桃源郷へ
果てしない草原に一筋の風。およそ美しいという言葉が合いそうな風景。そんな中の一点に似つかわしくない不純物があった。
パンダ。
パンダである。
一面見渡す限りの原っぱを一匹のパンダが威風堂々と歩いているのである。その姿は極めて巨大。立ち上がれば成人男性など軽く越えてしまう全長。加えて左目に十字の傷跡。ただの負傷ではなく、戦士の誇りといったモノを感じさせる傷跡である。
そんな凶悪なイメージを漂わせるパンダの背には無謀にも二人の人間が座っていた。
前方にまたがるのは十歳くらいの女の子である。薄い茶色の髪を全て後ろで束ね、二本の尻尾を垂らしている。その先には丸い薄紫の髪飾り。瞳は大きく、非常に可愛らしい顔つき。どこかのお嬢様と言っても問題はないのだが、背中に背負った大きな古いリュックと寝袋、そしてパンダが邪魔をしている。
後方であぐらをかいて座るのは二十五歳くらいの男。漆黒の髪を少し立たせており、顔にはメガネ。少女のチャイナ風の服装と違い男はスーツ姿である。頑丈そうなカバンを両手に抱え、せわしなく辺りを見回している。
「ひ、姫さま……こんな隠れるところのない場所は……」
男は少女のことを『姫』と呼ぶ。それが聞こえた姫は、その可愛らしい顔を少し歪めて振り返った。
「ウォンよ……妾の事を姫と呼ぶな、と言っておるではないか」
少女はその容姿と年齢には似つかわしくない大人びた口調で男、ウォンに告げる。もう何度も同じことを言っているのだろうか、少々の面倒な雰囲気を感じる。
「いや、はぁ。どうしても慣れないもので……」
ウォンは謝りながらもキョロキョロと辺りをうかがう。進む方向はなだらかな丘。後方に見えるのは広い森。左右どちらも、見える限りの草原。およその生物と言えば、今この場にいる二人と一匹だけである。しかし、ウォンは必要以上に警戒している。
「そんなに警戒する必要はなかろう」
「そんな事はありません、姫…いえ、リイルーさま」
「『さま』も付けんでよい」
リイルーはそう言って、前方の丘を見つめる。
「とにかく、私達は狙われているのです。聞けば一キロメートル先からでも標的を命中させることができるスナイパーもいるそうです。今もそういう奴から狙われているのかもしれないのですよ」
ウォンは身振り手振りでリイルーを説得する。とにかく、急いでこの草原から抜けなければならないのだ。カバンを手に持ったまま説得するのでリイルーの横をカバンがフラフラ。中身もカチャカチャ。それを目で追っていると、突然カバンが、
ズガン!
などと激しい音を響かせる。
「な、なんじゃ?」
「……」
ウォンはゆっくりと自分のカバンを見る。そこには、ひしゃげた鉄の塊。元は七センチ六ミリ程度の円形状。狙撃用ライフルの弾丸とほぼ同じである。否、ほぼ同じ、ではなく狙撃用ライフルの弾丸そのものである。
「ちぃっ!」
ウォンは小さく叫び、リイルーに覆いかぶさる。
「ロータオ、走って!」
リイルーはウォンの下敷きになりながら、パンダ、ロータオに命令する。ロータオはリイルーの言葉を聞き始めた瞬間には走り始めていた。その時、頭上で風切り音が聞こえた。恐らく狙撃主は相当の腕前なのだろう。草原に吹く少しだけ強い風のお陰で弾丸はギリギリそれている。本来、狙撃には風を読むための目印、例えば旗などを見るのである。しかし、この場には目印になるようなものはない。狙撃主は経験と勘だけで撃ってきているのである。
ウォンは弾丸が飛んでくる方向、右方向を見る。一面の草原の一箇所、少し背の高い草むらがキラリと光る。その瞬間、ゾクリと来る殺気。本能的にカバンを顔にかざした時、再びズガン!とカバンが悲鳴をあげた。
「は、速くあの丘の向こうまで!」
ウォンは言って、頭上を見上げる。太陽はほぼ真上にあった。恐らく、スコープに光が反射したのだろう。太陽を背にするのが常識だが、真上にあるのだから仕方がなかったのか……とにかく、相手の位置から丘の向こう側は撃てないことが分かった。約6秒間隔で襲い掛かってくる銃弾を恐れながら、丘を越えた。
「街じゃ!」
ウォンの下からリイルーが叫ぶ。
丘の下に見えるはそれなりに発展した街だった。街の中心には高い塔が建っていて、そこには大きな時計。街の建物のほとんどがレンガで造られているようで、なんとなく落ち着いた雰囲気をだしている。街の一角では簡易テントが複数あり、そこに人々がにぎわっている。恐らく、商業、商売の類だろう。街の向こうは森、あとは農耕地となっている。
「助かりました。あそこへ逃げましょう」
