ゲームから出てきたのはヒロインじゃなくてラスボスでした。
「不味いな。一体なんだこの飲み物は」
世界を滅ぼす力を持った悪の権化は、コーヒーがお嫌いなようだった。
◆
ついさっき、ゲームから人間が飛び出してきた。今時冗談にもならないような、古典的異常事態なのである。
超自然的に鮮やかな光を放つ旧世代のゲーム機。そこから現れたのは、当然ゲームのヒロイン――ではなく、漆黒のマントに身を包んだ、俗に言うラスボスだった。
ゲーム内で“悪意の魔女”と呼ばれるその人は、ゆっくり目を開け、僕の部屋を静かに見回した。
「そこのお前」
ゲーム中の重苦しく機械的なセリフ音からは想像もつかない、美しく透き通った声だった。
「ここは……なんだ」
至極当然の疑問である。最強の魔女の人間臭い部分を垣間見てしまった。とはいえ、決して当惑や不安といった表情を見せないあたりは、やはり魔女の余裕というものだろうか。なんとか答えようとするも、しどろもどろで上手く喋れない僕とは大違いだ。
魔女はそんな僕にさっさと見切りをつけて辺りを見回し始めた。さすが、賢明な判断である。
というか、「ここはなんだ」と聞かれてもどこからどう説明したものやらわからない。日本と言えばいいのか、地球と言えばいいのか。ゲームの中とこの世界は完全なる別物で、だとすればどう答えても全く頓珍漢な回答にしかならないだろう。
そもそも彼女自身、自分がゲームの中の存在だという自覚はあるのだろうか。
ゲームの中のキャラクターが自我を持っていてプレイヤーの愚痴を言う、なんていうのは漫画なんかでしばしば目にする設定だ。けれど、「ここはなんだ」という第一声から察するに、液晶という名のマジックミラーの向こうからゲームに夢中な僕の阿呆面を冷めた目で観察していた、というようなことはなさそうだ。
「なるほど、私が住んでいたのとは全く別の世界のようだな」
僕が頭の中の迷路を迷走しているうちに、一人で結論に辿り着いたらしい。魔女ってすごい。
「お前が私をここに呼んだのか」
こちらを観察するような視線を向けてくる。濃色の紫水晶のような深い瞳だ。
身震いした。
悪意の魔女は残忍な性格と強大な力を併せ持ち、ゲームの世界を滅亡させかけた存在。もしこちらでも魔法が使えるのだとしたら、対応一つ間違えればその時点で一貫の終わりだ。慎重に応えなければならない。世界の命運は今この瞬間、僕のコミュニケーション能力に委ねられているのだ。
「た、たぶん、違うん…じゃないすかね」
これはもう駄目かもしれない。心の中で世界に謝る。
昔からそうだった。緊張するとろくな言葉が出ない。小中高と新年度には毎回自己紹介で自損事故を起こしていた。面接を受ければ質問の数だけ傷を負い、道を聞かれれば途方に暮れた。
そうだ、授業で先生に差された時も答えは分かっているのに上手く応えられなかった。あんまり話したことのないクラスメイトに話しかけられると僕も知らない言語が飛び出した。
友達と勘違いで喧嘩になった時もそうだったし、一念発起して好きな子に告白しようとして――
「そうか」
などと、僕の一世一代の回顧を一言で遮り、魔女は右手の豪奢な杖を掲げた。魔女って容赦ない。
これは魔法を使ってくるモーションだ。
僕は静かに目を閉じた。
思い返せば悪くない人生だった。――とは言い難いかもしれない。
物心ついた頃には小心者の人見知り、交友関係は狭く浅く、両親や四歳上の兄にもなんだが遠慮がちな有様。ついたあだ名はオジギソウ。部活にも入らず、有意義な活動やイベントからはアグレッシブに逃げ回ってきた。
二十歳にもなって実家から持ってきた懐かしのゲームがこんな結末を生むとは夢にも思わなんだ。無念なり。
