失恋 2.
「あっ! おっはよー、涼平! お前、結菜ちゃんと別れたんだってな!」
教室に入ると倉橋が、待ってましたー! とばかりに、座っていた机からひょいっと降り、ニヤニヤしながら近づいて来る。
「昨日フラれた」
中二になってすぐ、僕は朝霧さんに告白された。そして、数ヵ月後の昨日、あっさりとフラれた。生まれて初めて経験した失恋。でも正直、実感が無い。
「勿体ねぇなぁー!」
そっけなく答えた僕に対して、倉橋は嬉しそうに僕の肩を二回叩く。
「っでー!」
ガシッともたれかかるようにして肩を組み、僕の首をロックすると、
「……どこまでいったんだよぉ?」
倉橋はニヤニヤした顔を近づけ、声を潜めて言った。
「は? 何が」
「だーかーらー、ヤッたのかって聞いてんのっ!」
少しむっとした僕の声に対して、その声は明るく、弾んでいるように聞こえた。
倉橋は、僕の顔を覗き込むようにして更に顔を近づけ、質問の答えを、まだかまだかと期待を込めた表情をして待っている。
「なんにも無かったよ。つーか重いよ!」
組まれた肩を、振り払うようにして言った。
「マジかぁー! 勿体ねぇー! お前ホモなの? もしかして不能? まっ、そんなに落ち込むなよ!」
かかかっと口を大きく開けて笑うと、僕の肩をさっきよりも強い力で叩き、自分の席へと戻っていった。なんとなく嬉しげに見える背中を見送り、自分の席へと向かう。僕は全く落ち込んではいなかった。
背もたれを掴み、強い力に引っ張られるようにして、いすに座る。背中がべたりと背もたれにくっついた。
五組、行きにくくなったな……。
薄っすらとチョークのもやがかかった、濃い緑色の黒板を、ぼんやりと眺めながら思った。
中二になってすぐ、朝霧さんに告白された。付き合っているときは結菜と呼んでいたが、最後までそう呼ぶことにしっくりこないままだった。
同じクラスになったことはないけど、休み時間にちょこちょこ話をすることはあった。綺麗な顔をした細身の子で、常に四、五人の女子の中心に居るような、どちらかというと目立つ存在だった。友達やクラスの何人かが、朝霧さんのことを可愛いと言っているのを聞いたことがある。僕も、みんなと同じように思っていた。かといって、特別な何かを感じていたわけでもなかった。
帰りのホームルームが終わり、僕は、配布されたプリント2枚を半分に折った。ナイロン製の鞄の中にプリントを入れると、ファスナーをシュルリと閉じ、席を立つ。
開けっ放しにされた扉の後ろから、朝霧さんがひょっこりと顔を出すのが見えた。その横をぞろぞろと通り過ぎていく生徒たちに向かって、朝霧さんは、バイバイと笑顔で手を振っている。僕も、その流れに続いて教室を出ようとすると、右の袖をきゅっと引っ張って呼び止められた。
「真宮君、ちょっといい?」
「あ、うん」
扉の前で立っていると、サッカー部の集団が、早く来いよ! と、僕らの前を通り過ぎていく。その声に反応するかのように、朝霧さんは僕の袖から手を離した。すぐ行く! と、僕は右手を上げ、慌ただしく廊下を駆けていく背中たちを見送る。静かになった廊下には、何人かの生徒と僕たち二人だけになった。
朝霧さんは落ち着かない様子で、廊下に居る生徒のほうを見ると、反対側へ歩き出した。それに釣られるように、僕も歩き出す。
廊下の突き当たりを左に曲がり、階段を上がっていく。妙に大きく響く二人の靴音。そこは屋上へと向かう階段で、その踊り場で朝霧さんは足を止める。静かな鼓動が、だんだん速まっていくのが自分でも分かった。
突然、静止画の中にでも放り込まれたかのように、僕の動きが完全に止まった。
生まれて初めて、僕は女の子に告白をされた。
目の前でうつむく朝霧さんの黒髪が、窓から射し込む光を強く反射している。
