22、Sorry. 悪いが聞こえないよ。耳にバナナが入っててな。
「なにアイツ……!?」
ロムレスがゴブリンと格闘を繰り広げているころ、ミーアは異世界人を追いかけて園内を疾走していた。
足の速さと俊敏さに自信のあるミーアは、いかにも運動というものに縁遠そうな少年など簡単に捕まえられるだろうと高をくくっていた。
実際異世界人の走りのフォームは滅茶苦茶。いかにも筋肉と運動神経がなさそうな無様な走り方をしている。
にも拘わらず、ミーアは彼に全く追いつくことができなかった。
「これが異世界人の身体能力ってヤツ? 無茶苦茶だよ」
風を切るように園内を走る異世界人。
しかし園内には行き交う客という障害物がたくさんある。
剣山モグラを見つめるツアー客の集団に突っ込み、異世界人は転がるようにして派手にずっこけた。
「よし……!」
ミーアはニヤリと笑い、ミスリルの短剣を手の中で回す。
だが異世界人もただじっとしているわけではない。
「アダダッ!? くっそ」
異世界人はスライムを抱えたまま体を起こす。
しかし立ち上がろうとはせず、彼は剣山モグラの檻に赤い粉を投げ入れた。
「ヤバッ……みんな逃げてッ!」
ミーアが叫ぶのとほぼ同時に、檻の中から奇声が上がり、檻の周囲からは悲鳴が上がった。
ゴブリンの時と同じく、剣山モグラの体がボコボコと膨らんでいく。しかしモグラたちの背負った鉄の甲羅に伸縮性はなく、膨らんだ肉が歪に変形して甲羅からミチミチとひり出される。
痛みと興奮で暴れまわる剣山モグラたち。やがて檻をこじ開け、剣山モグラたちは園内に放たれた。
魔物にしては可愛らしい剣山モグラの変わり果てた姿に泣き出す子供たち、腰を抜かすご婦人。
しかし当の異世界人は逃げ惑う客と悶え苦しむ剣山モグラを指さしてヘラヘラ笑う。
「へへ、これは刺激的だな!」
味を占めた異世界人はただ逃走することを止め、逃げ惑う客たちの間を縫うように走り回って檻に怪しい粉を投与していく。
園内のあちこちから魔物の奇声、人々の悲鳴、檻の壊れる轟音が響く。
逃げ惑う人々に突き飛ばされながら、ミーアはすべての元凶を探した。
「どこ……どこ……!? せっかく、初めて師匠に頼ってもらえたのに……!」
足元を焦がされるような焦燥を覚えながら、ミーアは唇を噛みあちこちに視線を向ける。
「よお。さっきの猫耳の子! あのいけ好かない兄ちゃんは一緒じゃないの?」
聞き覚えのある軽薄な声。
それは園内に足を踏み入れて最初にミーアに絡んできた男二人組の片割れであった。
彼は得意げな表情と妙に機嫌のよさそうな声でミーアに声をかける。
「アイツにも教えてやりたかったのになぁ……ははは、やっぱりさ、俺の言ってるのが正しかったよ。あの魔物は触手淫魔で間違いなかった」
「あ……」
ミーアは男の姿に言葉を失う。
「だってさ、ほら、こんなにさ、気持ち良いもん」
ケタケタと笑う男の腹はまるで臨月の妊婦のように大きい。しかし男の腹の中を這いまわっているのは胎児などではなく、もっと恐ろしくおぞましいものであった。
ある檻から伸びた触手が男のへそのあたりから腹腔内へと入り込み、太い血管のように脈打ち、寄生虫のように蠢いている。
触手は男の腹に消化液を送り込み、撹拌し、ハラワタをドロドロに溶かしているのだ。やがて注入した消化液ごと男のハラワタを吸い上げた。
空気の抜けたゴム人形のようにペチャンコになった男をゴミのように投げ捨てる。それはミーアの脇をすり抜け、彼女の背後にいたご婦人を下敷きにした。
「ギャアアアッ!?」
お腹と背中がくっついた死体の下で婦人は悲鳴を上げる。
しかし婦人を襲った不幸は、ペチャンコの死体に馬乗りにされただけではなかった。次の瞬間、悲鳴は歓声に変わる。
男の腹の中を空っぽにしただけでは飽き足らず、触手は次なる獲物に狙いを定め、婦人の温かい腹の中に潜り込んだ。
「そうか……“沼地の腸吸い”も、動き出したんだ」
ロムレスの言っていた通り、その被害は甚大であった。
