一流冒険者を目指す若者がドブさらいする話
昔から、酒場は荒くれ者のたまり場であった。
彼らの腕っぷしを頼りたいが、カタギの身では直接話すのは腰が引ける。そこで店主に仲立ちを頼んだのが、依頼を酒場の壁に貼り出すようになった起源であるという。
今では、その依頼書を目当てに血気盛んな冒険者志望がやってくる。
「だから、竜退治の依頼を受けるっつってんだろ!」
この通り。そしてそんな新人が辿る道筋は同じ。
「お前のランクじゃ受けられねえ。ドブさらいから出直しな」
ぴしゃりと顔面にドブさらいの依頼書を貼りつけられ、いいようにあしらわれる。サム・アッカーソンもまた、その様を店中の客に笑われる新人冒険者の一人であった。
さて、そのような扱いを受けて素直にドブさらいから始める冒険者はむしろ逸材と言えるが、残念ながらサムは「ドブさらいは冒険者の仕事じゃねーだろ!」と反発する十把一絡げの冒険者であった。そして仕事を受けなかった者の末路はひとつ。
「金がねぇ……」
至極当然の結末を路上で迎えたサムである。
金がなければ、宿もとれないし飯も食えない。路上をキャンプ地とすると宣言する元気もない。宣言する仲間もいない。そこにあるのは、横たわる己の体と、空腹という事実だけだった。
そして、鼻をくすぐる肉が焼ける匂い。
どうせ食えやしないのだと鼻の穴、いや、目蓋を閉じかけたサム。
しかし、その視界に馬の蹄が割って入った。
「うおっあっぶね!?」
頭を踏み砕かれる。そう思って慌てて飛び起きたサムが目にしたのは、人馬一体の種族、ケンタウルスの女性。
彼女はリヤカーの要領で馬車を牽いていた。珍しい、と思った。ケンタウルスはプライドが高い種族で、荷車引きのような役目は嫌がると聞いていたのに。しかしそれを気にする風もなく、朗らかな笑顔で「串焼き、いかがっすか」と言った。
「は?」
「串焼き。焼きたてっすよ」
指し示されたのは、馬車。なるほど、確かに肉が焼ける匂いのもとはここらしい。
「悪いが金がねぇ。腹が減るだけだからよそでやってくれ」
「うち、ツケOKっすよ」
「マジでか」
持ち合わせがなくても食える。これぞ天の助け。神様は俺に立派な冒険者になるんだよと言っている!
ふらふらと馬車に乗り込んだサムは、気が付いたらもう串焼きにかぶりついていた。
「ああ……別にめちゃくちゃ美味いってわけじゃないけどちゃんと焼いた肉の味がする」
「ちゃんと焼いた肉だからな」
馬車の中で肉を焼いていたのは、人間の男性だった。ケンタウルスではなく、こっちが店主らしい。
腹の虫と共に落ち着いて観察してみれば、おかしな馬車だった。
対面座席で、その間はカウンターで仕切られている。カウンターの内側には(おそらく)キッチンがあり、小柄でしょぼくれたおっさんが網の上で肉を焼いていた。
ここはいったい何なんだ。
「移動酒場だよ」
しょぼくれたおっさんはサムの疑問にそう答えた。
「車輪つきの屋台を引っ張って、あちこち回ってんのさ」
「物理的に引っ張ってんのはあたしっすけどね」
ひょっこり覗き込んできたケンタウルス。
「そして経済的に引っ張ってんのは俺だ」
「酒と肉さえあればいいだろうって経営方針はむしろ足引っ張ってるっすよ」
何ィ……とショックを受けたような店主。どうして初めて訪れた店で漫才を見せられているんだろう、とサムは思ったが、そんなことより串焼きと酒が進んで止まらなかった。
その間も店主がこれまでに巡った町や村の名前を挙げ、その中に聞き馴染んだ名前があると気付く。
「俺、その村の出身だよ」
「へえ、そうか……お前さん、もしかしてサム・アッカーソンか?」
「そうだけど……」
「お前のじいさんが言ってたよ、都会に出てった孫がいるんだって。自慢の孫だとな」
「……そうか、じいさんが」
サムの祖父は、先日亡くなった。
村から危篤の報せを受け飛んで帰ったが、看取れなかった。
達者でやれという遺言を又聞きし、葬儀を済ませて戻ってきたのだ。
