7、魅惑の赤い果実
大きなテーブルを囲むようにして座る三人。中心には湯気を上らせる鍋が置かれ、マルタと名乗った村娘が丸い木の器にシチューを取り分けていく。
「お二人に出会えて本当に良かった。私、あの魔物に追われてて……助けていただけなかったら今頃、あの魔物の夜ご飯になってたかも……」
「ミーアもあなたに出会えてよかった! じゃなかったら今頃、あの魔物を夜ご飯にしてたかも……」
スープから立ち上る香りに、ミーアは上機嫌で尻尾をピンと立てる。
目の前で微かに揺れる尻尾に、マルタのシチューをよそう手が止まる。
「あの、この尻尾本物ですか?」
「当たり前じゃん。偽物なワケ……ひッ!?」
マルタは目を輝かせながらミーアの尻尾を根本から掴む。
「わぁ、ふわふわです!」
うっとりと声を上げながら先端に向けてゆっくりと手を滑らせていく。
ミーアは大きく体を震わせ、全身の毛を逆立て、尻尾を大きく膨らませ、目を白黒させながら跳ね上がるように立ち上がった。
「なっ、なに……なにすんのッ!?」
「え? 触っちゃだめですか?」
「お前の眼球に爪を立てながら同じこと言ってやろうか!?」
牙を剥き「フーッ」と威嚇するミーア。ロムレスは今にもマルタへ飛び掛かりそうな彼女の肩に手を置き、ゆっくりと椅子へ座らせる。
「まぁ落ち着け。マルタさん、獣人を見るのは初めてですか? 人間と同じで、むやみに体を触ってはいけませんよ。特に尻尾は」
「そうなんですね。ごめんなさい、つい興奮してしまって……」
「もうっ、これだから田舎者は!」
ミーアは頬を膨らませながら尻尾を鞭のようにしならせて床に叩きつける。
申し訳なさそうな顔でマルタは器によそったシチューをミーアに差し出した。
「あの、お口に合うか分かりませんが……」
「…………」
ミーアは不機嫌そうな表情は崩さず、尻尾をゆっくりと左右に動かしながら器とスプーンを受け取る。
すくい上げ、息を吹きかけてよく冷ました肉の欠片を口に放り込むと、彼女は顔を綻ばせた。
「んー! 美味しい!」
「あ、それあの魔物の肉です」
「ヴバァッ!」
「汚いぞ」
顔色を変えずシチューを啜りながら、ロムレスが口を開く。
「食事までありがとうございます。いただいたらすぐ出ていきますので」
「は!? ちょっと待って、今日の宿はどうするの?」
「進みながら宿を探すさ」
「あの……私の知る限りこの辺りに宿はありませんよ」
言いにくそうに口を開くマルタに、ロムレスはあっさり答える。
「そうですか? まぁ、問題ありません。野宿しますから」
「野宿!? 冗談じゃない。ミーア外で寝るなんて絶対ヤダ!」
「いつまでも厄介になるわけにはいかないだろう。それに先も急いでるし……そうだ、実は私たちある武器工房を探してリンゲンまで来たんです。この辺りに工房はないでしょうか」
ロムレスの言葉にマルタは困ったように小首を傾げる。
「リンゲンには有名な武器工房がいくつもありますが……」
「変わった剣を作ってるんです。両手剣ですが、クレイモアとは違って片刃。細身で少し反りがある造りをしています。心当たりはありませんか?」
「……もしかして、その剣が何か災いをもたらしたのですか?」
恐る恐る尋ねるマルタ。
その言葉にロムレスは大きく目を見開いた。
「あっ、ごめんなさい変なこと聞いちゃって。刀剣にはそれほど詳しくないし、やっぱり勘違いかも――」
「聞かせてください。あなたが知っていることすべて。間違っていても構いません。さぁ」
決して激しくはないが、相手に選択の余地を与えない毅然とした口調。
マルタは背筋を伸ばし、やや緊張したように口を開く。
「あっ、えっと……実はすぐ近くに鍛冶師が住んでいるんですが、少し変わっているおじいさんで。魔物に餌付けしたり、刀を持ってウロウロしてる事もあったんです。まぁ田舎なので魔物なんかも出ますし、その程度だったら珍しいことでもないんですが」
そこまで言って、マルタは躊躇うように黙り込む。
ロムレスが先を促すと、彼女は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「そのおじいさん、前は奥さんと住んでたんです。でもある夜を境に奥さんを見かけなくなって……」
