政略結婚した夫が浮気しているようだから離婚したいんですけど
「今日、貴方の服を洗濯していたら、袖の部分がほつれていました。こんなことにも気付かなかった私は貴方の嫁として失格です。離婚してください」
「却下」
今日も今日とて私の魂の訴えは、彼の短い一言で容赦なく切り捨てられた。
……良い理由だと思ったのに、何故かしら?
☆
私、ナナミ・ランフォードは25歳、既婚者だ。
結婚歴は二ヶ月。新婚さんで、今一番幸せな時ですねーなんて言われるんだけど……うーん、そうでもないかな。
夫との出会いは? と問われれば、いわゆる「政略結婚」ですね、と返すしかない。まあ、結婚に至るまで、紆余曲折あったんだけど、尺の都合で割愛します。
なお、夫は今をときめく都人で、王都勤めの役人だ。私と同じ年で王様の覚えもめでたく、見目もよろしい出世頭。結婚相手なんて引く手あまただろうに、正直、なぜ田舎貴族の娘である私との政略結婚を承諾したのか、全くもって意味不明。
ただ、ちょっと「こうじゃないかな」と思うことはある。
つまり、私みたいな田舎娘は、あまり周りがうるさくなくて都合が良いってことだ。
例えばどこぞの立派な貴族のお嬢さんが嫁だったりすると、相手の親の目が光っているから、うかうか夜遊びや浮気なんてできないでしょう?
ちなみに、私が結婚二ヶ月目にして何度も離婚を切り出している理由も、そこにある。
地位ある人と結婚した私は、たとえ出自が田舎貴族の娘であっても、妻の勤めとして、どこぞの奥方様たちとのお付き合いも必要で。
来客対応として談笑していると、彼女たちは聞いてもいないのに、こんなことを告げてくる。
「貴女の夫は素敵な方だから、結婚した今も、社交界のお嬢様方の憧れの的ですのよ」
「昨夜も、とても美しいお嬢様を連れられていたようよ」
そうですか。
まあ、上流階級の人間なんて、浮気というか愛人を持つなんて、当たり前の世界だ。ましてや私たちは、ただの政略結婚という契約で結ばれた関係で、彼が女遊びをしようが何しようが、嫉妬するまでの間柄ではない。
だけれど、やっぱりしみじみ思う。
私たちは、釣り合っていないって。
そもそも女遊びをするのだって、私という嫁に満足していないって事でしょう?
私も彼も、お互いに愛情があるわけでもないのに拘束するのって、可哀想だと思うんだ。
でも、世間体でも気になるのか、先ほどのとおり、離婚を持ちかけても夫はなかなか首を縦に振ってくれなくて、今日に至る。困ったな。
「はあ、離婚したい……」
溜め息をつきながら、窓の外を見やる。西に傾きつつある太陽を見て、私は不意に空腹を覚える。
そろそろ夕食の支度をしなくては。
そう考えた私は、今日の夕食の献立を考えるために屋敷を出た。
☆
私と夫の新居は、王都から少し離れた郊外にある。都会の喧噪から離れた緑豊かな場所で、都会に比べて不便ですねーなんて言われるけれど、私はなかなか、ここを気に入っている。
市場までの道は川に沿っているので、私は土手に降りて歩いて行く。なお、私も一応貴族の嫁なので一人でお出かけはできなくて、少し離れたところに護衛がちゃんと着いてきている。
いつもその人は、
「私のことはいない者として扱ってください」
きりっとした顔でそう言うけれど、視界の端にちらちら入ってきて、いない者として扱うのには無理がある。でも、そう言うとすごく落ちこむので、ちゃんと気付かないふりをしなければならないのだ。
私は再び川面に目を向ける。澄み切った流れの川には鮎が踊っている。そして私はもう一度考えた。
(ごはん、何にしようかな)
夫は今日、社交界のお付き合いとやらで、一晩留守だ。その夜は、きっと綺麗なお嬢さんと一晩過ごすのだろう。まあ、いいけど。
ちなみに夫が家にいる時は、私は食事を作らず、コックさんにお任せする。やっぱりコックさんはここで雇われている人で、それがお仕事だから、その役割を私が取ってはいけないのかなって思う。
繊細で美しい料理の数々は、勿論とっても美味しい。けれど、ずっとフルコースだと胃が辛くて、時折素朴なものが食べたくなるのは、田舎暮らしが長い体がそれを求めているからであって、いかんともしがたい。
だから、一人の時はたまに自分で夕食を作ることにしている。