「村を出るとき、二つ名がつくようなスゲェ冒険者になるって大口叩いた。じいさんにもそう言って、俺ならできるって送り出してもらったんだ。俺はじいさんをホラ吹きにしたくねえ。手っ取り早く名を上げるためには、めったに来ない竜退治の依頼を逃がすわけにはいかねえ。ドブさらいなんか受けてる時間がねえんだよ」
気が付けば、サムは店主を“おやっさん”と呼び、祖父の訃報から冒険者として燻っている現状まで、すべて話していた。おやっさんは「そうかそうか。まあ飲め」と酒を「ほら飲め」勧めて「どんどん飲め」サムはすっかり馬車の中で酔い潰れてしまった。
翌日。
サムは見知らぬ町で降ろされた。
酔って寝ている間に、馬車で都から運び出されたようだ。
「ツケは、この依頼を受けることで返して貰おう」
おやっさんにはそう言われ、馬車の中にあった煤けた貼り紙を持たされた。ドブさらいの依頼書だった。既に散々飲み食いをした後だったので是非もない。
こうしてサムは、冒険者としてドブさらいを受注することになった。
*
「装備が必要だ」
非常に冒険者らしいセリフだ。
しかし、買い揃えたいのは長靴、軍手、作業着、マスク、ヘルメット。そしてスコップ。軍資金はおやっさんに貰った。
とりあえず現場に行ってみたサムは絶句した。側溝が詰まってしまったからきれいにして欲しいという定期的な掃除だと思っていたが、詰まっているのは泥というより土砂であり、瓦礫と言っていい大きさのものもあった。
そういえば、と記憶を掘り起こす。この間、大きな地震があった。新聞によると、揺れの割に大した被害は出なかったそうなので特に記憶に留めていなかったが、被災地は海辺の町だった気がする。ここは耳をすませば波音や海鳥の鳴き声が聞こえるし、潮の香りもする。
ふと見回せば、壁や屋根の一部が崩れている家屋があちこちに見受けられた。その崩落したものが、側溝の瓦礫の正体だろう。ここがその被災地じゃないのか。
「……」
まあいいか、とサムは考えるのをやめた。バケツを傍らに置き、作業をしやすいように側溝の蓋を外す。足を踏み入れ、スコップでせっせと土砂を掻き出し始める。
しばらく無心で作業をしていると、ジャリ、ジャリリ、とスコップを引き摺る音が近づいてきた。それは先ほど挨拶を済ませた、依頼主の老婆であった。
悪臭防止のマスクをずらして呼びかける。
「何しにきたババア。危ねーから引っ込んでろ」
さすがに態度が悪すぎることは否めないが、挨拶に訪れた際の第一声「こんな若僧が来るとは思わなかった」を始め、数々の罵倒をぶつけられた経緯があるので、お察しいただきたい。
「お前なんぞに任せちゃおれん。すっこんでるのはそっちさ、若僧」
「できねーから冒険者に依頼を出したんだろうが」
「お前のどこが冒険者だい。お前が冒険者ならあたしゃ神様だ」
「二重の意味でボケてんのかババア。マジで仏様になる前に失せろ」
「ドブさらいで死ぬもんかね。せいぜい腰が逝くぐらいだよ」
「ふざけんな! せっかくの報酬がテメェの治療代でパーなんざ冗談じゃねーんだよ!」
ツケの返済がかかっているのだ。死活問題であった。
こともあろうに依頼主から妨害を受けながらも、サムはなんとか土砂を掻き出し、用意したバケツを一杯にした。ざっとこんなもんよと、少し得意気なサムである。
「……で、このバケツはどこに持って行ったらいいんだ?」
老婆には「知らん」と言い捨てられ、サムはバケツを抱えて方々を練り歩くことになった。
結局、土砂は、農家に引き取ってもらうことにした。乾燥させて肥料にするという。
魔物だって倒した後の解体のことまで考えない奴はマヌケと言われるように、ドブさらいだってそれは変わらない。冒険者に求められているのは、自己完結する力である。
「ババア、家の前のドブさらい完了だ。これで依頼達成だな」
「何言ってんだい。何も終わっちゃいないよ」
「……あ?」
「あたしが依頼したのはこの集落一帯のドブさらいだよ」
無理ゲーであった。
*
