15、路地裏ブラッディ
「女の子……女の子だ……」
「ひっ……」
倒れたミーアの体を跨ぎ、のそのそとフリージアを追い詰める男。
狭い路地裏に似つかわしくない、脂肪の鎧を纏った大男だ。肥え太り、肉に埋もれ血に濡れた指をフリージアの細い首へ伸ばす。
「や、やだ……たすけ」
「ッ……あああああぁぁぁぁ!!」
地面に這いつくばり、血の混ざった咆哮を上げながらミーアは残った力を振り絞って投げ槍の如く日本刀を投げつける。
それは吸い込まれるように男の脚を貫いた。
「グアァッ!?」
足を磔にされた男は、短い悲鳴を上げて地面に転がる。
ミーアは金の目を細めた。
「また投げちゃった……師匠に怒られるかな」
そう言って、真っ青な顔に力なく笑みを浮かべる。
首の傷を手で押さえてはいるものの、指の間から滑るようにとめどなく血が流れていく。すでにミーアは血の海に浮いているような状態であった。
「もう、ダメかも。フリージア……逃げて」
やっとの思いで声を絞り出し、そして絞りカスのようになった彼女はとうとう血の海に倒れた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
フリージアの呼びかけに、ミーアはもはや答えない。
血の匂いと目の前の凄惨な光景に足がすくみ、フリージアは逃げ出すこともできず、ただ立ち尽くすことしかできない。
そんな彼女の細い脚を、血塗れの手が掴んだ。
「へ、へへ……女の子」
「あ……」
足を引っ張られ、体重の軽いフリージアはすてんと簡単に尻もちをつく。
男の太い腕は少女の脚を引き寄せ、馬乗りになる。
「あ、ああ……」
フリージアは言葉も出せないほどに震え、ガチガチと歯を鳴らす。
恐怖に染まりきった彼女の瞳に、男はヨダレを垂らしながら獣のように息を荒げる。
貪りつくように、男は彼女の首に手をかけた。
その時だった。
「えいっ」
ゴッ……という鈍い音を立て、男の首がカクンと動く。一瞬の沈黙の後、男はフリージアに覆い被さるようにして倒れた。
「ひゃあっ!」
フリージアは恐怖のあまり歯を食いしばり、小さく体を震わせる。
しかし男が動くことはなく、フリージアは恐る恐る目を開けた。
「だから言ったのに。路地裏は危ないって。でも、良かった。手遅れにならなくて」
男の影から覗き込むようにしてフリージアを見下ろしたのは、先ほど二人に“路地裏の絞殺魔”の忠告をしたハイヒールの女であった。
彼女は血のついた石を投げ捨て、肉の海に溺れたフリージアを救出する。気を失っているのか、または死んでしまったのか。男はピクリとも動かない。
しかしピクリとも動かないのは男だけではなかった。
「無事なんかじゃ……ううっ、ヒッ……」
せき止めていたダムが決壊したように、フリージアの目から大粒の涙が零れ落ちる。
探し求めていた黒猫は男に腹を食い破られ、ミーアは今も首からどんどんと血を流している。
しかし女は全く動じない。
「何言ってるのよ。ちょっと血が出たくらいで」
「ちょ、ちょっとなんかじゃ」
「ちょっとよ、こんなの。まぁ唾つけとけば治る……とはいかないけどね」
女はヒールをカツカツ鳴らしながらミーアの元へ歩み寄る。
そして彼女はフリージアに微笑みかけた。
「あなた達は運がいいわ。私、医者だもの」
*****
「んん……?」
ミーアが眠い目を擦りながら起き上がると、暖かく小さな塊が彼女に飛びかかった。
「お姉ちゃん!」
「わっ……」
泣き腫らした目のフリージアを見て、ようやくミーアは自分が血塗れである事に気付く。
「あ、あれ? ミーア……ん?」
恐る恐る首を撫で、ミーアは目を丸くした。
そこにある血溜まりが嘘のように、ミーアの首の傷が綺麗に塞がっていた……というより、傷が跡形もなく無くなっていたのである。
「なんで……?」
「あのお姉さんがね、治してくれたの! お医者さんなんだって! ほら、見て」
そう言ってフリージアは腕に抱いた猫を見せる。
その柔らかな腹は黒い毛で覆われ、血や肉などとは無縁に思える。
「そんな……だってハラワタが……」
ミーアは信じられないとばかりに目を凝らすが、いくら見つめても猫の腹の皮が捲れて肉が露わになるような事はない。
女は血塗れの手を拭いながらミーアの顔を覗き込む。
「女の子なんだから、あんまり無茶しちゃダメよ?」
「い……医者スゲー……」
奇跡のような“治療”に、ミーアは感服するばかりだ。
そして自分がまたも大人に助けられた事実に、少し肩を落とす。
「さ、次はあの男ね。つい力んで強く殴りすぎちゃったわ」
女はそう言って、頭から血を流す肥え太った男に近付く。
「待ってよ、助けるの? 凶悪犯なんでしょ?」
「当然よ。命がなくちゃ贖罪もできないでしょう?」
不服そうな顔のミーアに、女は笑みを向ける。
「大丈夫、あとは私に任せて。応急処置をしたらしかるべきところに連れて行くから」
ミーアは少し考え、そして頷いた。
依頼人の命を脅かし、自分も大怪我をして死にかけたとロムレスに知られればなにを言われるか分かったものではない。
「分かった。けど、名前くらいは教えてよ」
「名前? ……そうねぇ」
女はなにかを考えるように細い指で顎を擦り、そして言う。
「メアリー。そう、メアリーよ」
「メアリーね。治療ありがとう。もし怪我しちゃったらまたお願いしたいな」
「うふふ、次はお代をいただくわ。私の診察代は高いわよ」
メアリーはからかうようにそう言うと、二人に向けてにこやかに手を振る。
「猫は見つけたし、もう行こうフリージア」
「うん!」
ミーアはフリージアと手を繋ぎ、猫とともに路地裏を去っていく。
それを見送り、彼女たちの足音が遠のいていくのを確認して、メアリーは男の頭に手を触れた。
すると手のひらが青く輝き、傷がみるみる塞がっていく。
しかし目を覚ました男が彼女を見て瞳に浮かべたのは、深い絶望だった。
「あ、あああ……嫌だ、嫌だ」
涙と鼻水を吹き出しながら男は尻もちをついたままよたよたと後ずさりする。
メアリーは彼の肥え太った頬を愛おしそうに撫でた。
「お腹空いたでしょう? 猫なんか食べて、可哀想に」
「嫌だ、食べたくない……食べたくないッ!」
男は握りしめていた鋭利なガラス片をメアリーの顔に振り下ろす。
だが彼女の眼球に突き刺さるはずのガラス片は岩にでも当たったように粉々に砕け散り、殺風景な路地裏の地面を彩った。
「ひっ……アギャアッ!?」
震える男の手のひらを、メアリーはピンヒールで踏み抜く。
生木を折ったときのような鈍い音が路地裏に響いた。
「……そうね、まず先に贖罪してもらわないとね。私の部屋から逃げた贖罪を」
怯える巨漢男の首を引っ掴み、メアリーは親猫のように男を引きずっていく。
だが路地の曲がり角で彼女はピタリと足を止めた。
「でも困ったわね、あの部屋にはもう戻れないし……そうだわ、アイツの家を借りましょう。それが良い。あなたもそう思うでしょう? あそこなら仲間がたくさんできるもの、ね?」
男の返事を待たず一人でそう捲し立てると、メアリー達は路地の暗闇へ消えていった。