第6話 自殺クラブ~探偵志願(3)~
禍福は糾える縄の如し、という言葉がある。
良いことと悪いことは、より合わせた縄のように交互にやってくるという意味だ。
良いことがあった次は、悪いことが起こるかもしれないから気を引き締めろ。
悪いことがあった次はいいことがきっと起こるから気を落とすな。そういう意味だ。
では、カベに貼り付けるようになった今の俺は、幸運なのだろうか。それとも不運なのだろうか。
「むぐぐぐぐぐぐ……」
時刻は夜の10時半を回った。
俺はカベに張り付く「練習」をしている。
せっかく見つけた能力なんだから練習してみよう、と鷹見に言われたからだ。
「いいよいいよ矢守、そのまま横に移動もしてみようか!」
「ぐっ……了解だ……」
手のひらでカベに張り付く、というのは口で言うよりなかなか難しい。
高いところで手のひらだけを頼りに静止するというのがまず恐怖がある。
上に昇るだけならまだしも、横方向に動くとなると、腕を伸ばし、重心を移動させる必要がある。
うっかりするとバランスを崩しそうになるため、どうしてもおっかなびっくりになってしまうのだ。
体中に汗が浮いている。こんな風に真剣に体を動かしたのはいつ以来だろうか。
と、鷹見が時計を見て声を上げる。
「あ、もう10時半過ぎてるんだ。矢守、とりあえず練習はここまでにしようか」
「そう、だな……賛成だ。もうくたびれた……」
俺は手を離し、床に降りて思わず尻餅をついた。
鷹見が冷蔵庫からペットボトルの水を持ち出し、渡してくれる。
「疲れたよね、お疲れさん。水でも飲んで」
「……悪いな、助かる」
一気に水をあおり、喉に流し込む。温まった体に冷たい水が染み込んでいくようで、べらぼうに美味しく感じられた。
「しかし、カベに張り付くなんてどういう原理なんだろうな」
「あたしもいろいろ調べてみたんだけどさ。ニュースサイトで、それっぽい記事がいくつかあったよ。
こういう感じで作られてるのかもね」
鷹見がタブレット端末を貸してくれる。画面にはインターネットのサイトが画像付きで表示されていた。
“海外の研究所で、ヤモリの手の構造を参考に義手を開発、実戦投入へ”
そんな文章が表示されている。ヤモリのようにカベに貼り付ける義手が開発されている、という記事だった。
ヤモリの画像と共に、ヤモリがカベに貼り付ける理由も載せられている。
詳しい専門用語もあるが、読み進めるとだいたいの理屈は分かってきた。
ヤモリの足の表面は、とても細かな毛のようなもので覆われている。
その毛が物と接し合うとき、“ファンデルワールス力”という引力が発生するのだ。
ファンデルワールス力とは、物と物が引っ張り合う不思議な力のことだ。
ヤモリはその足が生み出す微小な引力なおかげでカベに張り付いていられるのだという。
俺の義手もそれを応用しているということだろうか。
件のサイトには、具体的な義手の会社までは記載されていなかったため、詳しくは分からない。
鷹見も水を飲みながら言う。
「それにしても、矢守って名前でヤモリの能力なんてねぇ」
「いいだろ。ぴったりで」
「まあね。……とりあえず、今のところ矢守が取れるアクションの幅はわかったね。カベを登るのは十分オッケー。
ただ左右移動とか、細かい動きになると少し怖いって感じかな」
「だな」
「もしかしたら、どっかでその爬虫類的能力に頼る時が来るかもしれないね。でもなるべくそうならないようにするよ。
何しろ今日見つけたばっかの能力だし。あまり無茶して怪我しても困るしね」
俺は水を飲み干し、ペットボトルを宙へ放る。ボトルは放物線を描き、ゴミ箱へ軽い音を立てて収まった。
「ひとまず、今日は遅いからここで解散にしようか。明日から一緒に捜査しよう。
自殺クラブのことを突き止めて、首謀者を明らかにすれば、その腕のこともおのずと明らかになるかもしれないからね」
「分かった。よろしく頼むよ」
「とりあえず、この事務所の2階を寝床に使っていいよ。ベッドにもなるソファがあるから、それ使ってちょうだい。
