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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私と貴女

作者:

卒業式のことをふと思い出して書き始めた作品。

年が明けてもう一ヶ月が過ぎた。

この時期になるとグラウンドが寂しく校舎全体も静かに感じられる。

私がいるこの三年生の教室も二週間前の始業式の日から静まり返ったままだ。

職員室ではクラス担任の先生をはじめ学年担任の先生達が疲れ顔で事務に明け暮れている。

何となくそこにいるのが嫌でこうして副担任を勤めているクラスの教室に来て、

自分の分け与えられた仕事を取り組んでいるわけで。


「お、先生じゃん。一人でなにやってんの?」


静寂は一瞬で崩れ去った。一人の生徒の来訪で。


「仕事。笹峯さんはどうしたの」


「あたし?んー、暇だからなんとなく来ちゃった感じ。まさか先生がいるとは思わなかったけどねー」


開けた扉をそのままに入ってきて私の近くに来て、

私の座っている席の前の机と椅子を動かして机をひっつける。

そして向かい合うようにして彼女は席に着いた。


「私達もうすぐ卒業だねっ」


「貴女達はね。私の場合は退職だけど」


「似たようなもんじゃーん、一緒にここを出るんだからさー」


「生徒と教師を同一化しないで」


「はーっ、先生は言葉も考え方も堅苦しいなぁ、そんなんじゃ結婚できないよ?」


「余計なお世話ね」


「心配なーのー」


「あなたは私にとってただの生徒、あなたにとっても私はただの教師でしょう。

好奇心を心配なんて言葉に置き換えないで」


「わぁお...真面目だ、カタブツだ」


目の前にいる彼女――笹峯さんは、何故かいつも私に話しかけてきていた。

職員室で昼食を摂っているときや校内の見回りをするとき、短い休み時間にも何度も話しかけてはにこにこしていた。

彼女は別にクラスで孤立しているとか友人がいないわけではないのに。

それに話す内容も授業で分からないところがあるとかじゃなく、

私生活についてだったり世間のニュースや流行りだとかの話だったりと、ようは雑談というものばかり。


私はニュースはよく見るがその他の話に関しては一切の興味がない。

休日に何をするかなんて聞かれても、勉強をしなきゃいけないからほかに何かをする余裕なんてない。


だから大抵話を聞き流して適当にあしらっていたのだけれど、

何故か彼女はいつまでも私に話しかけ続けた。楽しいはずないのに、楽しそうなふりをして。


「そういや先生って今いくつだっけ?」


「二十七」


「へぇー、二十代後半なんだー。そろそろ結婚したいとかは思わないの?」


「思わないわ」


「ほんとにー?だってあと三年もしたら三十だよ?」


「そうね」


「まー焦って結婚しても失敗したら意味ないし?二十代のうちに絶対結婚したほうがいいってわけじゃないけどさー。

そういうの意識したり、ないの?」


「貴女は私の両親と同じ事を言うのね」


「あーやっぱりぃ?きっと心配なんだよー、先生のこと」


「...両親はともかく、貴女に心配されるいわれはないわね」


「そんなことないよ、私先生のこと好きだし?」


「はい?」


「だーかーらー、先生のこと、好きだって言ってるの」


「訳がわからないわ」


「むぅ...、私、初めに先生と会った時から先生のことずーっと好きだったの。

だから毎日先生見かけたら声掛けにいったりお昼一緒に食べようって誘ったりしてたんだよ?