マンガやドラマなんかで、こういう場面を見たことはあるけれど、現実の世界でも、こういうことって本当にあるんだな。体がふわふわして、現実味の無い僕は、まるで他人事のように思っていた。
ただ、頭を下に向け、華奢な肩を小さく震わす姿は、純粋に可愛いと思った。こんな子を好きになることができたら……。
「いいよ」
僕の声は、自分でもびっくりするくらい冷静だった。
「えっ!」
驚いたように、顔を上げる朝霧さん。極度の緊張のせいなのか、涙で目が潤んでいる。
本当に? と言いたげなその表情に向かって、僕は改めて、諭すようにゆっくり言った。
「うん。……いいよ」
光が点ったように、みるみる明るくなる朝霧さんの表情。
僕は朝霧さんに対して、特別な何かを感じていたわけではない。酷い言い方なのかもしれないけれど、正直、断る理由が無かったというだけだ。ただ、好感を持っていたことは確かで、もしかしたら、朝霧さんのことを好きになれるかもしれない、と薄っすら思っていた。
朝霧さんは、喜びを隠せない様子でせわしく手を振ると、髪を左右に揺らしながら階段を駆け下りていった。その後ろ姿からも、喜びが伝わってくるようだった。
踊り場に一人残された僕は、軽快な靴音を聞きながら、ただ朝霧さんのことを羨ましく思っていた。誰かを好きになり、その想いを伝え、それが受け入れられると、人はあんなにも幸せそうな表情をするんだと。
今、僕はどんな表情をしているんだろう。
五組には、同じサッカー部の蓮が居る。そして、昨日僕に別れを告げた朝霧さんも居る。はぁー、僕は小さく溜め息をついた。
別れは、実にあっさりしたものだった。ホームルームが終わり、部活に行こうと廊下に出ると、朝霧さんに、ちょっと来て、と廊下の突き当たりに連れていかれた。教室にも廊下にも、まだ多くの生徒が残っていた。
「真宮君、別れよ。ごめんね」
それだけ言って背を向けると、早歩きで僕から遠ざかっていった。
廊下には、夏の熱風から湿気だけを取り除いたような、乾いた風が流れていた。
付き合い始めて少し経った頃から、朝霧さんは僕を涼平と呼び、僕は朝霧さんを結菜と呼んでいた。でも、朝霧さんははっきりと僕のことを、『真宮君』と言った。そこに強い決意を感じた。
結菜と呼ぶことにしっくりときていなかった僕は、涼平と呼ばれることにもしっくりときていなかった。だからなのか、数ヶ月振りに苗字で呼ばれても、違和感は全く無かった。
僕は、朝霧さんの言葉を聞いて、落胆すると同時に、心がふわりと軽くなった。それは、諦めにも似た感覚だった。
休み時間、蓮のところへ向かおうとして、足を止める。やっぱり五組には行きにくい……。そう思っていたのは、僕だけだったようだ。一限目の数学が終わると、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「莉子ぉー! 数学の教科書貸してー!」
朝霧さんだった。一瞬詰まったように呼吸がしづらくなり、朝霧さんと僕を交互に見る、クラスメイトの視線が突き刺さってくる。
昨日の今日で、もうみんな知っているのか。噂が広がるのって、本当に速いな……。
僕たちが付き合い始めたときも、次の日にはみんな知っている様子だった。勿論、僕たちに限ったことではない。一度も話したことが無いような生徒のことでも、誰と付き合ってるだとか、誰のことが好きだとか、僕の耳にも届くことがある。それと同じで、仕方のないことなんだろうけど……。
朝霧さんは数人の女子と楽しそうに話をすると、佐々木さんから借りた数学の教科書を右手に持ち、それをひらひらと振って、笑顔で教室を出ていった。
女の子って、たくましいな……。