といった具合に、ただでさえ薄っぺらな人生を向こうが透けて見えるほど引き伸ばして拵えた走馬灯を堪能していたが、待てど暮らせど何も起こらない。
片目でチラリと見ると、魔女は訝しげな表情で杖を見つめている。
しばらくして、再びそのスラリと美しい腕を振り上げた。
僕は静かに目を閉じた。
また人生を振り返って感傷に浸ろうと思ったが、もう思い出の在庫がなかったからすぐに考えることをやめた。
結局、二度目も何も起こらなかった。
よもや最強の魔女ともあろう存在が魔力切れということもないだろう。ゲーム内では無尽蔵の魔力を持ち、コスパ最悪の強大な魔法を何度でも放ってくるのである。魔女ってずるい。
どうやら、この世界ではゲーム内の魔法は使えないらしい。当たり前と言えば当たり前かもしれない。
魔女は不機嫌そうに杖を見つめて立ちすくんでいた。そうしてまたしばらくした後、杖を壁に立てかけてそっぽを向いてしまう。
なんだか拗ねた子どものようだった。
そこから長く気まずい時間が過ぎた。
何か喋った方がいいかと思いつつ、何を喋っていいかわからないので、口を開け閉め手を上げ下げしていた。
魔女はずっとそっぽを向いていた。完全に拗ねている。
「あのぉ……」
魔女は横目でこちらを睨む。怖い。
「……何か飲みます?」
我ながら恐ろしく緊張感のない発言だった。
突然の事態に動転しておかしな言動を取ってしまった、なんて話は度々聞いては笑いモノにしていたが、なるほど、これは笑い事ではない。
まあ、悪意の魔女ともあろうものがこんな得体の知れない場所で、得体の知れない人間の出した、得体の知れない飲み物を口にするはずはないだろう。
「貰おうか」
耳を疑った。魔女はこちらへ振り向き、心なしか輝きを増した瞳で僕を見ている。その後、目を疑って、正気を疑った辺りで魔女の機嫌が急速に傾いてきているのを察し、そそくさとキッチンへ逃げた。
そうして出した安物のインスタントコーヒーがちょうど今、魔女の顔を顰めさせているのだった。恐らく彼女にこんな顔をさせたのは僕だけだろう。なんか興奮する。
今のところ被ダメージゼロ、与ダメージ1ということになるのかもしれない。一般人の僕が最強の魔女に勝ち越しである。
どことなく優越感を覚えつつ、僕もコーヒーを啜る。なるほど、確かに美味しくはない。
◆
Fantasy of the Liberty(FoL)は、今から十五年前に発売されたRPGだ。シリーズは現在四作、累計販売本数五百万本の人気タイトルである。
兄が発売直後の初代FoLを購入し、僕にもプレイさせてくれたが、当時、まだ小学生にもなっていなかった僕には難易度が高く、序盤で詰んでしまった。
その後しばらくこのゲームからは遠ざかっていたのだが、中学生の時に偶然シリーズ三作目の宣伝ポスターを発見し、ふと初代にリベンジしてみることにした。瞬く間に夢中になった。
ある日突然現れた魔女が、その悪意のままに世界中を混乱と恐怖に陥れる。ある村からは光を奪い、ある街では川を消し、ある国では山を燃やし尽くす。人々は魔女の気まぐれに怯えて過ごしていた。そんな魔女の悪意による支配から自由になるため、ある国の姫が自ら立ち上がる。
このゲームの特筆すべき点は、ドがつくほどの王道ストーリーではなく、その裏で繰り広げられる住民たちの生活にある。
ゲームの進行に連れて、名もないモブキャラクターたちが村を復興し、街に水路を引き、新たな王城を建てていく。時には新たな犠牲者が生まれ、かつての平和を夢見て死んでいく人もいる。ゲームの中に、数え切れない人生があった。
このゲームのサイドストーリーに対する圧倒的な作り込みは、発売から十五年経った現在も高く評価されている。モブとの会話に力を入れすぎて敵モンスターが色違いばかりなのはご愛嬌だ。
