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10 二日前――ホラティウスはかく語りき2

「……そんなことがあったのか」


 酷い話だ。僕にとっても、カオリにとっても。知りたくもなかった繭美の想いは、やっぱり知らないままでいた方が良かったのではないかとさえ思う。


 でも、予想したような胸の痛みは、それほど感じなかった。僕は癒されていたのだ。あいつらに、カオリに。


 正直に言えば、カオリに惹かれつつあることも……いや、この期に及んで見栄を張るのはやめよう。カオリ流に言うなら、とっくに落ちていることも自覚している。


 しかしだからといって、僕もカオリが好きだ、つき合おう――という気にはなれない。何より僕は自分を信用していない。


 この気持ちは本当にそうなのか?


 ならばどうして未だに繭美に囚われている?


 ただの甘えではないのか?


 心の隙間を埋めることと、誰かを求めることは違う。違うのに、今の僕にはその差が分からなくなっている。


 くだらないこだわりだと思う。そんなことにかまけるくらいなら、カオリの気持ちに全力で応えてやるべきだとも思う。「つき合っちゃえばいいのに」と竜也に殴られた腹が痛い。


 でも、どうしても駄目なのだ。こんな迷いを抱えたままじゃ、僕は――。


「イサム、あたしに申し訳ないとか、つまんないこと考えてるでしょ」


「つまんないって何だよ。僕にとっては……って、ちょっと待て。なんで分かるんだよ」


 反射的に言い返しかけて、僕はカオリを見返した。お前もエスパーか。


「分かるよ。何年イサムばっかり見てきたと思ってんの。って言うか、みんな分かってるんじゃないかな。間黒先生も言ってたじゃない、きみは相変わらずひねくれてますねえって。相変わらずよ、相変わらず。意味分かる?」


 眉間に皺を寄せて考える。それって、つまり。


「……もしかして僕って、そんなに分かりやすいのか? 昔から?」


「ものすごく」


「…………」


 なんてこったい。


 ひそかに落ち込んでいると、カオリが「落ち込む前にあたしの話を聞いてよ、まだ続きがあるのよ?」と言った。


 このエスパーめ、と思いながら先を促す。


「それで、誰もあたしのことを知らないとこまで行ってさ。お酒に溺れて、ついでに商売にしちゃって。イサムのことも繭美のことも全部忘れようとして、できなくて、泣いて。何年も何年も、後悔ばっかりの毎日で。それでも意固地になってるから絶対に帰らない、なんて思ってて」


 ……なんだか他人事とは思えない。


「でもあと一ヶ月で世界が終わっちゃう、そしたらもうイサムに会えない……って思ったら、たまらなくなってさ。それで帰ってきたのはいいけどイサムに会いに行く勇気もなくて、ふらふらと道場に行ったらイサムがいて。……気がついたら、あたしとつき合ってって言ってた」


 そのときに分かったんだ、とカオリは言った。


「悩んでも、迷っても、いいの。後悔だってしていいんだよ。でも、あたしはそれでも生きてる。馬鹿みたいだけど、生きてるからには生きなくちゃいけない。言ったでしょ、やらなかった後悔より、やった後悔の方がマシだって。何を隠そう実体験よ!」


「何を威張っとるか。生きてるからには生きなくちゃって、なんだよ」


 まるで間黒センセイと話しているみたいだ。よく分からない。するとカオリは一言で言うなら専心一意よ、とさらに分からないことを言って、僕はますます混乱した。


「本当はね、今でも少し悩んでるし、迷いも後悔もしてる。あたしが後悔しないためにやってることが、イサムを追い詰めてるんじゃないかって。でも、今はあの時の繭美の気持ちが分かるんだ。たぶんあの子はね、受け入れたんだよ。何もかも全部ひっくるめて、ただ受け入れたの。それが分かったから、今はもう恨んでないし、どっちかと言うとイサムに腹を立ててる」


