雨が降ったから……
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≪ドアが閉まります≫
アナウンスが流れ、バスの扉が閉まる。
僕は閉まった扉を見つめていることに気付き、フッと笑みをこぼした。
まったく、何を考えているんだ。もう、キミがこのバスに乗ってくることはないというのに……。
停留所からゆっくり発車したバスに僕の身体が揺れた。
車窓の外では、空を覆いつくす厚い雲から雨が降っている。その雨は道路わきの木々を濡らし、車窓についた水滴が斜めに流れ落ちていた。
僕が初めてキミに話しかけたのは、こんな雨の日だったよね――。
三年前、高校生だった僕には気になる娘がいた。
その時はまだ名前も知らない娘。彼女は僕と同じ年で、恥ずかしがり屋の、笑顔がとても可愛い人だった――。
★
通学の朝、僕は同じ時間のバスに乗る。
外は雨。これで三日連続の雨だ。
僕はいつもの通り、乗り口のすぐ後ろにある一人掛けの椅子に座っている。二番目の停留所で乗り込む僕にとって、この席は僕専用の席といってもいい。
六番目の停留所に着くころにはバスのなかも混みあい始め、全ての席が埋まってしまう。その六番目の停留所から、ピンク色の傘を閉じた彼女はゆっくりと乗り込んでくる。そしていつもの定位置である僕の隣に立った。
「あ、あの、よかったらどうぞ……」
僕は一人掛けの椅子から立ち上がり、彼女に声をかけた。
普段の僕なら、絶対に声なんてかけないしかけられない。
それでも声をかけたのは、彼女がピンクの傘を持ちながら松葉杖をついていたからだった。
朝のバスは通学や通勤をする人たちで混みあっている。ふらふらと立っている彼女に心が痛み、勇気を出して席を譲ることにしたんだ。
彼女は驚いた顔をしたあと、顔を真っ赤にしてこう言った。
「え? いえ、だ、大丈夫です……」
……断られてしまった。
こうなると、気まずいのは立ち上がってしまった僕の方だ。
中年のサラリーマンが軽い咳払いをする。もしかしたら代わりに座りたいのかもしれないが、この人に譲るわけにはいかない。
「で、ですよね。だけど席を立っちゃったし、また座るのもカッコ悪いので……できれば、座ってくれるとありがたいんですけど……」
鼻の頭を掻く僕に、彼女は「あ……」と小さな声を出した。そして――
「すみません。あ、ありが――」
言葉が詰まり、顔をさらに赤くした彼女はペコリとお辞儀をしてその席に座ってくれた。
会話どころか顔さえ合わせられない僕は、車窓の流れる景色を眺めているだけ。彼女も気まずいのか、少しうつむきながら車窓の外を眺めていた。
バスが停留所に停まり、何人もの学生がバスの中を移動する。
僕もその中のひとりだ。
「あ、あの……」
三歩目で声をかけられた。
振り向くと、彼女が緊張した面持ちで僕を見ている。
「な、なんですか?」
そういう僕も緊張している。彼女に声をかけられたのは初めてだ。
「か……傘、忘れてますよ」
「傘? あ……」
彼女が指差しているのは小さなビニール傘。
手すりにかけておいた僕の傘だ。
「すみません。ありがとうございます」
「あ。私、取りますから――」
僕と彼女の声が重なり、次の瞬間また小さな声が重なる――。
「あ」
「あ」
同時に手を引っ込めた。
傘に伸ばした指が触れ合ったんだ。
動けない僕に代わり、彼女が傘を取ってくれる。
「あの……どうぞ……」
「ど、どうも……」
ビニール傘を受け取った僕は、逃げるようにバスから降りた。
バスの扉が閉まる音を背中で聞きながら、僕は傘をひらく。そして色とりどりの傘が躍る道に立ち、彼女を乗せたままのバスの後ろ姿を見送る。
彼女はこの先にある高校の生徒なんだ。学校は違うけれど、学年は制服のリボンの色でわかる。毎朝彼女と同じバスに乗るのが僕の密かな楽しみである。
けれども、僕が彼女について知っているのは自分と同じ年であるということだけだ。彼女の名前も知らなければ、昨日まで元気だった彼女がなぜ足に怪我をしたのかも知らない。
バスの中から、彼女は背中を向けたままの僕を見ていたのだろうか?
