第2話
自分が長く生きられない病気だと聞かされて、わたしは絶望の谷に突き落とされたような気分になった。
中学の卒業式も出席せず、わたしはその日、病室で一人寂しく泣いていた。
卒業式が終わったあと、綾ちゃんがお見舞いに来てくれた。けれどわたしは、綾ちゃんにもう来ないでほしい、と言ってしまった。
笑顔で卒業証書を見せられて、羨ましさと悔しさが重なって、綾ちゃんに冷たく当たってしまった。
綾ちゃんとわたしは、もう住む世界が違う。わたしは日陰で、綾ちゃんは日向。彼女はこれから高校生になって、大人になって、華々しい未来が待っているのだ。でもわたしを待っている未来は、それとは正反対の真っ暗な未来。
だからもう、わたしたちは同じ時間を共有してはいけないのだ。
理由を話さず冷たく言い放ったあと、綾ちゃんは怒って帰ってしまった。
わたしはその日の晩、朝まで泣き続けた。
中学を卒業してからは、ずっと入院生活を送っていた。
わたしは来る日も来る日も本を読んで過ごしていた。
お見舞いには時々おばあちゃんが来てくれるくらいで、他には誰も来てくれなかった。
そんなある日、気分転換に談話室へ行くと、窓際の席に座って絵を描いている女の子がいた。小学校低学年くらいだろうか。パジャマを着ていたので、この子も入院患者なのだろうと思った。
「なんの絵、描いてるの?」
わたしはその子に声をかけた。
あまり上手とは言えないけれど、彼女は色鉛筆を使って熱心に絵を描いていた。
「……天国」
「天国? なんでそんな絵を描いてるの?」
わたしの問いに、彼女は答えなかった。
黙々と絵を描いて、しばらくすると彼女は自分の病室へ戻っていった。
次の日も、彼女は談話室にいた。
「こんにちは」
わたしが声をかけても、彼女は答えない。ただ熱心に、何かに取り憑かれたように絵を描いているだけだった。
そんな日が何日か続いたあと、談話室へ行くと彼女はスケッチブックを二冊持ってわたしを待っていた。
「これ、わたしにくれるの?」
彼女はこくんと頷いて、窓際の席に座った。「ありがとう」と声をかけて隣の席に座り、わたしは彼女と一緒に絵を描いた。
「お姉ちゃんすごい! じょうず!」
その時、久しぶりに彼女の声を聞いた。わたしの絵を見て、彼女は目を輝かせていた。
わたしは昔から絵を描くことが得意だった。小さい頃は病院で絵を描いて、両親や同じく入院している子たちに褒められることがよくあった。
その日からわたしたちは、一緒に談話室で絵を描くようになった。アカネと彼女は名乗った。アカネちゃんはわたしに懐いてくれて、わたしも彼女を可愛がった。
しかしある日突然、彼女は姿を消した。
わたしが談話室へ行くと、スケッチブックと色鉛筆だけが、窓際の席に置いてあった。
その日は一日中待っていたけれど、結局彼女は現れなかった。スケッチブックと色鉛筆は、とりあえずわたしが預かることにした。
次の日も、そのまた次の日もアカネちゃんは談話室には来なかった。
わたしはこの病院で働いているお母さんに、アカネちゃんのことを訊ねた。
もしかしたらアカネちゃんは、病気が治って退院したのかな、と思っていた。
「増田アカネちゃん? あの子、亡くなったわよ」
「え……」
突然のことで、頭が混乱した。わたしの知らない、別のアカネちゃんが亡くなったのだと思った。そう思いたかった。
あのアカネちゃんが死んだなんて、信じられなかったし信じたくなかった。
お母さんの話では、アカネちゃんは生まれつき腎臓が悪かったらしい。
彼女は談話室で一人で絵を描いていて、突然苦しみだして集中治療室へ運ばれた。数日間生死を彷徨い、力尽きてしまったのだという。
わたしはアカネちゃんのスケッチブックを胸に抱いて、泣き続けた。
もしかしたらアカネちゃんは、わたしを待ち続けていたのではないだろうか。
体調が悪くても、わたしと絵を描きたくてずっと待っていてくれたのではないのか。
そう考えると、涙が止まらなかった。
ふと、アカネちゃんが描いていた絵のことを思い出した。
彼女はよく、天国の絵を描いていた。
もうすぐ自分が死ぬことを悟って、天国の絵を描いていたのだろうか。
わたしはその日から、談話室で絵を描き続けた。待っていたら、アカネちゃんが来てくれるような気がして、日が暮れるまで取り憑かれたように絵を描いた。
時には泣きながら描いたこともあった。
わたしの余命があと半年だと宣告されたのは、それからすぐのことだった。
ショックだとは思わなかった。むしろ早く死んで、この辛い毎日から抜け出したい気持ちの方がはるかに強かった。
あと半年我慢すれば楽になれる。そう思うと、思わず笑みが零れた。
余命宣告をされても、わたしは絵を描くことをやめなかった。気を紛らわす為に、毎日黙々と描き続けた。
わたしはこのまま、死ぬまで絵を描き続けるのかな。誰にも気付かれず、みんなわたしのことを忘れて、一人寂しく死んでいくのかな。
そんなことを考えながら絵を描いていると、突然後ろから声をかけられた。
「あの……なんの絵、描いてるんですか?」
学生服を着た彼は、少し怯えた表情でわたしを見ていた。
突然声をかけられたことに驚いたわたしは、数秒間固まってしまった。
何とか落ち着きを取り戻して、「そこ、座ったら?」と彼に声をかけた。
少し、声が震えてしまったかもしれない。
わたしは初めて会ったばかりの男の子に、自分の病気のことを話した。あと半年しか生きられないということも。
思った通り彼はびっくりしていた。どういうつもりでわたしに話しかけてきたのかは知らないけれど、これできっと彼もわたしから離れていく。
『病気』という言葉は、わたしにとって魔法の言葉だった。この言葉を使うと、みんな魔法にかかったようにわたしから離れていく。
わたしは彼に魔法をかけた。ただそれだけのことだ。だから、悲しくなんかない。
今までだってそうだった。わたしの病気のことを知ると、みんな嫌な顔をして離れていく。だから、今回は自分から言ってやった。どうせこの人もすぐに立ち去るんだろうな、と思っていた。けれど、彼は今までの人たちとは違う反応を見せた。
「また、絵を見に来てもいい?」
彼の予想外の言葉に、わたしは戸惑ってしまった。それでも冷静を装って、「いいよ」と答えた。
きっと社交辞令のようなものだろうと思った。
次の日からわたしは、ずっと彼のことを考えていた。名前はなんていうんだろう。歳はいくつだろう。絵を描きながら、そんなふうに考えていた。
それから約一週間後、彼は本当にやってきた。秋人と名乗った。
秋人くんはその後も、頻繁にお見舞いに来てくれるようになった。
ガーベラという花を持ってきてくれて、素直に嬉しかった。
どうして秋人くんは、わたしに会いに来てくれるのだろう。わたしなんかより、学校の友達とか、恋人をつくって遊んだりした方がずっと楽しいはずなのに。
それでも秋人くんは、何度もわたしに会いに来てくれた。今までそんな人は、誰一人としていなかった。
みんな魔法にかかって離れていくはずなのに、秋人くんだけはわたしの魔法にかからなかった。