7 一週間前――迷わぬ子羊ども2
「イサム……心配してくれてるのか」
「そんなんじゃない」
ふて腐れたように吐き捨てると、大輔がはにかんだ笑みを浮かべた。
「ありがとうイサム。でも、……自分で決めたことだから、たぶん一人でも平気さ」
ぶちん。
僕は再び大輔に襲いかかった。
「な、なんで怒るんだよーっ」
「お前それ絶対アニメか何かのセリフだろ!」
竜也の羽交い締めを外そうと、もがきながら怒鳴ると、分かりやすく顔色を変えた大輔がぶんぶんと首を振った。
「ち、ちが」
タカちゃんが、わははと笑う。
「今のは俺が分かった。正解だイサム」
「うわーっ、バレたあああ」
「もうお前殺す絶対殺す!」
そこでまた大騒ぎしていると、背後からの懐かしい声が僕を止めた。
「落ち着きなさいイサムくん。ほら、深呼吸して」
がるがると猛っていた僕は、反射的に言われた通りの深呼吸をする。
「ふーはー、ふーはー。ひーひーふー、ひーひーふー」
「しっかりしてイサム。何かが産まれそうになってるわよ」
何故か泣きそうになりながら意味のわからないことを言うカオリをぼんやりと眺めていると、さっきの声の主がぽんと僕の肩を叩いた。
「落ち着きましたか、イサムくん」
「間黒師父……」
凶悪な笑みを浮かべるセンセイの顔を見て、僕はやっと自分を取り戻した。
「こんなご時世の中、きみがきみらしさを、誰よりも優しい心を失っていなくて、嬉しく思います。……フルーベ卿、ですから先におさえるべきは僕の弟子ですと申しましたでしょうに」
「うむ……フィシュー君、きみのいう通りや。まさか彼にこんな爆発力があるとは思わなんだ」
フィシューって誰だ、爆発力って何だ――と思っていると、フルーベ卿が神妙な顔で僕に向き直った。
「イサムはん、でしたな。ずいぶん心配をおかけしとるようですが、決して救世主様――大輔はんを利用して甘い汁を吸おうとか、そういうわけやおまへんねん。ただ人々を救いたい、それだけなんや。どうかご友人の力を借りることを許してはもらえまへんやろか」
深々と頭を下げる。
ジョジョコさんや間黒センセイまでがそれに倣って、僕はにわかに慌てた。
「あ、頭を上げて下さい。僕は我が儘を言ってるだけで。大輔が行くと言うなら……僕には止められません」
「おお、それでは。……大輔はん?」
フルーベ卿が大輔を見た。
「はあ。じゃあイサムも許してくれたし、行きます」
あ、でも仕事が、と今さらなことを大輔が言うと、タカちゃんがいつものようにわははと笑った。
「どうせあと一週間もすれば完全に仕事がなくなるからな。工場のことは気にすんな」
「ありがと兄ちゃん。じゃあみんな、行ってくるよ」
あまりにもあっさりとした、別れの言葉。
ヘリに向かい歩いていく大輔の背中を見送りながら、僕はヤツの言葉を反芻した。
行ってくるよ。
あいつは確かにそう言った。
フルーベ卿たちの思惑はともかく、あいつはやっぱり本気でブラスターホームランする気で、そして帰ってくるつもりなのだ。
「心配なのは分かりますが、どうか信用してくれませんか。僕はきみの師父だから、きみを失望させるようなことはしたくない、しませんから」
まだ僕のそばに立っていた間黒センセイが言った。
「あいつ、馬鹿なんです。本当にもう、気が遠くなるくらい馬鹿なんですよ」
そう答えてから、こう言ってはなんだけど、センセイはどうしてあんな馬鹿げたところにいるのか、ふと不思議に思った。
センセイがどんな人間だったか、改めて思い出す。
我が師、間黒篤巴は。
――まず、殺気や敵意にはべらぼうに強いが、ヘンに生真面目なのでアホに耐性がない。
しまった、いきなり不安が増してしまった。別の要素を探そう。
――アホに耐性がないばかりか、思い余って無自覚にアホな行動を起こすことがある。
拳法で世直しなんて、その最たる例だ。しかし。
――何よりも強い、信念がある。
センセイが旅に出てからの数年間に何があったのか、僕は知らない。挫折もあったかも知れない。悩みもしたかも知れない。
でも、昔と変わらず、今でも。
その目には、迷いが全くないのだ。センセイは、どこまでもまっすぐに前を見ている。
