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「起きて、お兄ちゃん」
まどろみの中、そんな聞きなれないようで、逆に酷く聞きなれた女の子の声を聞いた気がした。
……気のせいだろう。
俺に妹などいない。
いや、妹どころか、家族すらいない。
一人暮らしの俺が誰かに起こされるなんてことはありえないんだ。
「ねぇ、お兄ちゃん、起きてよ、遅刻しちゃうよ」
ありえない、ハズなのに。
けれど俺をお兄ちゃんと呼ぶ何者かは確実に存在している。
――夢か。
たまにある。
学生のころ、母親に起こされて学校へ行く準備をしているハズなのにうるさく俺を起こす母親の声を聞きながら、なんで俺は起きて準備をしているのに母親はまだ俺を起こしているのだろう――
そう思ったことが何度もあったが、なんのことはない。
夢だったのだ。
起きて準備をしているのが夢で。
現実は、まだ布団の中で、母親が大声で起こしていた。
これは、そんな類の夢だ。
いもしない俺の妹が俺を起こしている、夢。
「お兄ちゃん、今日から学校だよ。始業式だよ。春休みは終わったんだよっ」
ほらね。
学校?
始業式?
春休み?
そんなものはとっくの昔に関係なくなってる。
「お兄ちゃん!」
堪忍袋の緒が切れた、というような声が、俺の体の上でがっちり俺をガードしてくれていたヌクヌクのお布団を、がばっ、と容赦なくはぎ取った。
……寒い。
夢め、まさかここまでやるとは。
いや、夢の中で寒さを感じた時は、現実でも布団がどっかよそに行っている場合が多い。
これは、夢と現実がシンクロしたその結果か。
つまり、現実世界では布団がはがれていて。
それを俺は夢で見ている、ということだ。
つまりつまり、俺を起こす人間などやっぱりいない。
「お兄ちゃん!」
ぺちぺち。
なにかが俺をの頬を叩く。
夢だろう。
ま、それはそれとして。
寒いので、お布団をかけなおすため、取りあえず目をあける。
「………………」
「………………」
目があった。
女の子――だ。
それも、どこか現実離れしたような。
ぱちぱち。
目を瞬く。
布団の上にあおむけになった俺の顔を覗き込む可愛らしい少女。
これも夢だろうと何度も何度も目を瞬かせるが、一向に消える気配はなく。
「起きた? 一階に朝ごはん用意しているから、着替えて下りて来てね」
少女はそう言って、部屋を出て行こうとする。
「ちょっ、待って!」
その彼女の腕を、がばっと起きあがった俺は、掴んでいた。
「どうしたの? お兄ちゃん?」
不思議そうに俺を見返してくる少女。
繰り返すが、俺に妹はいない。
だが……見知らぬ少女、というわけじゃあない。
この子には、見覚えがあった。
俺の、妹だ。
いや、なにを言ってかわからないと思うが起こったことをありのまま話すぜ。
今目の前にいる少女……彼女は、ゲームキャラだ。
現実には存在しないハズの、ゲーム世界のキャラ。
それが、なぜか、現実になって、俺のすぐ目の前にいる。
まぼろし~~~~~~~?
……いや、それにしては、妙に現実感があるような。
掴んだ腕の温もりは、確かにこの手に感じる。
きょとん、と俺を見つめてくる少女に、俺はおそるおそる問いかける。
「………………リリ?」
「……なに?」
「リリ……だよな? 鈴代莉々子……主人公……いや、俺の、妹?」
「なにを言ってるの? ねぇ、お兄ちゃん、本当にどうかしちゃったの?」
質問に対する正確な答えはなかったが、頑なに俺をお兄ちゃんと呼び続ける少女の態度から、俺は確信する。
確信するしか、ない。
この子はほんまもんの鈴代莉々子や~~~~~~~~~~!
そこでふと浮かぶギモン。
じゃあ俺は?
俺は誰だ?
俺にはこれまで生きて来た記憶がある。
しょぼくれた人生を送ってきた、孤独でさえない心も見た目も貧しい男だ。
だが、鈴代莉々子の兄は違う。そうじゃない。
俺とは全然違う。
自分ではごくフツーの男子高校生としゃーしゃーと言ってのけるが、その実、ハイスペックなイケメンくんだ。
「ちょ、ちょっと待ってて」
目の前の少女から目を離すのは惜しかった。
ふとしたきっかけで、彼女の存在が幻と消えてしまいそうで。
この夢のような現実(?)が、本当に夢で終わってしまいそうで。
けれど、確かめないわけにはいかない。
俺は誰だ。
ここはどこだ。
まず、部屋を見まわす。
……うん、俺の部屋じゃあないね。
あらためて見回すまでもなかったが、そこはどう見ても、俺が住んでいる六畳一間の、半ゴミ屋敷ではない。
部屋の壁には、鏡が張り付けてあった。
慌ててそれを覗き込む。
俺が……今のこの俺が、いったいどんな姿をしているのか、知りたかった。
――若い。
華奢だ。
腹も出てない。
なにより……イケメンだ。
鏡の中に、俺じゃない俺がいる。
鏡に向かって、チョキ。
ひょっとしたら後出しでグーを出してくるかもとも一瞬思ったが、鏡の中の俺とは似ても似つかない俺のような存在は、俺とまったく同じタイミングで、チョキを出して来た。
これもう確定じゃないですかあああああああああああああああああああああああ!
この若いイケメン、俺。
マジかよ……
「リリ」
振り返り、あらためて少女を、鈴代莉々子を、リリを……俺の妹を、見る。
リリはそこにいた。
消えてなどいなかった。
「どうしたの? お兄ちゃん? 本当に今日は変だよ? 熱でもあるのかな?」
リリが、不安そうな顔で俺に近寄ってきて、俺のおでこに手を当てる。
その手のぬくもりは、紛れもなく現実のものだ。
俺はあらためて目の前の人物を確認する。
鈴代莉々子。
ショートカットで栗色の髪。瞳の色は青。
服装は、下は黒のジャージ、上はクリーム色のパーカーを羽織っている。
これはリリの部屋着だ。
ジャージは中学の時の学校指定のもの。
――確認終了。
間違いなく、目の前の人物は、ゲームキャラ、鈴代莉々子その人だ。
「……うーん、熱はないみたいだけど……」
そう言って俺のおでこから手を離したリリを、俺はがばっとイキオイよく抱きしめる。
「きゃっ、なに、どうしたの?」
驚いて声をあげるリリ。
リリの体からは、シャンプーかなにかだろうか、甘い香りがした。
これは、ゲームでは決して感じられなかったもの。
「愛してるよ、リリ」
思わずそう、リリの耳元で囁く。
現実の女たちは、みな、俺を否定して来た。
直視するのも苦痛なレベルのドブスですら、この俺を鼻で笑った。
だけど、リリは、
「もぉう、今日のお兄ちゃん、本当に変だよぉ……」
嫌がるでもなく、ちょっとだけ困ったようにそう言って、俺の腕の中でくすぐったそうに身をよじった。