「――それで、私がそのゲームとやらから突然現出したというのか」
酸味の強めな泥水のようなコーヒーを、魔女と向かい合って飲んでいる。
貧乏学生たる僕のワンルームにはダイニングテーブルなど当然あるはずもなく、座卓にコーヒーと既製品のクッキーを置いている。
コーヒーを淹れた後床に敷いた座布団の上に座った僕を見て、魔女は一瞬悩んだ後、僕と同じように胡座で腰を下ろした。しっくりこないようで、時々座りを直している。コーヒーと違いクッキーは気に入ったようで、一ダースほどあった大きめのクッキーはあれよあれよと言う間に全て魔女の胃袋に収まった。
コーヒーを飲みつつ、さっきまでFoLについてと把握している現状について順を追って魔女に説明していた。御察しの通り、終始その口調はたどたどしいものだった。特に、コンピューターゲームという概念を説明するのが難しい。FoL内にチェスのようなボードゲームが存在するという設定と、魔女の人間離れした理解力のおかげで、なんとか理解を得られた。
終始、魔女は静かに僕の話を聞いていた。時折、僕の無意味に難解な説明を咀嚼するように目を閉じて、しばらくして目を開けると、僕よりも理解した返事を返してくるのだった。
「そのゲームとやら、見せてみろ」
数十分前、テレビにゲームを繋いでソフトを起動したところでこの異常事態が起き、ゲーム機のことはすっかり忘れていた。慌てて目を向けると、ゲームは電源が切れていて、異様な光もいつのまにか消えている。
再度ゲームを起動して、コントローラーを握る。ゲームのロードを待つ間にチラリと横を窺うと、魔女は無表情でじっとテレビを見ていた。視線を下に移すと、全身を覆う真っ黒なローブから白く細い手足が覗いているのが見えて、僕は動揺を隠すようにテレビに視線を戻した。
ゲームは問題なく起動した。ただ、セーブデータは全て消えてしまっていた。
「その機械で画面を操作しているのか」
「やってみます?」
魔女が頷いたのを確認し、コントローラーを手渡す。その際、彼女の繊細なすべすべの手に触れてしまい、一人で勝手に赤面して慌てるなどお約束も経由した。
「私の知らない字だ」
しばらくコントローラーをいじくり回して、魔女はそう呟いた。言葉の響きは困った風ではなく、むしろ未知の言語に学術的興味を惹かれたようだ。
「えっと、一番上のところがニューゲーム――初めからゲームを遊ぶ、ってことです」
そこから、僕がゲーム内のメッセージを逐一読み上げてゆっくりとゲームを進めていった。
僕と魔女は、音声言語では日本語でなんら支障なく会話できている。一方で、魔女は日本語の文字言語を読むことができない。
ゲーム内の設定として、独自の音声言語が存在し、文字言語もそれに対応した独自のものを使用している。しかし、プレイヤー視点のメッセージは当然日本語で表示されるようプログラムされている。つまり、世界観の設定とゲームのプログラムには齟齬が存在するのだ。
これらのことから、「音声言語は僕たちの日本語と同一のもの、文字言語はゲーム内独自のものを使用している」という理屈になったのではないかと、僕は結論づけることにした。
というより、ゲームからキャラクターが出てくるなんて非現実的事態を目の当たりにしてあれこれ理屈をこね回す意味があるのかという疑問に襲われ、これ以上考える気が起きなかった。
メッセージの通訳をしながら魔女のプレイを見ているうちに、ふと疑問が浮かんだ。
「あの、この人たちのこと、知ってますか?」
主人公やゲーム内のキャラクターに関して、魔女がどれだけの知識を有しているかということだ。
主人公の姫騎士イメリアは、“魔女”を討つために仲間と旅に出た。そうして、ゲーム中盤に“魔女”と直接対面するが、敗北する。その後、散り散りになった仲間と再会し、新たな力を手にして“魔女”との最終決戦、ラストバトルに挑むのだ。