小さいけどシャワーもあるから、勝手に使っていいよ」
「いいのか?」
「いいっていいって。夜も遅いしね。明日の朝10時に調査開始。30分前にこの事務所1階に集合ってことで」
「……何から何まで、悪いな。恩に着る」
俺が言うと、鷹見は両手を拳銃の形に作り、目を細めてにっと笑って答える。
「矢守にはその分いろいろ働いてもらうからね。とりあえずゆっくり休みなさいな。探偵助手くん♪」
鷹見は手を振りながら事務所を出て行く。扉が閉められてからすぐに、バロロロロというバイクの走行音がして、だんだんと遠ざかっていった。
鷹見が安全運転で帰宅してくれることを願いながら、俺は事務所2階へ上がった。
2階の小さなドアを開けると倉庫とおぼしき部屋があり、大きいソファがでんと置かれていた。
変形させることで簡単にベッドの形となった。申し分ない寝心地だった。
枕は無かったが、近くに置かれていたタオルを丸めて枕の代用とすることにした。
横になると、途端に眠気が襲ってきた。
明日のことを思いながら目を瞑る。
――絶対に突き止めてやる。人体実験について。首謀者について。
ここで突き止めなかったら、きっと一生悶々としたまま過ごすことになるだろうから――
静かに目を閉じると、そのまま俺は眠りへ落ちていった。
◆◆◆
きらきらとした日差しで目が覚めた。
目を覚ますと朝の8時過ぎだった。
大きく伸びをする。体調はまずまずだった。
1階へ降り、顔を洗い、外へ出られるように身なりを整える。
鷹見が来るまでTVでも見て待ってようか、と事務所のTVの電源を入れた。
「――今日の天気は晴れ。七湊市は一日を通して過ごしやすい気温になるでしょう。
ただし本日は夜になると“ストレス値”が上昇する恐れがあります。体調の悪い方やストレス値の影響を受けやすい人は気をつけてください」
TVでは天気予報とストレス予報が映し出されている。
地球の振動波が人間の心身に悪影響を与える――
それが分かってから、天気予報のように振動波を予測して、こうしてTVで予報するようになった。
振動波が活発になり、人体への悪影響を与えるのをわかりやすく言い換えたのがストレス値だ。
それが上昇すると犯罪・交通事故の件数も増加傾向になる。
その後、ニュースは事件の報道に切り替わった。
俺の事件に関係がある出来事はないか、と画面を注視したが特に目を引くニュースはなかった。
時計を確認すると、9時45分になっていた。
鷹見はまだ来ない。
「……おかしいな」
もしかしたら何かあったのだろうか。だが連絡しようにも鷹見の電話番号を知らない。
番号くらい聞いておくんだった、と自らの不手際を責めたくなったが、今はそれどころではない。
どうしたんだろう――と心配しているところに、バロロロロロロというバイクの走行音が聞こえてきた。
事務所のドアへ目をやると、勢いよくドアが開いて息せき切った鷹見が入ってきた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、お、おはよっ」
「……どうした? 何かあったのか?」
「い、いやあ、あはは、遅れてごめん」
鷹見は笑顔で答えるが、肩で息をしている。
「…………」
「……い、いやぁ。ちょっと寝坊しちゃって」
「寝坊かよ! 何かあったかと思ってちょっと心配したわ! 来たからいいけどよ!」
「ほんとごめん、謝ります。今日のごはん奢るから許して」
はあ、とため息をつく。どうも鷹見には指摘できる欠点がいくつかあるようだった。
だが、人間誰しも欠点は必ず持っているものだ。
「いいよ。急いで来てくれたしな。髪型整えて来いよ。ちょっと寝癖になってるぞ」
「え、マジ? うわほんとだ、直してくる。ありがとっ」
鷹見は洗面所へ走る。「次は寝坊しないように気をつけるから!」と声だけが聞こえてくる。
俺はTVを消した。窓から差し込んでくる日差しがきらきらと眩しい。
今日はいい天気になりそうだった。