そうだったら……いいな――――なんて妄想をするだけで、口もとがにやけてしまう。何と言っても、今日は初めて彼女と会話をしてしまったのだ。嬉しすぎてまともな顔なんて出来やしない。
今日も良い一日を迎えられそうだ。と、普段はここで学校へ向かうのだが、今日の僕は後ろ姿が見えなくなるまでバスを見送っていた。
「足……大丈夫かな?」
彼女を心配する僕からこぼれたつぶやき。それは誰の耳にも届くことはなく、雑踏の中へ消えていった――。
次の日の朝も雨。
同じ時間、同じバスを待っていた彼女がピンクの傘を閉じてバスに乗り込んでくる。
そしていつもの定位置である僕の隣に立つ――その前に、僕は椅子から立ち上がった。松葉杖の彼女に席を譲るためだ。
「ど、どうじょ……」
……言葉を噛んでしまった。緊張というものは「どうぞ」という一言すらまともに言わせてくれないらしい。
驚きからキョトンへと表情を変化させた彼女は、噛んだ僕の言葉にニコリと微笑み、「ありがとうございます」と言って席に座ってくれた。
緊張と恥ずかしさと嬉しさと……いろんな感情が混ざり合う僕の心拍数が急上昇する。これをきっかけにして彼女と話をしてみたいと思っていたのだが……。
結局、僕は火照った顔を隠すように彼女から視線をそらし、彼女の定位置である場所に立っているのが精一杯だった――。
――次の日、また次の日も、僕は彼女に席を譲り続けた。
彼女も恥ずかしがり屋なのだろう。その時に会話はなく、お互いにはにかんだ笑顔で会釈をするだけ。それでも、僕の心は十分に満たされた。
それから数週間が経ち、松葉杖がとれている彼女は少しぎこちないながらも普通に歩けるようになっていた。
そして――その日の朝。その日も雨が降っていた。
彼女はピンクの傘を閉じてバスに乗り込み、いつも通り僕と席を代わる――。
「あ、あの……」
僕が降りる停留所が見えた時、突然彼女から話しかけられた。
「あの、い、今までありがとうございました」
彼女は、今では彼女の指定席となっている座席でちょこんと頭を下げる。
「いや、あの……ど、どういたしまして……」
つり革から手を離した僕は丁寧なお辞儀を返す。
「私、このバスに乗るの、今日が最後なんです……」
「――え?」
「実は、親の転勤に伴って引越しをすることになって……。あの時、席を譲ってくれたお礼もちゃんと言ってなかったし――だから、あの……あ、ありがとうございました」
彼女の少し哀し気な笑顔に、僕はどんな顔を返しているのかわからない。けれども、きっとこの世の終わりが来たような顔をしているに違いない。
バスが停車した。
学生の波に流されて、僕はバスを降りる。
この日、僕は初めて車窓ごしに彼女を見た。
彼女は車窓に手をつき、何か言いたげな顔をしている。
そんな彼女に、僕は精一杯の微笑みで片手を上げる。すると彼女も微笑み、小さく手を振り返してくれた。
バスの扉が閉まり、ゆっくりと発車する。
僕は傘をさすのも忘れ、彼女を乗せたままのバスを見えなくなるまで見送っていた――。
当然だが、その日を最後に彼女がバスに乗ってくることはなかった。
彼女の定位置だった場所には中年のサラリーマンが立ち、席を譲れとばかりに咳払いをしてくる。だから、僕は通学のバスを一本遅らせた。そのバスは最初の停留所で席が埋まってしまうため、僕はつり革に掴まる毎日となったが、彼女と会えないバスに未練などない。
名前も知らない彼女。知っているのは少し恥ずかしがり屋で笑顔が可愛い娘だということだけだった――。
★
≪ドアが開きます、ご注意ください≫
バスの扉が開く。
そこは僕が通っていた学校や、彼女が通っていた学校を通り過ぎたところにある大学前の停留所。
定期券を見せてバスを降りた僕は、小雨のなかビニールの傘を開く。
「おはよ。昨日まで天気だったのに、今日からしばらく雨なんだって。嫌になっちゃうよね」
停留所で僕を待っていたのは、大学に入ってからできた恋人だ。
傘を傾けた彼女は曇り空に口をとがらせている。
「そっか。久しぶりに雨が降ったからか……」
雨が三年前の記憶を呼び起こしたのだとわかり、僕は雨降る空に微笑んだ。
「なに? なにがおかしいの?」
恋人である彼女が僕を見上げてくる。
「なんでもないよ。前にバスの中でよく見かけた娘を思い出しただけ」
「な~んだ――って、ちょっと、その娘だれ?」
彼女が目を細める。
「名前も知らなかった娘だよ」
僕は大学に向かって歩き出した。彼女もピンクの傘を揺らして横に並んでくる。
「どんな娘だったの?」
「う~んとね……可愛い娘だった」
微笑む僕に、彼女は軽い体当たりをしてくる。
少し怒っているような拗ねているような……。
そんなふくれ顔が可愛いから――。
その娘が大学で再会する前の、まだ高校生だった時のキミだということは――もう少し内緒にしておこう――――。
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読んでくださり、ありがとうございました。