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カメムシ

作者: 高橋弘


 秋の夜長に、こんこんと咳き込みながら窓を見やる。

 そこはいつも網戸を閉めっぱなしにしてあるのだが、ここ数日ほど季節外れのカメムシが止まっていた。


 近頃妙に気温が上がっていたし、まだ夏が続いてると思い込んでいるのかもしれない。

 嫌だなあ。窓を開けたらこいつ、入ってくるんじゃないか。

 そう思って放置していたのだが、今再び窓を覗き込んでみると、カメムシの姿は消えていた。


 おや、どこかに飛び去ったのかな? 

 なんとなく窓を開けてみると、サッシの隙間で仰向けになって倒れている虫を見つけた。

 カメムシである。

 指でつついてみるが、ぴくりとも動かない。


 死んでしまったようだ。


 そうか、お前は餓死したのか。こんなところに入ってきたばかりに。

 二回ほど咳をしてから、私は椅子に腰かけた。

 

 生き物が死んだ。

 寂しいことである。相手は悪臭を放つ節足動物に過ぎないというのに、それでも微細ながら喪失感がある。

 これがムカデやゲジムシなら、もう少し平気だったかもしれない。

 ……そうだろうか?

 単に長引く咳で、気が弱くなっているだけではないか?

 

 普段ならなんとも思わないはずさ……と自分に言い聞かせながら布団にもぐり、こんこんと咳を出す。

 

 治らない。

 私は毎年秋になると酷い咳が出る。風邪ではなく、花粉か何かのアレルギーだと診断されている。

 カメムシが季節を間違えるほど温かいというのに、草花の方はきちんと例年通りの花粉をばら撒いているようだ。


 病院へ行って薬を貰ってきたが、効いているのか効いていないのかよくわからない。

 

 面白くない。

 こんな時は酒でも飲めばいいのかもしれないが、生憎私は根っからの下戸体質である。

 調理中にフライパンから漂う、料理酒の湯気だけで立ち眩みを覚えるほどだ。

 

 なので私は大人の男だというのに、温めた牛乳などを好んで飲んでいる。

 美味くはない。体の内側から暖を取れるなら、別に何でもいいのである。


 眠れそうにないし、ココアでも入れて飲むか。


 そんなことを思い立ち、にわかに布団から起き上がる。

 のろのろと階段を降り、台所で牛乳を温める。真っ黒な粉末をたっぷりと入れ、スプーンでかき回す。

 舐めるように飲む。


 ……甘い。

 

 だが、それだけだ。私にも好き嫌いはあるが、元々食が細い方である。

 食べ物のために金や時間をかける人の気持ちはわからないと思っている。こんなものは体を動かすための燃料ではないか、とも。


 それで生きてて楽しいか? と聞かれることがある。


 もちろん、そんなわけがない。

 人生とは死ぬまで続く拷問である。終身刑なのである。私はそう思っている。

 

 カップの中をかき混ぜながら、一人で暗い笑いを浮かべる。

 まだ咳が出る。苦しい。喉が痛い。やはり、終身刑である。

 あのカメムシは言うなれば、一足お先に釈放してもらえたといったところだろう。


 カップを洗い、二階に戻る。

 窓を開けると、寂れた夜の町が見える。

 何もない土地である。過疎化と高齢化に悩む、どこにでもある田舎町だ。

 まるで真綿で首を絞められるように、じわじわと弱りゆく田園地帯。


 もうすぐこの町は、人が消える。

 そんなに若くもない私が、どこへ行っても若者として扱われるような町なのだ。

 ここでは四十歳より若ければ、誰でも今時の若者なのである。


 げほげほとむせながら、墨塗りの空を眺める。

 今もこのあたりを見えない花粉が舞っていて、それが私の呼吸器を苛んでいる。

 私は生まれ故郷に虐待されているのだ。


 窓を閉め、カーテンを引く。

 カメムシカメムシ、と呟きながら布団にもぐる。

 あのカメムシは賢いやつである。

 こんな世界、死ぬのが勝ちなのだから。虫のくせに、世の中の仕組みをよくわかっている。


 カメムシカメムシ。

 咳は止まらず、部屋は冷え込むばかり。

 カメムシカメムシ。

 明日はお前の墓を作ってやろうと思う。

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