僕はそんなセンセイの眼差しが羨ましいと思った。
「でも、僕はセンセイを信じます。フルーベ卿のことはよく分かりませんけど、センセイが信じた人なら、僕も信じます」
これが、僕に言える精一杯だ。
「きみは相変わらず優しいけれど、相変わらずひねくれてますねえ」
知ってますかイサムくん、と間黒センセイが言った。
「いいトシをして自分のことを僕なんて呼ぶ人は、えせ文化人かひねくれた変人のどっちかですよ」
「センセイ。自分のことを何て呼んでるか、自覚ありますか?」
思わずツッコミを入れると、センセイが完全犯罪を成立させた頭脳型シリアルキラーの顔でニヤリと笑った。
「なに、小粋な師父ジョークですよ。さ、少し長居しすぎました。僕も行きます」
颯爽と背を向けたセンセイに、カオリが声をかけた。
「あ、先生! もう行っちゃうんですか?」
センセイは首だけをこちらに向けた。
「カオリくん。きみとも話をしたかったんですが、残念です。本当は、イサムくんほどの才能の持ち主には、今からでも一緒に来て欲しかったんですが……。彼は、いやきみたちは、きみたちの道があったんですね。頑張りなさい」
その言葉に僕は目を剥き、カオリは「んま」と言って両手を頬に当てた。
「ち、違う違う違う違う。誤解ですセンセイ!」
僕の弁解に耳を貸さず、センセイは後ろ手に手を振って、離陸寸前だったドラッヘに飛び乗った。
「誤解ですってば! センセイー!」
大声で叫んでいると、たまたまヘリの窓からこちらを覗いた大輔が、何を勘違いしたのか激しく手を振りだした。
ええい邪魔だ大輔。今はお前に用はない。センセイを出せセンセイを!
願い虚しくティーガーにエスコートされたドラッヘが空の彼方に消え去り、僕はがっくりと膝をついた。大輔のお株を奪う「大輔の構え」である。
「あー。なんか慌ただしく行っちゃったね」
いつの間にか周囲のキラキラを復活させた竜也が、妙に浮わついた口調で言った。
「ところでお前ら、そーゆー関係だったの?」
カオリが自慢げに答える。
「そうよ」
「違うわいっ!」
被せるように否定してやったが、カオリは微塵もへこたれないばかりか、逆に威張った。
「本人はこう言ってるけど、近いうちにそうなる予定よ」
お前、なんでそんなに強いんだよ……。
「とりあえず中に入ろうぜ。なんだか一人減っちまったけど、代わりに一人増えたし、今日はじっくり飲もうや」
タカちゃんが轟天丸で後ろの家をくいと指して、さっさと歩きだした。
「ほらイサム、戻るぞ」
「あ、うん」
竜也に起こされて、僕は何か釈然としない気持ちを抱えたまま、とぼとぼとみんなの後をついて行く。
やがて到着したのは、主のいなくなったいつもの部屋だった。
「悪いなカオリ、こんな汚い部屋で。俺たち、いつもここで飲んでるからさ。そのかわりと言っちゃなんだが、親も田舎にひっこんでるし、気楽にやってくれ」
タカちゃんが床に散らばった雑多なモノを蹴飛ばして、カオリのスペースを空けた。
「へえ、ここが大ちゃんの部屋か。男の子って感じだね」
あの。男の子って三十才も含まれますか、カオリさん。
「あ、台所借りていい? いっぱい買い物してきたんだー」
「おう、こっちだ」
タカちゃんに連れられて行くカオリの背中を眺めながら、竜也が肘で僕を小突いた。
「なんか雰囲気が少し変わったけど、相変わらずいいヤツだね、カオリちゃん。付き合っちゃえばいいのに」
「ああ、いいヤツだな。でも、さ……」
「……そうか」
竜也はそう言って、僕の腹にドスンと一発入れた。
「お、おまっ。なん、でっ……」
僕は悶絶した。かなり手加減はしているんだろうけど、それでもこいつの一発はシャレにならない。
「イサムのことだから、たぶんこうして欲しかったんじゃないかと思ってね。違った?」
……何者だお前。エスパーか。
そうこうしているうちにタカちゃんたちが戻ってきて、ほどなく酒盛りが始まった。
「それにしても結局は何だったんだろうね、あの人たち。大輔でどうしたいの?」
天魔降伏という、何やら大層な名前のついた(大輔秘蔵の)日本酒が注がれた湯呑みを口元にやりながら、竜也が改めて疑問を提示した。
「何か知らんが、ぬるねぎ様と同類だってのは分かった」
