9 二日前――ホラティウスはかく語りき1
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さてひとくちにドイツと言っても広いので、僕たちの正確な目的地を述べよう。ラインラント=プファルツ州はアイフェル地方、ニュルブルクである。
カーレース・ファンにとっては聖地とも言える土地だが、まさかアレをぶっ壊して更地にしたりしてないだろうな、などという余計な心配をして早三日。
僕たちは、何故か台湾にいた。
誰だ、一路なんて言ったヤツは。
あの日、僕たちを乗せて日本を発ったジャンボジェットは、何時間もしないうちに何らかの機体トラブルが発生して北京へ臨時着陸した。そこからの直通便の席はないとのことでバンコクを経てデリーへ。この時点で既に二回の乗り継ぎである。
チケットは一連なので追加料金などはないし、あったとしても今さら金なんかどうでも良い。けれど時間のロスは痛いねと話していたら、さんざん待たされたあげくドイツへはおろかヨーロッパ方面への席はもうない、台北からならまだあるかも知れない、さらに有り体に言えばそこから先はもう面倒みれない、などと説明されて現在にいたる。
いや、航空会社に文句を言うつもりはない。ただでさえ深刻な人手不足に加え、救世主DAISUKEの坐す土地――ということで、馬鹿馬鹿しくもこれまでとは違う意味の聖地となったニュルブルクへ、物好きな人々が大量に流れ込みつつあるからだ。
とっくに職場放棄、あるいは全面撤退していてもおかしくないこの時期に、まだ営業してくれているだけでも感謝せねばなるまい。
そういうわけで昨日の夜に台北の空港に到着した僕たちは、そこから車で十五分ほどのホテルに部屋をとり、翌朝カウンターが開くと同時に飛び込んで、ようやくとれたのが――。
午後の最終便、それもイギリス、ヒースロー行きだった。
詰んだ。
ヒースローからの移動を考えると、どう考えてもその日その時までに到着できるとは思えない。正攻法での到着はもはや不可能だ。
救世主の身内ということでフルーベ卿に連絡をとって迎えに来て貰えないかとも思ったが、よく考えたら彼らの連絡先を何も聞いていないし、大輔のスマートフォンも国際電話ができない。
そこでホテルに戻って「救世主と生きる会」のホームページにアクセスしてみたが、連絡先などは一切記載されておらず、それどころか例の特設会場に来てください、などという宣伝も全くしていなかった。どうやら来るなら勝手に来い、というスタンスらしい。
とはいえ他に手段がない以上、それじゃしょうがないねと諦めるわけにもいかず、ノートパソコン相手に悪戦苦闘しているタカちゃんと竜也をぼーっと眺めていると――。
「お前らは買い出しでもしてこい」
カオリごと追い出されてしまった。
市場はホテルから五百メートルも離れていないので、ぷらぷらと徒歩で向かう。ちなみに台湾の食べ物が、評判に偽りなく本当に安くて美味しい、というのは昨夜のうちに夜市で確認済みだ。
それにしても市場はもうじき人類が滅亡するとは思えない活況を呈している。
もちろん、全ての人が例の隕石のために右往左往しているわけではない。世界には主に宗教的な理由で「隕石落下などありえない」「落ちてきたとしても自分たち(だけ)には影響がない」と信じている層もかなりの数が存在する。
しかしここの人々はそれとも違うように感じる。また、僕たちをここまで運んでくれた航空会社のように、最期まで職務を全うするのだ、という悲壮感があるわけでもない。
なんというか、安定しているのだ。大輔と同じで通常運転なのである。
それは、じたばたしても始まらないなら、今を大切に、ただひたむきに生活するだけだ――とでも言っているかのようで、この終末世界の生き方の、一つの完成された最終形態のように思えた。
「イサム。昨日の牡蠣のオムレツみたいなやつ、また買おうよ。あれ、美味しかったあ」
「こら、くっつくなよ」
絡めてきた腕を軽く振り払うと、カオリが口を尖らせた。
「なによ、けち。いつになったら落ちるのよ」
なんちゅう文句のつけ方だ。
「その気はないって毎日言ってるだろうに」
「またまたあ。けっこーほだされてきてるくせに」
否定はしない。が、それを口にもしない。
僕はかわりに別のことを言った。
「再会してからこっち、お前はずっとお前のままだなあ」
こいつも大輔やこの街と同じ、通常運転だ。いや、そう言うならタカちゃんや竜也だってそうだ。隕石落下から目を逸らしているわけでもなく、焦って生き急いでいるわけでもない。達観……とも少し違う気がする。
「どうしてそんなに普通でいられるんだ?」
状況に振り回されて、対応することも馴染むこともできないでいるのは僕だけだ。もし、タカちゃんや竜也、それに口惜しいが馬鹿大輔がいてくれなかったら、たぶん僕は繭美の件だけで潰れてしまっていただろう。
間黒センセイは僕が変わっていなくて安心しましたと言ってくれたが、それは間違いなくみんなのお陰だし、今はこいつにもずいぶん助けられている。
カオリが小首をかしげた。
「普通ねえ。ま、普通かな。これが普通になったんだよ」
「なった、ってことは今までは違ったのか?」
「うん。あの街に帰るまでは、毎日うじうじしてたよ。怒って、焦って、絶望してさ。でも先生の道場でイサムと再会して、考え方が変わったの。ずっと悩んでたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい」
「僕と再会して?」
何か転換を促すようなことをこいつに言ったっけ、とあのときのことを思い出そうとしていると、カオリが悪戯っぽく笑った。
「残念ながらイサムのお陰ってわけじゃないよ。……ね、繭美の話、していい?」
「お、おう」
繭美はもう関係ないとさんざん言っておいて、それでも身構えてしまう自分が情けない。そうだ、これだけ気を遣われて今さら隠しようもないが、僕は未だに繭美に囚われている。
割り切ろうとして、忘れようとして、無視しようとして、許そうとして、恨もうとして、逃げようとして、そうすることで余計に囚われてしまっている。
かといって、どうすればこの迷路のような牢獄から抜け出せるのか、僕には分からない。
「あたしがあの街を出ようと思ったのはね、繭美からの電話がきっかけなの」
思いもしなかった告白に、僕はカオリを見た。
「間黒先生が旅立って、すぐくらいかな。実はイサムよりも好きな人がいる、そしてたぶん、もうみんなと会うこともないってね」
カオリはただ前を向いて、淡々と語った。
「あたしは、それじゃイサムはどうなるの、って聞いたの。そしたら、本当に申し訳ないと思うけど、もう決めたことだから、後悔したくないから、って。それから」
カオリが僕を見た。
「だからカオリも、もう我慢しなくていいのよって。あの子、そう言ったのよ」
つまり、繭美はカオリの想いを知っていたというのか。
「腹が立った。悔しかった。あの子はあたしがイサムを好きなのを知ってて、その上であたしの目の前でイチャついて。それでイサムのことはもういらなくなったから、くれてやるって言ったのよ。許せないって思った。馬鹿にして、誰があんたの言う通りになんかしてやるもんかって思った。だから街を出たの」
言葉とは裏腹に、今のカオリに怒りの色は見えない。むしろ自嘲するかのような苦い笑みを浮かべていた。