19、ラリラリ異世界人
倒れた扉を踏みつけながら室内へ足を踏み入れるロムレスとミーア。
彼らはそこに広がる光景に目を見開いた。
ギラギラ光る粘液の中に溺れるようにして人が一人、倒れている。
「大丈夫!?」
駆け寄ろうとしたミーアの腕をロムレスが掴む。
「やめとけ。強酸だ。触れれば溶けるぞ」
「きょ、強酸……」
ミーアはうつ伏せに倒れた人影を見下ろし、顔を蒼くする。
「ああ……そんな……エリザベス……」
セアルは崩れ落ちるように膝をつき、行き場のない怒りに拳を震わせる。
「くそっ……人間め……妹になんてこと……ッ」
彼は何度も何度も固く握った拳で床を殴りつける。しかし床にヒビが入るばかりで倒れた妹が起き上がることはない。
呼吸すらままならないほどの重苦しい空気が部屋を押し潰す。
「じゃあ、この人が……」
「ああ」
ロムレスはミーアの問いに頷きながら、銃口を人影に向ける。
「異世界人だ」
ロムレスは引き金を引きまくり、地面に倒れこんだ人影に撃ち込む。
「アダッ、アダダッ……うう」
強酸の粘液に沈んだ人影は、ロムレスの銃弾を受けて短い悲鳴を上げる。
ロムレスの銃弾で体中に穴が開いたにもかかわらず、男の体からは一滴の血も出ない。体中の穴も、みるみるうちに塞がっていく。
しかし異世界人が砂になる前に、セアルがロムレスの腕を掴んだ。
「やめろ! 妹に当たったらどうする」
目を剥き、噛みつきそうな勢いでロムレスの前に立ちふさがるセアル。
ロムレスは舌打ちをして渋々銃を下す。
二人の後ろで、ミーアだけが現状を理解できずあわあわとしている。
「えっ、妹って、あれ、あの人じゃないの?」
「だから、あれが異世界人だって」
「じゃあ妹はどれよ!」
「あれだよ」
そう言ってロムレスが指したのは、やはり穴だらけになり粘液に塗れた異世界人。
首を傾げるミーアだったが、セアルは異世界人に向けて妹の名を呼ぶ。
「エリザベス、怖かっただろう……さぁおいで!」
セアルの言葉に反応するように、異世界人を包む粘液が波打った。
地面に広がっていた粘液が粘度を増し、ゲル状に固まってプルプルと蠢く。
「え? な、なにアレ?」
「スライムだな」
「スライム……が妹……?」
妹はプルプルと地面を這い、吸い込まれるようにセアルの方へ向かっていく。
セアルも涙ぐみながら妹を迎えようと膝をつき手を広げる。
が、スライムが兄の胸に飛び込むことは叶わなかった。
スライムの強酸の体を、床に倒れた異世界人が鷲掴みにしたからである。
「キィーッ!」
「エリザベス!」
異世界人はむくりと顔を上げる。
肩まで伸びた黒い髪はまるで女性のようだが、その顔はまだあどけなさの残る少年であった。
彼は焦点の定まっていない目でぼんやりとセアルたちを眺める。
「んだよ、せっかく良ーい感じにキマってたのに。邪魔すんなよ」
「ピッ! ピィッ!」
スライムの体がブルブルと震え、赤く染まる。
じゅう、という音と共に異世界人の手から白煙が上がった。
「ああ〜手がビリビリするぅ〜」
蝋のように溶けていく手を気にする様子もなく、異世界人は恍惚の表情を浮かべる。
ミーアは口をへの字に曲げ、汚物でも見るような視線を男に向ける。
「異世界人ってみんなマゾなの?」
「知らん! ……が、異世界人の体は頑丈すぎて日常生活で痛みを感じることは皆無なはずだ。あまりに痛みや刺激のない生活は人にとって毒となり得るのかもな」
「そうそう、そうなんだよ。刺激がさ、欲しいわけ」
男はスライムの上で人差し指と親指を擦り合わせる。すると指からポロポロと白い粉が舞い落ち、スライムの上に降り積もった。ストローのようなものを取り出し、粉掛けスライムを鼻から吸引し始める。
「えっ、あれ強酸なんでしょ? なに、どういうこと? こわいこわい」
怯えるミーアをよそに、男はとろんとした目で虚空を見つめる。
「っあー。やっぱ粘膜直塗りスライムはキクなぁ」
「貴様ァ!」
妹を鼻から啜られて怒らない兄などいるはずがない。セアルは白い額に青筋を浮かべ、顎が軋むほどに歯を食いしばる。
部屋中の陰から黒い帯が突き出し、鞭のようにしなって男を引っ叩いた。
しかしその程度の攻撃では男の皮膚にかすり傷一つ付けられない。男は鬱陶しそうに帯を手で払いながら、スライムを抱き寄せる。
「イテテ……なんだよもう。誰だお前」
「ピピーッ!」
「えっ、なに? へぇ、お兄さんなの? ほーん?」
男はそう言ってニヤリと笑う。
「良い妹さんですよねぇ。艶々で、透き通ってて、肌触りも凄いですよねぇ。くく……こうやって触ると、ほら、気持ちよさそうにプルプルしちゃって」
「キィーッ!」
「ははは。赤くなって、恥ずかしいのか? 可愛いなぁ」
「汚い手でエリザベスに触るなッ! これ以上妹を辱めるのは許さない……!」
セアルは射殺すような視線を男に向け、血が滲むほど強く唇を噛み締める。
部屋の中央で激しい攻防が繰り広げられている一方、壁際の制服師弟は何とも言えない表情で所在なさげにしていた。
「ねぇ、あれ辱めてるの? 基準が良く分からないよぉ」
「安心しろ。俺にも分からん。だがスライムとはいえ、人質を取られていることには変わりないからな。異世界人の握力なら素手でスライムを殺すことなど容易い。うまくヤツの意表を突ければいいんだが、どうしたもんか……」
ロムレスは銃口を異世界人に向けたまま、なにかヒントはないかと視線をあちこちに向ける。
その時、ミーアの耳がピクリと動いた。
「おお、おお。何事かと思って来てみれば……お待ちしておりました。それはもう、首を長く長くして」
奥の部屋から歩いてくる人影。
子供のような小さな体躯に似合わぬ低い声と深い皺の刻まれた顔。
「爺……やはり、おまえか」
セアルは小男を見るなり、薄く笑い、しかし今にも泣きだしそうな微妙な表情を浮かべて絞り出すような声で呟いた。
小男に銃口を向けながら、ロムレスも吐き捨てるように言う。
「ゴブリンだな。懐かしい。殺し飽きたと思っていたが、久々に見るとやっぱり殺りたくなる」
「お前……どこかで見た顔だと思ったら“雇われの死神”じゃないか。くくく、今更平和な世界には馴染めず、血の匂いを嗅ぎつけてきたか? 今や死神というより亡霊だな。だが喜べ。お前の望みももうすぐ叶う」
ゴブリンはロムレスの銃口に怯える素振りも見せず醜悪な笑みを顔いっぱいに広げる。
「王子、王子。魔族再興の時ですぞ。復讐の時ですぞ。魔物の軍勢を率いて腑抜けた人間どもに奇襲をかけ、憎き勇者の首を父君の墓前に捧げるのです!」
「勇者? 魔王? なんの話してるの?」
怪訝な表情を浮かべるミーアに、ゴブリンは嘲笑を浴びせる。
「ほほほ、小娘め、このお方が誰かも知らずここまで来たのか。この方こそ魔王様のご子息にして、これからの魔物を率いていく方――つまり次期魔王様だ」