「その夜なにが?」
「何があったかまでは……でも私、見ちゃったんです。抜き身の刀を持った血塗れのおじいさんを。その時持っていたのが、今あなたのお話にあった物と似ていたんです」
「ほう……」
ロムレスは窓の向こうに広がる広大な森に目をやる。太陽はすっかり傾き、オレンジの光が山火事のように木々を照らす。
マルタも席を立ち、不安げな視線を窓に向けた。
「おじいさんの家はすぐ近くです。もう日も沈みますし、今日は泊まっていかれては? 外には魔物もいるかもしれないし、私もお二人がいてくれると安心ですから」
「そうですね。俺だけなら良いけど、子供もいるし――」
そう言いかけて、ロムレスはハッとする。部屋中を見回し、顔を青くさせた。
「アイツ、どこいった?」
*****
「そろそろ気付いたかな」
マルタの家の屋根の上。傾きかけた太陽の光に照らされながら、ミーアは慌てふためくロムレスの姿を想像してニヤニヤと笑う。
野宿を絶対に避けたかったミーアは考えた末、一つの策を決行した。
それはロムレスから身を隠し、日が沈むのを待つというもの。
王都と違い街灯のない山の夜は自分の足元すら見えないほどに暗い。そうなればロムレスも出発しようとは言い出さないし、マルタも命の恩人を魔物のうろつく夜の森に放り出そうとはしまいと考えたのだ。
「んふふふ、ミーアが大人しく野宿なんてするわけないでしょ」
ミーアは日向ぼっこでもするように屋根の上にゴロリと横たわる。
転がり落ちないようバランスさえ取れれば、屋根の上は温かくて居心地はそう悪くない。
とはいえ、ミーアの体調は万全ではない。喧騒に包まれた王都で暮らしていては絶対に体験できない静寂の中、ミーアの腹から地響きのような音が飛び出る。
「……お腹減ったなぁ」
リンゲンのグルメを堪能する気満々だったミーアは保存食なんて気の利いたものは持ち合わせておらず、マルタが出してくれたシチューは猫科っぽい魔物肉への嫌悪のためほとんど口にできず。
ミーアの胃が不満の声を上げるのも致し方ないことである。
そんな状況だ。ミーアの鼻はいつも以上に敏感になっていた。
甘酸っぱい香りが彼女の鼻をくすぐると、勢いよく体を起こして辺りを見回し、そしてビクリと体を震わせた。
「わっ、びっくりした」
金色の瞳を満月のように丸くし、ミーアは思わずつぶやく。
屋根の上のミーアをじっと見つめる一人の男がいたからである。真っ白な髪、そして深い皺の刻まれた顔をした老人は、無表情で屋根の上の彼女を見つめている。
「えっと……? 近所の人?」
困ったような表情でミーアが尋ねるが、老人は口を開こうとしない。彼は手に提げていた籠から赤い実を取り出し、空高く放り投げる。
大きく弧を描いて飛んでいく赤い実は吸い込まれるようにミーアの小さな手の中にすっぽりとおさまった。
「くれるの?」
老人は相変わらず返事をしないが、ミーアも返事を聞く気などはなからない。
綺麗な丸い果実は覗き込んだものの顔を映すほどにつやつやと輝き、得も言われぬ魅惑的な芳香を放っている。
ミーアは迷うことなくその赤い実に噛り付いた。
「あまーい!」
ミーアは歓声を上げながら幼い子供のように顔を輝かせ、脚をバタつかせた。
空っぽの胃に、果実の甘さが染み渡る。夢中で一口、もう一口と齧り、どんどんと実を小さくさせていく。食べれば食べるほど、果実は甘みを増していくようだった。
果実のそれとは違う蜂蜜のような甘さがミーアの頬を上気させ、思考を溶かし、視界を歪ませる。
「あれ……?」
果実はミーアのバランス感覚すら奪い、屋根の上に突っ伏すようにして倒れこむ。
「……あ」
滲んだ視界の中で老人の姿を見た。
ミーアは老人が声を出さなかった理由――いや、出せない理由を悟った。
老人の唇は糸で縫い付けられていたのだ。
しかしその事についてどうこう考える余裕などない。
「ミーアッ!」
どこか遠くに聞き覚えのある声を聞きながら、ミーアの意識はドロドロした甘さに溶けこみ、消えた。