それなのに全然気づいてくれないんだもん私寂しいよー」


「生徒と教師は友達にはなれないのよ、前に一度言ったでしょう」


「友達になりたいんじゃないんだけどなぁー」


相変わらず何が言いたいのか分からない。それに、考えるだけ無駄だ。

だから彼女の言うことは適度に聞き流しておけばいい。真面目に受け取っても疲れるだけだ。


「先生は好きになった人とかいる?」


「ないと思うわ」


少なくとも、貴女が思うような「好きになる」は。


「だろうなー、先生って感情表に出なさすぎだもん」


「そうかもしれないわね」


「自覚はあるの?」


「さあ、気にしたことはないわ」


「むぅー」


感情なんかに振り回されるのは何だか嫌だ。

今を生きるのに精一杯な私には感情なんてきっと邪魔な存在でしかない。


「...私は職員室に戻るわ。笹峯さんは机を戻してから帰りなさい」


「えぇー!もっと先生とお話したいー」


「私は暇じゃないの、それに貴女だって暇なはず無いでしょう」


「むぅ...バレてる」


「鍵は開けたままでいいから、扉だけ閉めておいて」


「はぁ~ぃ」


気が抜けたような返事を後にし、廊下に出た私は寒さに少し身を震わせる。

職員室に戻る頃にはもう私は笹峯さんのことも、話したことも忘れていた。


 ◇


今日は卒業式。といってもまだ受験が終わっていない生徒も多いから、あまり浮かれた雰囲気はない。

私は式中はクラス担任の先生の側に立っているだけで、特にすることもない。

クラスの副担任で世界史担当の教師の一人である私は、生徒達にとってそれは存在感のない人間に思うだろう。

理系専攻の生徒からすればきっと私を知らないなんてことも珍しくない。

私はここにいないも同然だった。


式が終わって生徒達がそれぞれの教室に戻っていく。

このあと担任の先生が祝いの言葉を言って終わり。

副担任がすることもないので、私はそのまま職員室に戻って残った仕事を片付ける。

もうすぐ私はここからいなくなるわけだから、可能な限りここにいた痕跡を消しておきたい。

ほかの先生方の記憶にはほとんど残っていないはずだから。


職員室にいるのは事務員の方が一人と私と同じく副担任の先生がちらほら。

皆片付けや掃除、単にくつろいでいるだけだったりと卒業式の余韻に浸っているように見える。

きっと私には理解できない気持ちだろう。


 ◇


やる事を終え、近くにいた先生方に挨拶をしてから私はいつもより早く帰路に着いていた。

学校周辺にはまだ制服を着た三年生たちがちらほら見受けられたが、数分ほど歩くと全く見なくなった。

風が少し強い。空は鉛色の雲に覆われて陰鬱な表情をしている。

空に感情なんてないのにね。


「せーんせっ!」


「きゃっ」


「にひひー、見つけちゃったさね」


「...笹峯さん」


「式の途中ずっと先生のこと見てたのに、気付いてくれないんだもん。寂しかったー」


「知らないわ」


「教室戻った時も先生だけ来ないんだもん、寂しいよー。

一緒に写真も撮りたかったのにー」


「知らないわよ。...腰に回してる腕、解いて」


「えぇー、もっとくっついてたい」


「邪魔なの、歩けないわ」


「とか言っちゃってさー、ホントは嬉しいくせにー」


「...」


「わぁぁっと!ちょ、ちょっと急に歩かないで!転ける、転けちゃう!」


「知らないわ」


「止まって止まって!先生も倒れちゃうから」


「貴女が腕を離せばいいことでしょう」


「うぅー、分かったよー離すよー」


背中に引っ付いていた笹峯さんを引き摺るように歩いたら、ようやく腕を解いてくれた。

体が軽い錯覚を覚える。


「ねー先生、どっかお店寄ってこうよ」


「生徒と教師は友達にはなれないのよ。前にも言ったでしょう」