ただ、コックさんって複数いるらしくて、すごく私の好みのど真ん中を貫くような料理を出してくれる人がいて、一度会って話がしてみたいという野望がある。
(この間のキャロットのケーキ、美味しかったな)
改めて思い出しながら、川に視線を送る。
ぴしゃん、と水面を打って元気よく飛び跳ねる鮎の姿は、鱗が太陽の光をきらきらと反射して、まるで絵画のように、とても綺麗。
うん、そうだ。
「今日は鮎にしよう」
思い立ち、私は腰に帯びたレイピアを右手に持つ。
田舎暮らしで鍛えた脚力をバネに土手を一気に駆け下りながら、その勢いのままにレイピアを鮎めがけ、銛のように力一杯投げようとして。
「……あ」
ぬるり、と滑る岩に足を取られた。
滑った足は前に、頭は後ろに。とても素直に重力に従った私の頭の向かう先には、私が足を滑らせた岩がある。
そして。
ごんっと後頭部に鈍い衝撃。目にちかちかと白い星が回って息が詰まる。
(ああ)
このまま死んだら「川面に踊る鮎を捕るためにレイピアを銛代わりに投げようとして、ひっくり返って頭を打った貴族の嫁」として巷に名を轟かせてしまうのだろうか。
(嫌すぎる)
最期にそう思ったけれど、薄れ行く意識は自分ではどうしようもなく、私はそのまま気を失ってしまった。
☆
……何だか、とっても香ばしい匂いがする。
例えば良質の脂が乗った鮎を炭火であぶって、丁度良い感じに焼けた時の香りだ。そして脳裏に浮かぶのは。
「あ、鮎……!」
とても大事な単語を叫びながら私は飛び起きた。そして辺りを見回し目を瞬かせる。強かに頭を打ったけれど思考は冷静だった。つまり、ここは自分たち夫婦の部屋で、川縁から運び込まれたということだろう。
その証拠に。
「起きて一言目が、それか」
半眼でこちらを見やる黒い髪と青い目をした青年は、二ヶ月を経てようやく見慣れてきた私の夫だった。
「どうして、ここにいるの?」
どうしても外せない社交界のお付き合いとやらがあったと聞いていたので、それは純粋な疑問だった。けれど、相手は嫌味とでも感じたのだろうか、
「いちゃ悪いのか」
と不機嫌に応じる。
「いえ、貴方の家ですけど」
ここは私たち夫婦の新居だけれど、所有者は夫なので、私がどうこう言う筋合いはない。ただ、確かに私はすっ転んで気を失ったけれど、近くにいた護衛が飛んできて容態は大したことがないと、しっかり判断しただろう。つまり私は別に、重体だったわけでもないのだから、わざわざ大事な用を切り上げて帰ってくることもないような。
そんな疑問を感じながら首を傾げていると、
「ちなみに」
と夫が続けた。まだ何かあるのか、と相手の言葉を待っていたけれど。
「鮎は俺が美味しく戴きました」
「……!」
なんてことだ、あんなに美味しそうで、楽しみにしていたのに。
あの鮎をもう永遠に食することができないと思うと突如として空腹を感じてお腹を押さえる。すると夫は呆れたような溜め息をついて、サイドボードに置いてある木の椀を取り上げ、その中身を匙ですくって、私の口元に持ってきた。
私はためらいなくそれをぱくっと口にすると、シンプルで奥が深い粥の素朴な甘さが口の中に広がる。
ああ、これでお腹は満たされた。けれど、どこか心は満たされない。
「……私の、鮎……」
しつこく嘆くけど、今度は夫に無視された。いや、むしろ睨まれた。……仕方ないよね。だって私たち、愛のない夫婦なんだから。
「というか、レイピアを銛代わりに使うの、やめろ」
咎められて、私は更にしょんぼりと落ち込む。だって。
「レイピアないと、鮎、捕れない……」
「釣れ」
即突っ込まれて、ぺしっと額を叩かれる。
「釣り竿を買ってきてやるから」
だから今日は大人しく寝てろ、と夫が私の額をぐいぐい押すので、私の頭は再び枕に沈み込む。ふわふわ柔らかな枕は温かくて気持ちが良いけれど。
「あ」
ひとつ良いことを思いついてしまった。
「今度は何だ」
夫がすごく嫌そうな顔で私を見る。だけど、こんなのいつものことだから、めげることはない。
「楽しみにしていた新鮮な鮎を夫に食べられて傷心なので、離婚してください」
「却下だ」
☆
ランフォード家は今日も今日とて離婚協議の真っ最中だが、家庭円満、平和である。……多分。
END