「どういうことだよおやっさん!」
「あの一帯は言っちまえば老人街でな。観光地や集客の見込める繁華街は行政が優先的に復興させたんだが、それ以外の地域は手が回らないという理由で住民の自主作業を求めている。そんなこと言われても、ジジババには文字通り骨の折れる仕事で、ドブさらいすら進まねえっていうことさ」
そういうことじゃねえよと思ったが、確かにそれも聞きたいことではあった。事情はわかった。だが、だからといってあそこを全部一人でドブさらいするのには無理がある。
「まあまあ、とりあえずやってみたらいいんじゃないっすか?」
「他人事だと思って……」
「依頼を遂行している最中は、うちの屋台でまかないが食べられるんだし」
確かに、食いっぱぐれずに済むのはメリットではある。
仕方ない。メシのためだと思って、いっちょドブさらってみるか。
「ところでこのまかない、正規のメニューより美味くね」
「あっ、これあたしが作ったんすよ」
「マジかよ……絶対逆だよ……」
何でもおやっさんは、店を持つことだけが夢だったらしく、移動酒場というアイデアもどこかに土地を買って店を構えることが難しいと知ってひねり出したという。万が一、この馬車馬兼看板娘がいなくなったら、この店は終わりだろうなと思いつつ、サムは酒を呷った。
「あ、酒はまかないに入らないっす。はいお金」
しまった。
*
それから数日、サムはドブをさらってさらってさらいまくった。
流れをせき止めている瓦礫があれば「ふんぬぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」と大絶叫してどかして周りで体操をしていた老人たちに拍手されたり、ババアを「フル装備してから出直して来な!」と一喝し休憩にと淹れてくれたお茶は素直に飲んだりした。
ヴァシリーと名乗る男が訪ねてきたのは、そのルーティンが安定してきてからのことだった。
「君がサム・アッカーソンか」
「誰だよ」
「いや……そのトボけ方はないだろ。君、サム・アッカーソンだろ?」
「そうだよ。だからアンタは誰だっつってんだろ」
「あ、君、イエスかノーで答えるのを省略して会話するタイプ? 簡単な受け答えには価値を見いだせない感じのタイプ?」
サムの人間性はともかく、ドブさらい中に話しかけてきた男は、ヴァシリーと名乗った。
「この町の冒険者の元締め、の使い走り、のようなものをしている」
それはドヤ顔で名乗れる肩書きか疑問だったが、さほど興味はなかったのでサムは「へえ」とだけ言った。
「今日は君に話があって来た。なに、悪い話じゃない。君も冒険者なんだってな。この町でやっていくつもりだったら、今後のことも考えて……なあおいちょっと手を止めてくれないか」
ヴァシリーが喋っている間、サムはドブをさらい続けていたためザッシュ、ザッシュと雑音が割り込んでいた。仕方なく、スコップを土砂に突き立てヴァシリーに向き合うサム。
「何だよ」
「君に頼みがある」
「だから何だよ」
「ドブさらいをやめてくれ」
「今やめてるだろーが」
「このまま再開しないでくれと言っている」
「ドブが片付かねーだろ」
「ああ。そうしておきたいからな」
「……」
「そんな虚空に放り出された猫みたいな顔するなよ」
「側溝の整備は、本来ならば行政が負担しなければならないものだ。しかし連中は後回しにして、住人に押し付けようとしている。ドブさらいの依頼を受注しないことは、いわばストライキ。行政への抗議活動なんだよ。町の冒険者が一丸になっているときに、勝手にドブさらいをされては示しがつかないのでやめてほしい、というわけだ」
以上が、ヴァシリーが元締めから言付かってきたという内容だ。
対するサムの返事はこうだ。
「ドブさらうか、役場にカチこむかどっちかにしやがれ」
足元にスコップを放り投げられたヴァシリーは、明らかに困っていた。
「ウソ……ウソだよね。ちゃんと考えて喋ってる? 結構強めの圧力かけたよ今」