「じゃあ生徒と教師の関係でお店に入ろうよ、それならいいでしょ?」


「さようなら」


「ちょ、ちょ、ちょっと待って待って!もうあたし卒業したし!もう生徒じゃないから」


「卒業おめでとう。それじゃあね」


「もぉー!先生ったらー!」


卒業式を迎えても書類上三月いっぱいまで彼女達は高校生のままだ。

教師と生徒が外で会っている、お茶しているなんてあってはならないことだ。

もう、彼女と会うこともないだろう。

しばらく後ろで喚いていたが、振り向かないで歩いていると、いつしか聞こえなくなっていった。


 ◇


退職の手続きが終わり、他の先生と関わらないようにしてきたおかげか、

特に何かがあるなんてこともなく、すんなりと四年勤務した学校を出ることになった。

引越しの準備も整っているから明日にでも実家に帰るつもりだ。


振り返って校舎をみても感慨深さや寂しさは全く感じられない。

当たり前だけど、靴箱のプレートを剥がす時ですら何も思わなかったのだから、

もしかすると明日になれば今まで勤務していたことも忘れてしまえるかも知れない。

きっと私は初めから此処にはいなかったんだ――


「せーんせっ」


少しぼんやりとして信号待ちをしていると、向こう側から聴き慣れた声が聞こえてきた。

視線をやると誰かが右手を大きく振りながら私の方向を見て声を出している。


「笹峯さん...」


信号が変わって青になると小走りで彼女が近づいて来る。

私も歩いて距離が縮まっていく。


「会いたかったー、会えてよかったー」


そしてそのまま彼女は私の正面から抱きついてきた。

両腕を腰の後ろまで回して掴まれている。


「...離れて、歩けないわ」


「ふふーっ、この間は後ろからだったから逃げられちゃったけど、これなら逃げられないでしょ?」


「信号が変わるわ、早く渡らないと」


「やーだー、このあと一緒にお店はいるって約束してくれなきゃ離さないー」


「あぁもう、分かったから、離して」


「ほんとに?約束してくれる?」


「するから。ほら、信号変わっちゃう、車の迷惑になるでしょう」


「やったー!先生とデートだぁ」


なし崩しにこの後彼女に付き合うことを決められてしまった。

生徒と教師は...と言いかけたけれど、私はもう教師じゃなくなったんだと思ったから、やめた。

書類上だとかなんとか言って適当にあしらえば良かったはずなのに。


「ねぇねぇ、先生は何か食べたいものある?」


「ないわ。貴女に付いて行くから」


「うわー超うれしい。あの先生が一緒に付いて来てくれるなんて」


「わけわからないこと言ってないで、行きたい場所があるんじゃないの」


「先生が一緒ならどこでもー」


「...じゃああそこにしましょうか」


ふと辺りを見回して目に留まった店を指差す。


「お寿司屋さんかー、回らないお寿司って高そうなイメージだけど...お金足りるかな」


「どこでもいいんでしょう。それにお金なら私が払うわ」


「いいのっ?!やったー!先生の奢りー!」


「...先に銀行に寄ってからでいいかしら」


「うんうんっ、今の私はなんでもオッケーしちゃう!超ちょろいよ!」


「わけがわからないわ」


 ◇


「ふぇー、じゃあ先生もう先生じゃないんだー」


「そういうことになるわね」


「じゃあこれから先生は何するの?」


「両親の経営してる民宿を手伝うことになっているわ」


「えっ先生の家って民宿なんだー、知らなかったー」


「話していなかったからね」


「ねえ、今度遊びに行ってもいい?」


「冷やかしならやめてちょうだい」


「違うよ、ちゃんとお客として遊びに行くよー」


「ならいいけど」