酢イカを豪快にわし掴んでいっぺんに頬張りながら、タカちゃんが言った。
「ジョジョコさんが美人だった。あと間黒先生が相変わらず怖い顔だった」
カオリは、もはや大輔と直接関係がない感想を述べた。
「……そーゆー訳のわからん人たちに大輔が連れ去られるのを、黙って見てたの、みんな?」
「だって何か言う前にお前、キレるんだもん」
竜也の鋭いツッコミに、僕は無言で竜也の湯呑みに酒を注いだ。
「で、そう言うイサムはどう理解してるの?」
僕は手酌の手を止めて、思わず考え込む。
「よく分からん。なんか隕石の落下地点に会場を作って大輔にブラスターホームランさせるとか言ってたけど……だから何だって話だよな」
「壮大な冗談で、みんなで笑いながら死にましょう……ってことかな」
「そんな爽やかな笑顔で死にましょうって、逆に何か恐いぞ竜也」
さっきの痛みを思い出して腹をさすっていると、タカちゃんが突然重々しい声を上げた。
「それだ。逆に、か。そうか、逆に考えるべきなのだ」
いつになく真面目な顔。つまりとんでもなく下らないことを言おうとしているということだ。
「みんな、あの隕石で人類が滅びると思っているな? 大輔がブラスターホームランを失敗する前提で。そこが逆なんだ」
僕らの視線を集め、タカちゃんは新たに掴んだ酢イカごと拳を握りしめた。指の隙間からにるにるとはみ出る酢イカ。
「あいつらは、大輔と同じように、本気で信じてるんだよ。つまり教団総大輔なんだ。そして人類総大輔化計画を目論んでいるのだ!」
僕らは、うおお、とどよめいた。
「なんて恐ろしい。まさに淫祠邪教の極み!」
「考えただけで脳がスポンジ化しそうだ。ああ神様、助けてくれ!」
「いや……あるいは、こうかも知れぬ」
タカちゃんの目がさらに熱を帯びる。トランス状態に入った預言者の顔だ。
「知っての通り、大輔は童貞だ」
「え、大ちゃん童貞なの!」
カオリが本気で驚いて、タカちゃんの動きがぴたりと止まった。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も何も喋らない。
何故かは分からないが、なんとなーく気まずい空気が流れる。
「……知っての通り、大輔は童貞だ」
鋭い光を目に宿したタカちゃんが、静かに語り始めた。
既知の事実なので、誰も口を挟まない。
「そして知っての通り、大輔はついこないだ三十才の誕生日を迎えた」
「大ちゃん、かわいそう……」
「……すまんがカオリ、憐れむのはやめてくれんか。さすがに居たたまれん」
「ご、ごめん」
「うむ。……そして皆のもの、こんな伝説を知っているか?」
気を取り直したタカちゃんが、再び預言者モードになる。
「三次元上に実体がない意識のみの高次存在たちの間に伝えられる、童貞のまま三十路を迎えた者には、天より大いなる能力が与えられるという伝説を」
「ま、まさか。あの伝説は本当だったのか」
僕は驚きのあまり、冷奴にキムチをのせてゴマ油を垂らした。なんてこった、旨い。
「では大輔が、ついに力に目覚めたと? しかしそれでは、現在の状況は危険なのでは? おれは見ました、大輔の視線が、ジョジョコ女史に釘付けになっていたのを」
「あ、あたしも見ました! 大ちゃんは、ジョジョコさんをチラチラ気にしてましたッ」
ようやくノリを理解したらしいカオリが竜也に続く。
しかし僕は知っている、大輔はカオリのこともかなり気にしていた。
「ふうむ、それはゆゆしき事態だ。ジョジョコ女史は大輔を崇拝している。もしかしたらもしかしちゃって、我らが大輔が奇跡的に童貞を喪失してしまうやも知れぬ。童貞の喪失は力の喪失を意味する。それだけは阻止せねば!」
缶ビールを一気にあおり、タカちゃんが力強く宣言する。
「童貞喪失、ダメ、絶対! 大輔の童貞は、身を呈してでも守らねばならぬ!」
「童貞喪失、ダメ、絶対!」
訳もわからず復唱したとき、僕は唐突にタカちゃんの意図を理解した。
――そうか……。馬鹿なのは僕だ。
同時に自分がものすごく恥ずかしくなって、やけくそのように、それこそ馬鹿みたいに杯を空け続けて――。
そして次の日、見事に遅刻した。
◇ ◇ ◇