「僕に? なんで」


 カオリが僕の胸ぐらをぐいと掴んで、下から()めつけた。


「何でもいーからさっさと落ちなさいよ馬鹿。往生際が悪いわね」


 なんだその一般的な口説き文句から大幅に逸脱した暴言は。


「結局そこに戻るのかよ」


「そりゃそうよ。悩んでも迷っても後悔しても、あたしはもう、ためらわない。だから何度でも言ってやるわよ。いい、イサム。よく聞きなさい」


 接吻せんばかりに顔を近付けたカオリの表情が、ふと緩んだ。


「好きよ。あたしとつき合って」


「断る!」


 僕は間髪入れず答えた。そうでもしないと流されてしまう。


「こっちだって何度でも言ってやる。胸の代わりに胸板がついてるような女は願い下げだね」


「言ったわね!」


 言うが早いか、カオリは空いた左手で僕の右手を掴んで、自分の胸に押し当てた。


 僕の脳髄を直撃する、凶悪な弾力。


 おおっ、こ、これは……なかなか……。


「って、馬鹿っ。何をするんだ何を。恥はないのかっ」


 我に帰った僕が慌てて振り払うと、カオリは挑発的に微笑んだ。


「ふふーん、どーよ、けっこうあんだろー? 伊達に何年も怠惰な生活を送ってたわけではないのだよ」


 だから何を威張っとるか、と勢いに任せて返そうとして、僕は気付いてしまった。


 カオリの顔が、耳まで真っ赤になっている。


 ……カオリ、お前。


 自分の悩みなど些細なことだと思えるほどの衝動が、込み上げる可笑しさを連れてきて、僕は唐突に理解した。


 そうか、そのままでいいのか。まず何かを肯定するでなく否定するでなく、全てを抱えて。だからこそ、ひたむきに。


 同じなのだ、この街も、カオリも。もしかしたらタカちゃんや竜也、センセイも。……大輔は違う気がするけど。


 僕は視線だけで周りを見回して、カオリの手をそっと外した。


「そーいうこっちゃないだろ、馬鹿だな」


 そのまま、すたすたと歩き出す。


「あ、待ってよ」


 追いかけてくるカオリを無視して、観光客目当ての小物屋のおじさんに話しかけた。


「何よ、怒ったの?」


 拗ねた声を出すカオリに、ほらよ、と手に入れたばかりのそれを手渡し、再び背を向けて代金を払った。


 そしてもう一度振り向いたとき、カオリは手のひらのそれを見つめて涙を浮かべていた。


 ――素材が何であるかも、サイズが合うかどうかすら分からない、安っぽいリング。


「イサム……これ……」


「勘違いするなよ」


 僕は敢えて偉そうに言った。見透かされてたって構うものか。


「こう見えて、僕はおっぱい星人なんだ。だからそれはお前の胸を侮ったことへの謝罪、そして敬意と褒美だ。ついでに副賞として」


 さすがに恥ずかしいので目を逸らす。


「僕の残りの人生を、お前にくれてやる」


「イサム……」


 声を震わせて手の中のそれをぎゅっと握りしめたカオリが、すぐに駆け込むように小物売りの前に立った。


 おじさんは、手にしたリングを指差しながら話しかけようとしたカオリが一言も喋らないうちから同じものを手渡して、軽く首を振って財布を出そうとする手も止めた。


 なんか、ここにもエスパーがいるぞ。カッコイイじゃないか、おじさん。


 深々と礼をしたカオリが、改めて僕に向き直った。


 意を決したようにそっと伸ばされる、カオリの手。


 僕はその手を、がっしと受け止めて、防いだ。


「こら。ドコを触ろうとしているドコを」


 そう、よりにもよって僕の股間を鷲掴(わしづか)もうとしやがったのだ、こいつは。


「ち。勘のいいヤツめ」


 カオリが悪い顔で舌打ちした。


「勘違いしないでよね、こう見えてあたしは、ちん――」


「だからそーゆー下品な冗談はやめろって!」


 なおも侵攻してくる手を水際でしのぎながら、カオリの言葉を遮る。


 お前な、ここは感動的なシーンだろうが。なに台無しにしてくれてんだ。見ろ、おじさんが目を丸くして固まっちゃっ……あ、膝を叩いて大笑いしだした。


「冗談じゃない、大真面目よ。あたしの何もかも、イサムにあげる。心も体も、残りの人生も」


 そんな悪人顔で言われてもなあ。


「先に言っといてなんだが、あと二日しかないけどね」


「永遠よりも価値のある二日間よ」


「……そうだな」


 妙に弛んだドヤ顔を見せるカオリの手をしっかりと握って、僕は本当に久しぶりに、心から笑うことができた。


 そしてそれから三十分後、買い物を済ませてホテルに戻った僕らを迎えたのは、タカちゃんの何気ないひと言だった。


「おう、戻ったか。朗報が……ん? なんだイサム、やっと落ちたのか。意外とねばったな」


「おめでとうカオリちゃん。今から御休憩でもする?」


「あらやだ、たっちゃんたら」


「ちょっと待てーっ!」


 僕は(わめ)いた。


「なんで分かるんだよっ?」


「なんでって、顔を見りゃ分かるだろ」


 ぐ……。せめて不思議そうな顔をするなよ、頼むから。


 い、いや、実はこいつらはみんなエスパーなのだ、そうに違いない。


 僕は分かりやすくなんかない。

不粋な解説:ホラティウス

古代ローマの詩人。有名な言葉(詩の中の語句)の一つに「カルペ・ディエム(その日を摘め)」がある。

極めて大雑把に意訳すると「その日一日一日を愛せ」。


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