私が高校を出て大学生になる前まではよく手伝わされていた。

布団の用意をしたりお風呂の掃除をしたり、ホテルか何かと勘違いしてる客の我が儘を聞いたり。

だけど今回の手伝いはそういったことだけじゃなく、経営の手伝いも含まれているのだろう。

それが両親への親孝行になるのだろうか。


「あーあ、あたしも再来週には大学生かー、やだなー」


「笹峯さんは県内の大学だったわね」


「覚えててくれたんだー。嬉しいなー」


「あれだけ何度も言われたらね」


十一月末あたりに推薦で合格が決まった時、一日中付きまとわれて合格した大学の話をさせられた。

受かって嬉しかったのだろうけど、その後何日かずっと同じ話をされ続けていたから、

聞き流すのも限界で覚えてしまっただけだ。

他の生徒たちの進路なんて正直覚えていない。


「いやー、だってあの時担任の笠松も学担の山口も無理だ無理だ言ってたのに、

先生だけいけるんじゃないって言ってくれたんだよ。だから合格できたんだよきっと。あ、ヒラメとタコくださーい」


「そんなこと言ったかしら」


「うんうん言ってたよー、でね、あたしが合格してからあいつら掌返したように

『笹峯はさすがだな』とか『いやー受かると信じてたよ』なんて言いやがってさー、

適当抜かしてんなって感じ」


「その場ではそう言うしかなかったんでしょう」


「内心そんなこと微塵も思ってないくせにさー。

先生だけだよ、純粋におめでとうって言ってくれた人」


「そうだったの」


「みんなすごーいとかいいなーとか上辺だけ言って、

推薦は楽でいいなとか自分たちはまだ受験終わってないんだから黙ってろとか言ってるんだよ」


「みんな余裕がなかったからでしょう」


「かんけーないよ。だから先生が言ってくれたことが嬉しくて舞い上がっちゃった」


「それで何で大学生が嫌なの」


「えー、だって大学行ったらもう先生と会えなくなるじゃん。寂しいよー」


「そう思うのは今だけよ。いずれ時間が経てば私のことも忘れるわ」


「うーん...そうだ!写真撮ろうよ!」


「店の中で大きな声を出さないで」


「あっごめんなさい...。ねえ、一緒に写真撮ろうよ、そうすれば忘れないでしょ?」


「カメラなんてないでしょう」


「スマホあるし、誰かに手伝ってもらわなくたって撮れるし」


「...いいわ、分かったから、大きな声出さないで」


「やったっ」


それ以降彼女はおとなしく頼んだお寿司をもくもくと食べていた。

総額一万八千七百円。とても高校生には払わせられない金額ね。

笹峯さんは少し申し訳なさそうな顔をしていたけれど、当然全額私の支払いで済ませた。


 ◇


「できれば学校の何処かで撮りたいけど、流石に入り辛いかなー」


「別にいいでしょう、ちゃんと受付で頼めば入れるわ」


「でもー、先生さっきここお別れしたばっかでしょ?なんか、他の先生とすれ違ったりとかしちゃったら気まずくない?」


「誰も私のことなんて覚えてないわ。さっさと入って撮ればいいでしょう」


なぜか居心地悪そうにそわそわしている笹峯さんを無視して受付の人に許可証と教室のスペアキーを借りる。

来賓用のスリッパに履き替えて二人で少し前まで自分たちのクラスだった教室に入ることにした。


「はぁーっ、誰もいないねー」


「そうね、今はもう春休みだから、いるのは部活に来てる生徒くらいでしょうね」


「...」


「ほら、さっさと済ませてしまいましょう」


「...ねえ、先生。聞きたいことがあるんだけどさ...」


「改まって、どうしたの」


「先生はさ、あたしのこと...どう、思ってる?」


「どうって、別に何もないわよ」


「ホントに?今までずーっと付きまとわれて、話しかけられて、一緒にお寿司も食べたあたしに?