僕のセーブデータは、“魔女”との最終決戦を直前に控えていた。そのデータを基にして魔女が現れたのだとしたら、主人公たちに関する記憶があるはずだった。
「知らぬ。イメリアとやらも、他の連中も」
魔女はイメリアのことを知らないと言った。魔女はずば抜けた知能の持ち主で、当然記憶力も並外れている。嘘をつく意味もないし、本当に知らないのだろう。
つまり、彼女には少なくともこのゲームにおける中盤以前までの記憶しかないということだろう。
そうしてしばらくゲームをしていたが、突然魔女がコントローラーを僕に返してきた。
「目がチカチカする」
魔女は目を閉じて動かなくなった。
時計を見ると、魔女が現れてから二時間も経っていた。アルバイトの時間が迫っている。
「あのー、申し訳ないんですけど、僕これからアルバイトがありまして……あの、しばらく出るんですけど、えーと、ど、どうしましょう」
「アルバイトとはなんだ」魔女が聞く。
「えーぁ、仕事みたいな、あー……仕事、です、はい」僕が答える。
出勤時間への焦りも相まってしっちゃかめっちゃかな僕の言動にはほとんど反応せず、魔女は静かに一言、「文字を学びたい」と言い放った。
◆
「漫画とやらはあらかた読めるようになった。もう少し難しい本を寄越せ」
アルバイトから帰ってくると、悪意の魔女が僕のお気に入りの少年漫画を読破していた。
文字の勉強と言われたところで時間がなかったため、簡単な漫画と辞書だけ置いて出てきてしまった。本当なら五十音を覚えて絵本あたりから始めるのがいいのかもしれないが、僕の住処にそんなものはない。
しかしながら、そんな文字を学ぶにすこぶる適さない環境もなんのその、彼女は持ち前の知能で漫画を解読してしまったようだ。魔女ってすごい。
「えっと、とりあえず今から夕食を作ろうと思うんですけど、どうしましょうか」
次の教材をどうしようかと考えながらだったため、かなり曖昧な質問になってしまった。
「この世界の料理に興味がある」
魔女がそういうので、冷蔵庫のあり合わせでカレーライスを作ることにした。
調理中も、魔女は何かあるとすぐに観察しにやってきた。コンロの火をつけた時には、「この世界にも魔法があるのか」などと未知なる世界に目を輝かせていた。
できたカレーを振る舞ったところ、たちまちに平らげておかわりまで要求してきた。コーヒーブレイクのクッキーといい、この魔女は案外食い意地が張っているのかもしれない。
その後、湯浴みがしたいだの寝床をどうするかだのといった細々(こまごま)とした悶着があったが、なるべく新しいシャツとズボンを貸し、魔女様が我が物顔でベッドに入ることで事なきを得た。
僕の服を着た風呂上がりの魔女の姿は、僕だけの宝物として心の奥底にしまっておく。
◆
目覚めると体が痛い。床に座布団を敷いただけの簡易な寝床で寝ていたからだろう。
ハッとしてベッドを見ると、魔女は腰掛けて本を読んでいた。夢じゃなかったのか、と困ったような少し嬉しいような気持ちで顔を洗い、朝食の用意をする。魔女の召使いになった気分だった。
「ずいぶんと柔らかいパンだな」などと感心しつつ魔女はもぐもぐとトーストを二枚平らげ、読書に戻っていった。太ももの上に乗せた本は漫画ではなく、挿絵のついた簡単な小説だった。
「あの、僕は大学に行きますんで、お昼は昨日のカレーを食べてくださいね」
「大学とはなんだ」魔女が聞く。
「えっと、学校……ってわかりますかね」僕が答える。
「ほう」と、魔女は恐らくこの時初めて僕自身に興味を示した。
「学ぶのは良い。よく励むことだ」
その日一日、僕が近年稀に見る程に真面目な大学生と化していたことは言うまでもない。我ながら単純である。
