも、バードは多分、その時のニコラの嘘に気がついた。だから一瞬で、ニコラから興味を失った。
『バードさま……貴方は、人の嘘が分かるのですね』
バードは微笑んだ。ニコラは慌てて視線を逸らした。
『どうしてそう思ったの?』
『に、偽物は、物を見れば分かるかもしれませんが、盗品は、人を見なければ分からないのでは、と、思ったからです』
『……そうだね。きみの言う通りだよ』
簡単に頷いて、バードはニコラに向き直った。ニコラは自分の心臓が早鐘を打っていることに、このタイミングで気がついた。
『メディ・アンの家系はね、百発百中で人の嘘を見抜く。……煩わしいからそういうことにはしてないんだけどね』
『……あ、あの……バードさま。貴方が良ければ、どうぞもう一度、このお話、考えてみてはくれませんか』
バードは笑ったまま、首を傾げている。
『きみが嘘をついた理由は分かったけど、どういう嘘かまでは分からない。……きみは本当は、なにが得意なの?』
ニコラはしどろもどろになっていた。この人が何を言うかで、ニコラの人生の全てまで決まってしまいそうな、浮遊感がある。
『ゆ、弓です。計算は……本当は、筆記試験ではいつも二番でした』
『うふ』
ぱっと顔を上げたニコラに、バードは目を合わせてきた。
『僕ね、きみより15も年上なんだ』
『? 知っています』
『……』
口元をにこーっとつり上げて、バードは手を振って帰っていった。
何が何だかよく分からなかったニコラだけれど、それから数日経たないうちに、バードから婚姻の申し入れがあった。兄夫婦は渋ったけれど、バードの提示した祝金の額を見て気を変えた。
バードとの生活は、思ったよりもずっと楽しかった。夫というより気の良い上司のように、バードはニコラに商売を教えた。ニコラはぐんぐんとそれを吸収し、親切な商会の人間達に助けられて、やがてバードの助けとなった。
ある日のこと。
『きみが商売に向いてないって?』
そりゃ間違ってるよ、と、夫は言う。
『きみほど向いている人はいない。……みんな勘違いしてるけど、商売は誠実でなきゃ成り立たない。きみは善い人だから、きっとなにもかもがうまくいくよ』
ニコラはその優しい声に、自分が悲しかったことを知った。ずっと生きていく道がないと思っていた。そして、もう、そうではないことを理解して、この人が好きだと悟っていた。
「うっ、うっ、うぐっ」
それなのに、淫魔なんかに憑依された。
ニコラは自分が不甲斐なくて仕方ない。事故だから仕方ないんだと開き直る反面、自分を許せない自分がいる。
「ニコラさん、泣かないで。ごめん、その、僕が悪かった」
相変わらず泣きじゃくるニコラに、バードは相変わらずおろおろしている。しまいには何故か、自身の女性遍歴まで語り始めた。
「僕は、その、……きみが初めてだったんだよ……きみも初めてだったみたいだけど、まあ、その……だから、下手くそだったんだと……見てるしかなかったというか」
ニコラはベッドに移動しながら、ゆっくり泣きやんだ。旦那さま、とぐずぐずの声で呼ぶと、バードは「はい」と返事をして寄ってくる。
やっと近くに、座ってくれた。
「私は、淫魔に憑依されていました」
「うん」
「その時のことは、何一つ覚えていません」
「うん、でもね、身体の反応って正直だろ。僕はきみのあんな顔見たことなかったから、ああ、これが快楽に溺れる本当のきみの姿なんだ、って思って、悲しくてーー」
ニコラはバードの肩に拳を入れた。
バードは「ウェッ」みたいな声をあげて、俯いて動かなくなる。
「つまり、旦那さま」
「……」
「貴方は淫魔の入った私がお好みだと言うことですか……!」
「え、違うよ!」
「違わないではないですか!」
さっきまでの悲しみはどこに行ったやら、ニコラは怒りでわなわなと声を震わせた。
つまりこの夫は、ニコラの普段の反応の薄さと、淫魔に憑依されたニコラの反応の違いに傷ついて、自信喪失していたと。
「私が、いつ、不満など言いましたか……!?」
バードは肩を押さえて真下を向いていた。毛先だけ赤ワインみたいな色の頭が、震えている。
「分かってる、よ。僕だってきみが嘘をつかないのは分かってる……」
「では、」
「でも、僕は、きみより15も年上なんだ」
また年齢の話である。ニコラは鼻から息を吐きそうになった。
「15だ。15だよ。僕が学院2年生の時に、きみは赤ちゃんだ。きみが60のときには、僕は75だ。平均寿命だ。死んでる!」
「何の話ですか!」
ニコラは大声を上げたあとに目を瞬いた。バードの耳が真っ赤なことに、ようやくそこで気がついた。
「だから、当たり前なんだよ……!」
「……!」
「きみが僕より若くて優秀な男を好きになるのなんか、当たり前だから、僕はあの時、驚かなかった。でも、やっぱりきみを手放したくなかった。誰にも買い戻しなんてさせない」
バードが顔を上げて、ニコラを睨んでいる。
「きみにはメディ・アンの半分の財産を持ってもらっている。きみの祝金の10倍の金額だ。もう誰も、きみを買い戻せない」