サムは激怒した。政治はわからぬ。ただ、ドブが何もしなくてもきれいになることなどないことはわかっていた。
「自分が住んでるところをきれいにするのは住民の義務。言いてえことはあるがもっともだよ。なら、冒険者ってのは何だ。根無し草だから住民じゃねえってか。はした金じゃできねえってか。ドラゴンは倒せてもドブさらいのやり方はわからねえってか。いや、それは別に責めるようなことじゃねえ。無償奉仕を強制するのは間違いだし、するもしねえも本人の自由だ。だがな、やらないと決めたんなら、それ以外のやるべき仕事をきっちりしやがれコンコンチキが!」
「そこまでにしてくださいませ」
ヒートアップしてヴァシリーに詰め寄るサム。それを制止したのは、またしても、いきなり現れた見たことのない人物であった。今度は女性。
その少女は、冒険者たちがストライキ中であるというのはサムを丸め込むためのヴァシリーの口八丁であると明かした上で、サムのドブさらいをやめさせるように依頼したのは自分であると自己紹介した。同じ自己紹介でも、サムにとっては「あなたにドブさらいを依頼した者の孫です」という情報の方が驚きだった。気の強そうなところ以外、似ていない。良い意味で。
「……私たち一家は地震を機に、この町を離れることを選びました。しかし祖母だけは頑なに拒み、冒険者に依頼を出しているから出て行くわけにはいかないと駄々をこねていたんです。それでも受注者が現れず、それを理由に引っ越し先に連れて行こうとこうして度々訪ねているのですが」
じろり、と流し目がサムを捉える。
お前が受注したから難しくなったと目が言っている。
「これだけの規模、本当にできると思って受けたんですか?」
ここまでの規模とは思ってなかったから受けた。
「やらねーよりマシだ。誰だって住んでる町はきれいにしておきたいだろ」
またイエスかノーをスキップしたな、と外野のヴァシリー。
「あなたにメリットないでしょう?」
「ある。俺だって今はこの町に住んでるんだ」
暫し視線が交差する。
「……今日のところは引き下がります。次こそ連れて行かせていただきますから。その間、」
慇懃無礼な孫娘が頭を下げた。
「祖母がお世話をおかけします」
孫娘の去り際に、サムは「あんたいいやつだな」と感じたままを言ったら、睨まれてしまった。残ったヴァシリーは、サムと顔を見合わせてにんまりと笑う。
「お孫さん、仏頂面だけどさ、ばあさんのこと心配してんのさ。ジジババって基本は孫に甘いから、もっと愛想よくすればうまくいくと思うんだけどねえ」
確かに、笑えば可愛かろう。
「サム君、あんた面白いね。きっといい酒の肴になるよ」
冒険者であるというのは本当だったヴァシリーにより、熱いプロ意識を感じさせる啖呵を切った男の話が酒場にもたらされ、冒険者たちの間で話題になった。
そしてサムには『ドブさらい屋』という通称がついた。
*
「そうじゃねーんだよ!」
だんっ、と空にしたジョッキを乱暴に置く。
まかないに入らないと言われても知ったことか。飲まずにはいられなかった。
「良かったじゃねえか。欲しがってた二つ名だぞ」
「だからそうじゃねーんだよ! ドラゴンスレイヤーとかそういうのが欲しいんだよ!」
「じゃあ、ドブサライヤーっすね」
「響きがそれっぽいだけじゃねーか!」
「ドブサライヤー……」
「押し付けようったって俺は絶対名乗らないからな……?」
それなら『ドブさらい屋』の方がマシだ。
文句をつけても、結局は明日もドブをさらうのだから。
そこに倦怠感はあっても、すでに嫌悪感はなかった。
*
ドブさらい作業にヴァシリーが加わった。
「孫娘さんに頼まれた依頼も失敗したし、やることなくて暇なのさ」
「だったらせめて長靴買ってこいや」
ドブさらい作業を冒険者が受けたがらないのは、そんな仕事を受けていたことを恥と思い、後継に伝えないから、ノウハウが蓄積されないという問題があると思う。
「いいや、単純に人手が足りないんだよ」