日が傾いてきた頃に大学から帰ってくると、魔女は僕のお気に入りの小説を読んでいた。比較的難しい表現を使う作家の作品だ。時折辞書を引きながらとはいえ、恐ろしい学習能力である。魔女ってすごい。
読書に励む魔女の姿を見守りつつアルバイトへ行き、戻ってくると、出る前と寸分違わぬ体勢で読書に励んでいる。よく見ると太ももの上の本が変わっている。同じ作家の別作品だ。
夕食は、ジャガイモやらキャベツやらを炒めてカレー粉で味付けして振る舞った。
「この国は全部こういう味付けなのか」などと言いつつ、魔女はご飯のおかわりを要求した。ちなみに、彼女は箸の使い方もあっという間にマスターしていた。
夕食を食べ終えると、魔女はシャワーを浴び、定位置となったベッドの真ん中に腰掛けて本を開いた。
二日間、彼女と生活していて気づいたことがある。彼女は、知識欲、というより好奇心が強いのだ。
見知らぬ世界に突然飛ばされた彼女を支配したのは、困惑や絶望などではなく好奇心だったのだろう。知らない飲み物を飲み、知らない食べ物を食べ、知らない文化や文字を知る。
彼女はほとんど常に本を読んでいるが、僕が料理をしたり、スマホを使ったり、テレビを見たりすると、近づいてきて色々と質問をしてくる。「これはなんだ」とか「どういう仕組みだ」とか「誰でも持っているのか」とか。
好奇心を満たすとき、彼女の瞳はいつも少女のように輝いていた。
本当は、この部屋の外も見てみたいのかもしれない。今はこの部屋にあるもので満足していても、いずれ外の世界への好奇心を抑えられなくなるだろう。
ベッドの上の姿を見る。相変わらず、じっと文字を追っている。もう辞書も必要としないようだ。
こちらの世界の服を着て、無表情で、けれど目を輝かせて町を歩く彼女を想像する。その隣にいるのが自分であれば、どんなに素敵なことだろう。
センスには自信がないけれど、なんとか服を見繕ってこようかななどと考えながら、僕は目を閉じた。
◆
座布団の上で目覚める。体が痛い。
ベッドの上の魔女は、何か考え込むように虚空を見つめていた。
声をかけるが、返事はない。
不審に思い、ふと彼女の脇に置かれた本に目を向ける。そこにあったのは、FoLの攻略本だった。
血の気が引いていく感覚があった。
いつのまにか忘れていた。いや、考えないようにしていたのかもしれない。
彼女はゲームのラスボスだ。悪の権化、世界の仇、“悪意の魔女”だ。
攻略本には、“魔女”の恐ろしさが書かれている。“魔女”を倒すために立ち上がった人間の歩みが書かれている。“魔女”に苦しめられた国や人々の生活が、想いが書かれている。
呆然とする僕には視線を向けず、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私のゲームについての本を全て出せ」
「でも」
「頼む」
それから、僕はすぐに他の攻略本や制作スタッフのインタビュー記事を、ネットや古本屋でかき集めた。
古本屋で見つけた公式ファンブックの巻末に、幼い頃の“魔女”を題材にした書き下ろしの短編小説が掲載されていた。好奇心に溢れたひとりの少女が、なぜ最強の“魔女”になったのか。そのきっかけを描いた小説だ。
魔女はゆっくりと噛みしめるようにページを捲っていった。読み終えると、目を閉じて一つ息を吐き、静かに語り出した。
彼女には幼い頃の記憶がなく、覚えているのは魔女と呼ばれるようになってからのことだけだという。自分が何者かもわからず、ただ膨れ上がる好奇心だけがあった。好奇心のままに魔法を振るい、己の知識欲を満たした。それが、多くの人々を苦しめていたのだ。