ニコラはびっくりしすぎて口をぱくぱくした。いきなり何の話だ、というのと、初耳だ、という驚きで。
「ちゃんと財産移行の手続きを踏んだ。きみの署名もある。きみの身体から淫魔が抜けた直後に、サインしてもらった」
「……あの時ですか!? 詐欺ではないですか!」
「説明した!」
バードはそこで、勢いをなくして、身体ごと目を逸らした。
「……きみが好きだよ……」
「……」
「……ぼ、僕のために小さい嘘をついて、そのあと、気がついて、謝ってくるところとか……」
この人はなんなんだ、と思ったニコラは、ぐっと顎を引いた。
「旦那さま」
バードは目線だけこっちに寄越した。拗ねているように。
「私、他の殿方に抱かれてなどいません。このキスマークは自分でつけました。引っ張って」
「知ってるよ……」
「媚薬を飲んだのは本当です。ついさっきですけど。旦那さまに向き合うための、景気づけに」
「媚薬をお酒みたいに飲むんじゃないよ……」
「すごく効果があります」
「!」
ニコラはじりじりとバードに近寄って、熱い手を握った。
「旦那さま、だめですか? 抱いては、くれませんか?」
至近距離で見上げると、バードが固まっている。
「だ、旦那さまがお好みなら、淫魔に入られた私に近づけるように、残った媚薬を、あと、もう半分飲みます。だから……」
固まったバードの顔がそのまま近づいてきて、ニコラはあれ、と目を見開いた。
久しぶりの、キスだった。
「……っ」
あ、嬉しい。幸せ。好き、と、ぽわっと身体中が温かくなった。
ニコラがぼーっとしているのと反対に、バードは真顔で、ニコラの背中側にあるサイドボードに手を伸ばしている。
その手には、残ったもう半分の媚薬の小瓶が。
「旦那さま?」
バードはあっという間にそれを飲み干してしまった。まさかの奇行にニコラが混乱していると、バードが咽せてゲホゲホ言い出した。
「ど、どうしたのですか」
「何でもいいだろ。飲みたくなったんだ」
「……不能になるのではないのですか」
「そう。だから、僕が下手くそで好き勝手やっても、今夜だけは許してくれ」
ニコラは数秒後に赤面した。さすっている背中が、燃えるように熱い。
「だ、旦那さま、その……」
「よく効くね、この薬」
怒ったような顔をしたバードが、ニコラの唇の横に、そっと唇を寄せた。表情と裏腹に、震えていた。
……この人は。
ニコラは情けない夫を抱きしめて、囁いた。
「旦那さま。その、私、もしかしたら、少しだけ演技をするかもしれません」
「……知ってるよ」
「でも、それも、全部……貴方に気に入られたいからだと、分かってもらえますか?」
バードが、また咽せた。ニコラは笑ってしまった。
「……そ、そういうのを、させないように、頑張るよ……」
「うふふ」
「ニコラさん、笑わない」
返事は出来なかった。夫が長い間、ただ痩せ我慢をしていただけだったことに、ニコラはしばらくしてからやっと気がついた。
朝、お湯をもらったニコラが屋敷の廊下を歩いていると、いつもみたいに口角を上げたバードが向こうからやって来た。変な歩き方をしているが、何か長い物を背中に隠しているのが丸見えである。
しばし真顔で見ていると、夫はニコニコしたまま。
「これあげるよ」
差し出されたのは、ニコラの家紋が入った、錆びついた飾剣だった。義姉が売ってしまった、今は亡き旧王家に頂いた、かつての家宝。
「どうしたのですか?」
「……この前の出張の途中で売られているのを見つけてね。買った物だから、好きにしていい。手入れもされていないから状態は悪いけど、まあ、こういうものは見た目じゃないだろ」
「……」
ニコラは困った。色々なことに気がついた。
昔、誠実であれと説いた父の笑顔。バードがこれをニコラを思って買ってくれて、ニコラに早く贈るために、予定にない遠方からの帰宅をしたこと。
そして帰宅した先に事件があって、夫がただ、見ていただけだったこと。見ているだけしか出来なかったこと。
「……誰かに何かをあげたくて買い物したのは、初めてだ。センスがないと思ったら言ってくれ」
バードは、傷ついてなお、ニコラのそばで穏やかに笑う。そういう人だった。
「……旦那さま、ありがとうございます」
肩を震わせて飾剣を抱きしめて、ニコラは夫に頭を下げた。溢れるような感情に胸が押し潰されて、ニコラは目を潤ませて、笑っていた。
バードはニコラの顔を見て、何故か、少しだけ照れたように眉尻を下げて咳払いをした。
「僕、目覚めたみたい」
「……何にですか?」
「きみに」
ニコラは「はあ」と返事をした。急にベタに口説かれるとは思っていなかった。
「最近、きみが何をしても可愛い」
バードは勘違いされがちな、胡散臭い笑顔を浮かべている。多分、真っ当に、ニコラに好意を伝えたがっているのだろうけど。
「僕の気を引くためだと、昨日、分かったから……。怒った肩パンチも可愛い」
「……」
「僕のために頑張ってキスマークとかつけてるのとか、他の男の人の話をするのとか、……」
「旦那さま」
「はい」
ニコラは真顔で言った。
「それは目覚めないでくださいませ」
おしまい
お読みいただき、ありがとうございました。