ヴァシリーは訳知り顔で言う。
「少なくともこの町にとってはそうだ。地震が起きた次の日には、冒険者の半数はこの町を去った。復興って名目でタダ同然で働かされるのは目に見えていたからね」
住んでる町なんだから多少はタダ働きでも仕方ないんじゃないのか。そう異を唱えたサムに、ヴァシリーは頭を振ることで答えた。
「口で言えよ」
サムはニュアンスで理解できるほど繊細ではなかった。
「冒険者は根無し草のならず者。恩義や絆は都合のいいときだけの幻想。同情して、安請け合いして、赤字出して、次の冒険に備えられない奴から死んでいく業界だよ」
「じゃあお前は何でここに居んだよ」
「いいやつだからだよ」
今まで見てきた中で最も胡散臭いサムズアップだった。
「ところでドブさらい屋くん、喉渇いたんだけど」
「俺に言うなよ。おーいばーさん、お茶ァ」
声をかけるが、返事はない。怪訝に思って家に上がると、依頼主の老婆はこくり、こくりと船を漕いでいた。
「ばーさん」
「……ん。お迎えの時間かい」
「孫娘はこの間来たばっかりじゃねえか。それより、ヴァシリーの奴がもうダメだってよ。いつもの出涸らし淹れてくれよ」
老婆は「そうかい」と言って台所へ向かう。
ヤカンを火にかける。しゅんしゅんと蒸気の音が漏れ聞こえる。
「あんたね」
「何だよ」
「もうドブさらいやめてもいいんだよ」
「あ? 俺には無理だってか?」
「いいや。依頼主にとって、ドブなんか本当はどうでもいいからさ」
サムはきょとんとした目を向ける。
「引っ越しが億劫でね。わがままを言っていただけさ」
その話は孫娘からもう聞いていた。
「あんたはお迎えを追い返すいい口実になったよ」
「んな風に言ってやるな。孫だってばーさんが心配なんだよ」
「わかっちゃいるよ、そんなこと」
ヤカンがピーッと沸騰を告げる。サムは老婆の代わりにヤカンを火元から取り上げた。
「ありがとう……ありがとうねえ……」
それは何に対する感謝なのか。
あれだけ憎まれ口を叩きなぜ今になって感謝するのか。
よくわからなかったので、サムは舌打ちで返した。
「湿っぽいんだよババア。無駄口たたかねーで茶ァくれや!」
それは照れ隠しの暴言だったが、不思議なことに、この老婆はサムが声を荒げると愉快そうに笑うのだ。
サムはこのとき、確かに、この依頼に手応えを感じていた。
*
朝から雨だった。
こんな日に作業をしても仕方ない。
サムは宿屋で、疲労回復のため寝ることにした。
雨は一日中降り続けた。
サムにとっては後から聞いた話になる。
寝ている間に依頼主の容体が急変していた。
じきに亡くなったらしい。
*
雨が上がった。
サムたちが片付けた側溝にも再び泥が溜まり、掻き出した箇所にもどこからか残っていた土砂が流れ込み、脆くなっていた外壁が崩れ落ち、ドブが復活した。
ヴァシリーが「潮時だな」と呟く。
「依頼人はもういない。いや、それどころか住人すらいない」
作業している間に感じていたことではあったが、老人街の住人は日が経つごとに減っていっていた。今までは見向きもしなかった家族が、地震を機に気に掛けるようになり、同居を申し出て連れ出して行ったのだろう。それ自体は、良いことだとサムは思う。
「人がいなくなれば、その土地はもう好きに出来るってことだ。行政が大金をかけて開発に動くよ。金に釣られた冒険者たちを動員して、ドブごと更地にするだろう」
最後にサムの肩に手を置く。
「ここをドブさらいする意味は、もうないよ」
そして、ヴァシリーは去って行った。
サムはしばらく立ち尽くし、やがてスコップを側溝に差し入れた。
この時、冒険者がドブさらいの依頼を受けたがらない本当の理由がわかった気がした。
ドブさらいをしていると、自分がひどくちっぽけで、取るに足らない存在に思えるのだ。心躍る大冒険を夢見る冒険者にはあまりにも重い枷だ。
ドラゴンでも首を落とせば死ぬ。
ドブには落とす首がない。