理屈で考えるならば、ゲームソフトに実装されていない設定や、後日書き下ろされた小説の設定などは魔女の記憶には反映されない。ゲーム内に点在する“魔女”に関するデータだけが、彼女の意識に記憶として反映されているのだろう。
「ゲームを点けてくれ」
魔女は僕を見据えて言った。
◆
もうどれだけの時間、ゲームをしているだろう。大学を休んで、魔女と二人でずっとFoLをプレイしている。といっても、僕は魔女がプレイしているのを横で見ているだけだ。
魔女は、“魔女”に苦しめられた人々の話を余すことなく聞き、その想いを胸に溜め込んでいくようだった。
「私は、こういう風に見えていたのか」
ゲーム中盤に差し掛かり、主人公の姫騎士イメリアと“悪意の魔女”が初めて合間見える。戦闘に入っても、魔女はコマンドを入力しない。アクティブタイムバトルなので、イメリアたちが一方的に蹂躙される。まもなくパーティは全滅した。
「強いな、私は」魔女が言う。「絶望的だ」
画面が暗転し、イベントが進む。ゲームオーバーにはならない。
「私は、負けなければならないのだな」
魔女の呟きが僕の心に突き刺さった。
◆
長い時間が経った。
二人して喋らず、まともな食事も取らず、ただゲームをしていた。
イメリアたちは見違えるほどに強くなり、今まさに“悪意の魔女”の居城に足を踏み入れたところだ。
「頼みがある」
意識が飛びかけていたところに、彼女の声が響いた。隣を見ると、彼女の体が淡い光を放っている。
「私を倒してくれ」
耳を疑った。
「恐らく、最後の戦闘の時、私はここにいない」
ここではない、どこかにいるのか。画面の向こうに。
“魔女”の部屋が近くなってきた。彼女の纏った光が強くなっている。
何か言おうとしたが、声が出ない。最後に飲み物を口にしたのはいつだ。
「悪意の魔女を討つ、最大の名誉をお前にやる」
この扉の先に“魔女”がいる。
彼女は、初めて笑みを浮かべた。笑い慣れていない、ぎこちない笑顔だった。
「楽しかったぞ」
扉を開くと同時に、彼女の体から超自然的に鮮やかな光が放たれる。
数秒後、僕の視界に彼女の姿はなかった。画面の中に、“魔女”の姿があった。
僕はコントローラーを握った。おどろおどろしいBGMが流れる。
“魔女”を攻撃する。
“魔女”の魔法で仲間が倒れる。蘇らせる。
“魔女”を攻撃する。
“魔女”の魔法で仲間が全員瀕死になる。
魔女って強い。
数分間戦っていた。
“魔女”の魔法で仲間が二人倒れる。直後、イメリアの攻撃がヒットし、静寂が訪れた。
イメリアたちと魔女の会話イベントが流れる。視界がボヤけて文字なんて読めやしない。“魔女”の、重苦しく機械的なセリフ音だけが聞こえる。
感情を抑えきれず、がむしゃらにボタンを押した。
朦朧としながら、目元を拭って画面を見る。
「楽しかったぞ」という“魔女”の最後の台詞が表示され、画面は暗転する。僕の視界も暗転する。
かくして、“悪意の魔女”は討たれ、世界に平和が戻った。
◆
あの出来事からはや三ヶ月になる。
僕は相変わらず大学に通ったり、アルバイトをしたり、ゲームをしたり、夕食をカレー味にしたりしている。
ただ、勉強は真面目にするようになった。僕の中に眠っていた好奇心が目覚めたようだ。
あの日、僕がゲームをクリアした後で、日本全国でFoLが起動しなくなるという事件が起こった。ネットでは、“魔女”の呪いだとか、FoLタイマーだとかなんとか言われている。
メーカーや外部機関でも調査したそうだが、原因はわかっていないらしい。
先日、FoLの新作の製作が発表された。
ゲーム誌のデモ画像の中に、幼い頃の彼女の姿があった。ファンブックの外伝小説よりも前という設定だという。ストーリーには絡まない脇役として、ファンサービスのような形での登場らしい。
彼女は、悪意なんて欠片もないような、無垢な笑顔を浮かべていた。