無数の触手一本一本が人々の腹を穿ち、食らう。その食欲には底がなく、人々は抵抗する手段を持たない。
「まず、アレをなんとかしなきゃ……」
ミーアはミスリルのナイフをお守りのようにギュっと握りしめる。その手は小刻みに震え、消化液と血の匂いに吐き気を堪えるので精いっぱい。
そんな中、頭の中にロムレスの言葉が響く。
『ヤツの触手は本来かなり伸び縮みするし、視力はほぼないが沼の中からでも獲物の接近を察知する聴覚があり、性格は凶暴かつ食欲旺盛――』
ミーアは金色の目を見開く。
「そうだ、聴覚」
ミーアは辺りを見回す。
触手は逃げ惑う客たちの中でも、甲高い悲鳴を上げる者を狙う傾向にあるらしかった。
おそらく、悲鳴や物音を立てなければ触手に襲われることもない。
しかし園内は大混乱だ。逃げ惑う民衆に、人の言葉に耳を貸すような余裕はないだろう。下手に声を張り上げればミーア自身が危ない。
「なにか、なにかあるでしょ? これだけバケモノがいるんだからさぁ」
ミーアが取り出したのは、園内の地図が描かれたパンフレット。入園前にチケットと共に貰ったものだ。
彼女に魔物の知識は多くなかったが、しばらくしてパンフレットから上げたその顔は先ほどよりも少しだけ色が良い。手の震えも治まっていた。
「やれる。今度こそ、一人で」
*****
「おー、スゲースゲー」
逃げ惑い右往左往する群衆を眺めながら、男はケタケタと笑う。
「これ幻覚じゃねぇよなぁ。いやぁ、薬ってやっぱ凄いわ。どうだ、お前も一つ」
男は腕に抱いたスライムの体に腕をねじ込み、怪しい白い粉を強引に与えた。しかし粉は青い体の中を浮遊するばかりで、スライムの様子にも変化はない。
「んだよ、スライムには効かねぇの? つまんね」
魔物の檻にもたれかかり、ため息を吐く男。
その時だった。
「ぎいいぃぃぃぃぃぃぃえええええええぇぇぇぇぇえええッッ!」
罪人の断末魔のような、魔獣の咆哮のような、地獄の地響きのような、この世の物とは思えない音が男の耳を貫いた。
混沌とした園内はパニックになった客たちで話声すら聞こえないほどの騒ぎであったが、音はそれらの騒音を上書きして余りある威力だ。
逃げ惑っていた客たちは次々と意識を失い、崩れ落ちるように地面に横たわっていく。
人を襲っていた触手も、一斉に強烈な声の方へと伸びていった。
「な、なんだよ一体!?」
異世界人の丈夫な体のお陰か。男は他の者たちと違い倒れこそしなかったが、それでもたまらず抱えていたスライムを放り出し耳を押さえてうずくまる。
「異世界人も音には弱いのね? 良いこと知った」
「お前……ッ!」
フードで頭を覆ったミーアが、死屍累々の中で薄い笑みを浮かべ立っている。
奇声の止んだ園内は不気味なほど静かだ。
男は慌てたようにきょろきょろと辺りを見回し、そして立っているのがミーア一人であると確認するなりどこか安心したように息を吐く。
「あの警官モドキはいないのか。一人で大丈夫なの? 迷子の子猫ちゃん」
「え? なぁに? 聞こえない」
ミーアはそう言ってフードを取って見せる。
布でぐるぐる巻きにされた耳が露わになり、そして彼女はローブの中から小さな鉢を取り出した。
「これ分かる? マンドラゴラ。引っこ抜くとね、凄い声出すんだぁ。植物魔物館からパクってきちゃった。ちょっと失敗して鳴かせちゃったんだけど」
「まさか、さっきの……」
ミーアは鉢から飛び出た紫の草を鷲掴みにする。
「や、やめろ!」
「えぇ? ごめん、聞こえないや」
ミーアは布で覆われた頭頂部の耳に手を添え、首を傾げてみせる。
異世界人は焦りに身を任せて声を張り上げた。
「やめろッッつってんだよッッ!!」
不気味なほど静かな園内に、異世界人の怒声が響き渡る。
ミーアは思わずニンマリ笑った。
「ハイ、ミーアの勝ち」
怪訝な顔をする異世界人。
だがミーアの言葉の意味を、異世界人はすぐ身をもって理解することになる。
「あ……?」
腹に感じる衝撃に、異世界人は目を丸くする。
ゆっくりと視線を下し、彼は自分の腹を見た。粘液に塗れぬらぬら光る触手が腹を貫いていた。