何度スコップを突き立てても、取り除いても、そこに人がいる限りドブは詰まる。ドブさらいに終わりはない。あるのは「ここまでにしといてやる」という諦めだけだ。
絶対に「勝ち」がない相手に挑むのは、誰だって嫌だ。
ドブに負けたと認めるなんて、絶対に嫌だ。
ドブをさらいながら足を進めるうちに、葬儀の場を通りがかった。
場違いな男の登場に、にわかに参列者たちがざわめくが、弔われる当事者の孫娘が進み出たことですぐに静まり返った。相対した孫娘に、サムは問う。
「ドブさらいは」
「もう結構です。依頼は取り下げさせていただきます」
思ったとおりの答えだった。
ふと、このまま葬儀に参加しようかという想いがサムに生まれた。だが、今日ここに来たのは仕事の話をするためだ。深入りするものじゃない。だからこんな恰好で来たのだ。
「そうか」
「ここまでの報酬は必ずお支払します。だから――」
「なら、そいつは俺からの香典にしてくれ」
暫し視線が交差する。
「ばーさん、看取れたか」
「……お世話をおかけしました」
イエスでもノーでもない返事を聞いて、踵を返す。
その一瞬、孫娘が深々と頭を下げたのを視界の端に見た。
酒場にはクエスト失敗で報告することにした。
*
「おやっさん、申し訳ねえ」
移動酒場で報告を終えて、サムはカウンターにこすりつける勢いで頭を下げた。
「申し訳ねえってのは、どうしてだい」
「紹介してくれた依頼を達成できなかった。全部俺が悪い」
サムにとって、今回の依頼は失敗に他ならなかった。
ドブさらいなんかと馬鹿にしていた依頼を受けてしまったことも、最終的に黒星の記録が残ってしまったことも。
何より、引き際を見誤ったこと。
依頼人が無理難題を言い出した時点で、常識で考えられる範囲の依頼は達成したと主張し、手を引くべきだった。きっとサムに分があった。
それなのに、依頼人の事情に感化され、深入りした結果がこのざまだ。
できないとわかっていながら受けて、期待を裏切った。まさに「依頼を受けたのが失敗でしたね」……最悪だ。
「悪いと思うことなんか何もねぇよ」
おやっさんが言った。
「ばーさんが言ってたんだろ。ドブをきれいにしたいなんて口実で、ずっとこの町に居たかったんだ。お前がいたから最後を町で迎えられたし、お前がいたから寂しい日々を過ごさずに済んだ」
「……」
「紙に書かれた依頼はこなせなかったかもしれない。でも、書かれてないことはしっかり叶えてやったんだよ。損得を考えないやつにしかできないことだ」
損得を考えない、か。
「ヴァシリーって冒険者に言われたよ。冒険者は、そういう奴から死んでいく仕事だって。俺はきっと向いてないんだ」
村を出るときもみんなに散々言われた。背中を押してくれたのはじいさんくらいだ。お前ならできるって……いや、待てよ。お前なら大丈夫だって言ったんだっけか。
どちらにせよ、できもしなければ大丈夫でもなかったな。
「こんなんで、一端の冒険者になれるはずがねえ」
ましてや、自慢できる一流の冒険者になんて。
「そんでついた二つ名が、『ドブさらい屋』」
「ドブサライヤー」
「……『ドブサライヤー』だ。じいさんにも恥をかかせて、合わせる顔がねえ」
空気を読まない馬娘の茶々入れも、今のサムにはありがたかった。
その時、サムの前にグラスが置かれた。おやっさんが「とっておきの酒」と言っていた一升瓶から酒をなみなみと注いでいく。雰囲気に流してぼったくる気だろうか。
「お前のじいさんに免じて、俺の奢りだ。じいさんの言う通り、自慢の孫だった」
「そりゃ嫌味かおやっさん」
おやっさんが笑う。
「俺ァ、じいさんの口から、お前が凄腕の冒険者だなんて聞いちゃいねぇ」
「優しい孫だって、自慢してたのさ」
サム・アッカーソンは冒険者である。
ただの冒険者ではない。うだつの上がらないひと山いくらの三流冒険者だ。
それでも、自分が価値のある人間だと知っている。
大事なものさえ変わらなきゃ、どこで何やってもお前は大丈夫だ。
そう言われて送り出されたことを、思い出したから。