何にも思わない?ホントに?」


「それは...よくわからないわ」


突然窓の向こうを見たまま笹峯さんが口早に話し始める。

いつもと違う雰囲気と声に戸惑いを覚える。

私が答えると俯き、そして急に振り向き私に詰め寄ってくる。顔はまだ俯いたままだ。


「あたしは、先生の気持ちが知りたい。ねぇ、あたしは先生の中にちゃんといるのかな、

先生は今ちゃんとあたしのことを見てくれているのかな」


「笹峯さん...?」


「先生はあたしをただの一生徒として見てるのかな」


頭を私の胸に押し当ててくる。


「あたしは先生と居るときどんな顔をしていたのかな」


「先生はあたしがいないときにあたしのことを考えてくれたことあったのかな」


さらに強く押し当ててきて少しよろめきそうになって右足を少し後ろに下げて体を支える。


「あたしは先生にとってちゃんと「笹峯由佳」として思ってもらえているのかな?」


「...貴女は」


「あたし、先生の側にちゃんといたのかなぁぁ...っ!」


そこまで言い切って笹峯さんは突然崩れ落ちた。

顔を両手で覆って、何度も嗚咽が漏れてくる。体を震わせて、背を丸めて。

飽和した感情が堰を切ったかのように。

体と心がバラバラになってしまったかのように、不安定な姿をしているように見える。


膝を外側に折って泣き崩れる彼女の前に私はしゃがみこんで、

両手で彼女の頭を胸に抱えた。それに気づいて彼女も顔を覆っていた手を私の背中に回す。

絶対に離さないと言わんばかりに強く抱きしめられ、私は彼女の髪をそっと撫でる。

シャツの胸元が濡れていくのが分かったが、構わなかった。

そうしたいと思ったわけじゃない。催促されたわけでもない。

気付いたら体が動いていた。




やがて彼女の嗚咽が少しずつ治まってくる。

体の緊張も解けてきていた。それでも私はまだ彼女の髪を撫で続けていた。


「...ねぇ、先生」


「なに?」


「ごめんね...迷惑、かけちゃってる」


「私は迷惑と思ってないわ」


「...うん、ありがと...」


「誰かにこんなことしたの、生まれて初めて」


「ふふ...あたしも、誰かにこんなに甘えてるの、生まれて初めて...」


「誰かに甘えたことくらいあるでしょう」


「ううん、先生が初めて、ってことにする...」


「そう」


「...ねぇ、先生」


「なに?」


「写真...撮りたいな...」


「そのためにここに来たんでしょう」


「...そうだった」


ようやく泣き止んだ彼女は背中に回していた腕を解いて私から離れ、立ち上がる。

私も一緒に立ち上がって彼女の顔を見ると、目元が腫れて涙の跡がついたひどい顔をしていた。


「ふふっ...あたし今、ひどい顔してるよね?」


「ええ、本当にひどい顔」


「はっきり言われちゃったぁ...でもそんな先生が好き」


「そう」


「ね、先生は?あたしのこと好き?」


「さあ、わからないわ。...だけど、もしかしたら、好き、なのかもしれないわね」


「じゃあ両思いだー、嬉しいなー。えへへ」


「ふふっ、そうね」


「あっ!先生今笑った!やった!やっと笑ってくれた!」


言われてふと気が付いた。確かに今自分が笑った気がした。

笑うなんてずっと忘れてたのに。目の前の彼女に。


「じゃあ今撮ろう!先生が笑ってるうちに!あたし顔ひどいけど、もう気にしない!」


「いいの?直さないと...」


「いいのっ!じゃあ撮るよ!笑って笑って!」


彼女はギュッと体を寄せて私の顔を自分に近づけさせると、手早くスマートフォンを操作して撮影態勢に入った。

なんだろうか、後にも先にもこんなにはしゃいでいる自分はいないだろうと思った。


「ねえ、笹峯さん」


彼女が器用に指でボタンを押す。


「なに?」


「...ありがとう」


瞬間、シャッターの音が教室に響いた。


 ◇


あれからもう四年が過ぎたと思うと時の流れはあっという間に感じられる。

彼女はあれから大学に通って、もう今年の春から社会人だろうか。


私はあの日の翌日に荷物を実家に送り、新幹線で実家に帰ることにした。

笹峯さんがわざわざ駅まで見送りに来てくれて嬉しかったのを覚えている。

そう、嬉しい。

その気持ちを思い出させてくれたのも彼女だった。


そして両親の経営する民宿でしばらく手伝いをしていたが、結局経営難で廃業し、

今はある温泉旅館で働いている。料理を用意したり、布団を敷いたり、部屋やお風呂の掃除をしたり、

客の我が儘に振り回されたり。民宿でしていた手伝いの延長線みたいなものだ。


あれ以来彼女とは一度も会っていない。

客として泊まりに来ると言っていたので民宿の住所は教えたけれど、結局来ることはなかった。

もう、彼女は私のことなど忘れてしまったのだろうか。

あの日撮った写真は、もう彼女のスマートフォンから消されてしまっているのだろうか。

もしそうだとしても構わない。

たとえ彼女が私を覚えていなくても、私は彼女を覚えているのだから。



家に帰ると珍しく父が花に水やりをしていた。


「美嘉、お前宛てに何か届いていたよ」


「郵便?分かった」


「部屋に置いといたからね」


「ありがと」


自室に戻ると私の机の上に茶色い封筒が置いてあった。

差出人は...「笹峯由佳」。

その名前を見て私の胸が熱くなっていくのが分かった。ペーパーナイフで封を破り、中身を確認する。


中には、一枚の写真が入っていた。

あの日の教室で目を赤く腫らした彼女と、微笑む私。



私と貴女が、此処にいた証。


感想等あればいただけると嬉しいです

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― 新着の感想 ―
[良い点] ほんわかな絡みと女の子の不安定な部分とが上手くマッチして、いい百合だ…と思えました。欠けた部分を埋めてくれる恋、良い…。 [一言] お寿司の会計のとこで、笹峯ちゃんの名前誤字ってます。
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