4 三週間前――突然来訪……からの、戯れ言1
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パンッ、と小気味良い音が道場に響く。音の源は薄刃陽炎だ。
タカちゃんの力作であるこいつは、見た目は美しいが刃は落としてあるわ刀身は曲がるわで、実は武器としての実用性は皆無に等しい虚仮威しの武器である。
これはタカちゃんシリーズ全体に言える共通点で、轟天丸は張りぼてだし、竜也の棒にいたってはそのまんま、ただの棒である。アレは竜也が使うから脅威なのであって、それを言うなら轟天丸だってこの薄刃陽炎だって、あいつが使えば恐るべき武器になる。
その意味でタカちゃんシリーズの何を得物にしても、そう大した違いはない。しかし僕がこのナマクラを好んで使うのには、別の理由があった。
――突きや蹴りを打つときは、打撃が当たる瞬間にだけ力を入れろ、という話を聞いたことはないだろうか。
この薄刃陽炎で突きを打つと、それが正確にできたときにだけ刀身が鳴るのだ。
あらゆる動きは、決して力んで行ってはならない。力むと動作と反応、両方の速度が鈍る上に、相手にも容易く読まれてしまうからだ。
また、脱力とは弛緩することとも違う。全身を柔らかく保ち、力を込めるべき一瞬、一点のみに全力を注ぐ。
これができて初めて力の乗った攻撃となる、基本中の基本である。
どうしてそんなことを知っているのかと言うと、僕が多少なりと武術を修めていて、ここがその師父――間黒篤巴センセイの道場だからだ。
と言っても、今ここにいるのは僕ひとりだ。道場内はおろか裏の母屋にも人どころか猫の子一匹とていない。もぬけの殻である。
ウチのセンセイは「武に道はなく、しかし武を行う者こそ道を示すべし」と、分かるよーな分からんよーな持論の人だった。
それが例の隕石による初期混乱期に「いまこそ人の世を正さねばなりません」などと言って、数人の弟子を引き連れて本当に世直しの旅に出てしまったのだ。
拳法で世直しって、どこの世紀末救世主伝説ですかセンセイ。
そんなわけで、残りの人生を血と涙と感動のバイオレンスに捧げる気などさらさらなかった僕が、留守をあずかっているというわけである。
とはいえ、隕石が墜ちてくるまであと三週間。どういう経緯か、現在はドイツだかにいるらしいセンセイが今さら帰って来るとは思えない。でも僕はもう何年もここの管理をしてきたので、今も日曜ごとになんとなくやって来ては鍛練と掃除をしている。
こうしていると、もしあのとき繭美との結婚が目前に控えていなければ、あるいは僕もセンセイについていったかも知れないと思うことがある。センセイの出立からひと月もしないうちに強制的に婚約破棄されてしまったとあれば、なおさらに。
……ああ、もう。つまらないことを思い出してしまったじゃないか。集中だ集中。
しばらく無心で鍛練を続け、そろそろ切り上げて掃除に取りかかろうかというとき、道場に侵入してくる者の気配があった。
「やっほ、イサム」
予想通り、現れたのはカオリだった。
「また来たのか、不肖の弟子二号」
望月香は幼馴染みの一人であり、僕にとっては同門の兄弟弟子でもあった。
「何よその不肖の弟子って」
「センセイをほったらかしてこんな所にいるんだから、不肖の弟子だろ」
「それを言うならほとんどの生徒がそうだし、イサムだって」
「だから二号って言ったろ」
カオリはにんまりと笑った。
「おやおや? あたしたちをセットにしてるってことは、ついに決心したのかな、イサムくん?」
決心とはなんの話だと反射的に訊きかけて、僕は先週――そう、大輔がブラスターホームランをするとか言い出したあの日に――ここでカオリと交わした言葉を思い出した。
まさかという驚きとともに確認してみる。
「ひょっとして、こないだのアレは本気だったのか?」
「何よ、疑ってたの? じゃあ改めて言うけど、あたしとつき合ってよ」
ちょっとそこのしょーゆを取ってくれ、くらいの気軽さでなされた告白に、僕は呆れた。
「あのなあ。突然帰ってきたと思ったら、いきなり何の脈絡もなくつき合ってくれって言われて、受け入れられると思うか?」
カオリはセンセイが旅立ってすぐに、誰にも何も告げず引っ越してしまった。それで何年も音沙汰がないと思ったら、先週になって急に帰ってきて、ここで僕を見つけるなり「あたしとつき合って」などと世迷い言をほざいたのだ。
「受け入れたらいいじゃない。ヤラなかった後悔よりヤッた後悔の方がいいでしょ」
「そのイントネーションが指し示す行為の場合は、後者の方が深刻だと思うが。って言うかお前、そんなこと言うヤツだったっけ」
カオリは学生時分から男共にまじって馬鹿話をするような女だったが、こんな下品な冗談を飛ばすような奴ではなかったのに。
いい女には人に言えない過去があるものよ――と、意味も分からずただそれを言ってみたかっただけの小学二年生のような顔でカオリが言った。
「それに、いきなりじゃないよ。あたしは子供の頃からずっとイサムが好きだったから」
ちょっと待て。その告白こそ僕にとってはいきなりだぞ。
遠い記憶の中のカオリを思い出す。
小学校に上がったばかりの頃のカオリは、こう言っては何だが地味で引っ込み思案、見た目も小柄でやせっぽちで、いつも人の陰に隠れていた。
それがこの道場に通うようになって自信が持てるようになったのか、いつの間にか僕たちがよく知る今のカオリに――明るく活発な女の子になっていた。
僕らは同じ門下生だったし、毎日のように顔を合わせては下らない悪態を吐き合う間柄で、間違っても好きだの嫌いだのといった色っぽい話になるような関係ではなかったはずだ。
「子供の頃からって……本当に?」
「どうしてあたしがここに入門したと思う?」
含みのある笑みに気圧され、僕は思わず減らず口を叩いた。
「そうか、そんなにも昔から……。だが断る。僕は清楚な女性が好きなんだ」
「……繭美みたいな?」
ふいに真顔になったカオリに、僕はとっさに返す言葉を失った。
忘れていたが、カオリは繭美の子供の頃からの親友でもあったのだ。だからさっきの人の陰に隠れてというのは、たいていは繭美か僕の陰だった。
そのカオリが、今はまっすぐに僕を見つめている。
「あたしをそういう目で見たことがないのは分かってるよ。こーんな小っちゃい頃から繭美しか見てなかったもんね、イサムは」
「ま、繭美は関係ないだろ」
「やっぱりまだ忘れられないんだね」
「違う。胸のかわりに胸板がついてるような女はお断りだって言ってんの、僕は!」
カオリの視線から逃れるように顔を背けて言うと、彼女の声が笑いを含んだものに変わった。
「いいトシして自分のことを僕なんて呼ぶ人は、えせ文化人かひねくれた変人のどっちかだって、間黒先生が言ってた」
……嘘をつくな嘘を。センセイが聞いたら怒るぞ。
「とにかく、どうせもうすぐ世界が終わるのに、今さら恋も愛もないだろ」
僕はやっとのことで、それだけ言えた。
「ふーん。まあいいわ、そういうことにしといてあげる」
カオリはそう言ってサマーセーターの袖を捲りあげた。
「さ、これから掃除でしょ? さっさと済ませて行くよ」
「行くって、どこに?」
「大ちゃんの所に決まってるじゃない。そこに帰るんでしょ」
まあ、そうだけど。どうせ実家に帰っても誰もいないし。
「お前も来るの?」
「うん。みんなにも会いたいし、それにイサムを落とすためには、なるべく一緒にいなくちゃね」
「言ってろよ」
「見てなさい。今に女王様もっと、って懇願させてやるから」
「そーゆー下品な冗談はやめろって」
「安心せい、峰打ちじゃ」
恐らくキメ顔のつもりであろうものすごいドヤ顔で、カオリが威張った。
僕は疲れた顔で応じる。
「下ネタの峰打ちって何だよ……」
「あらイサムさん、モロ打ちの方がお好みかしら?」
やめんかい。
「分かった、僕が悪かった。一緒に来て下さい」
「ふ。勝った」
まるで昔に戻ったかのような、馬鹿なやりとり。
屈託なく笑うカオリが、とても眩しく見えた。
分かっている。カオリは本気だ。こんなに軽い態度なのは、僕を気遣っているからだ。
そして子供の頃から、とカオリは言った。
では僕と繭美がつき合いだした中学の頃から、カオリがこの町を去るまでずっと、それでも彼女はこうして笑っていたというのか。
それはいったいどんな気持ちだったんだろう。どんな思いで僕らを見ていたんだろう。
かけるべき言葉が見つからず、ただ黙々と掃除をしていると、カオリが聞こえるか聞こえないかくらいの声で、そっと囁いた。
「ね、イサム。あたし、本気だよ」
分かってる。
でも……ごめん。
僕はまたしてもカオリに甘えて、聞こえないふりをした。
自分を殴りつけたい衝動を、ぐっと抑える。
それもまた甘えなのだと、嫌になるほど分かっていたから。
◇ ◇ ◇