ウォンは伏せていた身体を起こす。その下からリイルーが、ぷはっ、と身体を起こした。
「ふぅ……では、気合いを入れて子供をやるか」
「私は父親ですね」
リイルーはポンポンとロータオの頭を叩く。
「たのむぞ、ペット」
ロータオは返事を返す事無く、街へと向けてさらに加速した。
一ヶ月前……
「疾っ!」
拳を突き出した瞬間、呼吸と汗が飛ぶ。リイルーが突き出した拳は、軽く老人に叩かれ目標をそれる。素早くリイルーはバックすると、スッと息を整える。老人も静かに構えた。静かに、そして素早く、爆ぜるようにリイルーは老人へと接近。そのまま左右の拳を繰り出す。が、老人は軽く触れる事無く避けた。リイルーはそれを読んでいたのか臆する事無く足払いに行くが、それを老人はヒョイと飛んで避ける。
「破っ!」
小さな背で精一杯跳ねた顔面狙いの廻し蹴り。
「賦っ!」
老人の短い呼吸。その声がリイルーの耳に聞こえた瞬間には、すでに身体が宙を舞っていた。じっくり一秒間の中空を楽しむ暇も無く、リイルーは背中から着地した。
「かはっ……」
肺の中の空気が一気に外に押し出され、一瞬の呼吸困難。それを見て老人は飄々と笑う。
「今の技、分かりましたかな?」
しばらく悶絶していたリイルーだが、老人の声に身体を起こす。
「分かるわけがないぞ、ホー・リュウジュンよ。まったくお主は遠慮が無い」
リイルーは言いながら袖で汗を拭う。
「いくらシャオヤン国の姫と言えど、今は私の弟子ですからな。言葉を返すようですが、姫……あなたもおよそ姫らしくない」
その言葉にリイルーはパタンと床に寝転ぶ。そして、可愛らしくコロコロと笑った。
「この話し方は叩き込まれたものじゃ。言葉はこれでも、妾に高貴なモノなぞ存在せんよ」
老人は言葉を返すことなく笑った。その考えは、およそ子供には似合わないと、密かに微笑んだ。
「さて、先程の技ですが」
リュウジュンの声にリイルーは起き上がる。その目は真剣で、師匠の言葉を一語一句聞き漏らすことの無いように耳を傾ける。
「今までと全く一緒です。相手の勢いをそのまま流し、加えてほんの少し別の力を与えてやっただけです」
リイルーはフムと頷くと再び腰を落とし構える。そして先程と同じように顔面へと廻し蹴りを放った。しかし、また同じようにリイルーは中空へと放り投げられたが、次は綺麗に着地する。投げられるのが分かっていれば何のことは無い。
「だが、この技を妾が使うことなぞないと思うが?」
「どうしてですか?」
「妾に飛び廻し蹴りを放つ輩はいつ現われるのだ?」
なるほど、とリュウジュンは思う。一国の姫に跳び廻し蹴りを放つ面白い人間はいないだろう。加えてリイルーの身長。五、六年後に廻し蹴りを放つ者は現われるかもしれないが、飛ぶ必要はないだろう。
リュウジュンが笑うと、リイルーもつられて笑った。
その時、
「姫さま、お逃げください!」
という、馴染みのある付き人の女性の声がリイルーに届いた。
リイルーは城へ向かって走った。城と言っても、高くそびえたつ西洋風でも和風でもない、広く造られた屋敷である。そこへ向かってリイルーはひたすらに走る。
街の様子は、人々の様子は、悲惨で残酷なものと変わり果てている。
ただ、自分の信じる神へ祈る者。
ただ、恐怖に駆られて泣き叫ぶ者。
ただ、命を落とす為に武具を身に着けている者。
リイルーは付き人の言葉を思い出す。
『リイルー様、お逃げください!四国が、四国が攻めて参りました!』
四国とは、ここシャオヤンを取り囲む四つの国のことである。シャオヤンは本当に小さな国だが、取り囲む四つの国は違う。広大な領土の中に幾つもの街や村、集落が存在している。その真ん中にポツンとシャオヤンの領土があるのである。
そんな中で、シャオヤンが平和だったのは同盟の力である。シャオヤンは四国と決して戦争をしないという昔からの同盟があったのだ。歴史が失われている程の過去の同盟なのでその頃になにがあったのかは誰も知らない。だが、同盟は有効だったのだ。
今までは。
「四国の愚か者共め……こんな小さな領土が欲しいか!」
リイルーは叫びながら走る。
泣いてはいけない。まだ、泣いてはいけない。視界が、涙でぼやけてきても、泣いてはいけない。泣いてしまったら、姫は、ただの少女になってしまうから。
城への最後の角を曲がった時、遠くから見知った存在が走ってきた。遠目でも分かる。巨大なパンダと、その背に乗る一人の男。
「や、やめてくれ、ウォン!」
姫の制止を無視し、ウォンはそのままリイルーを抱きかかえる。ロータオは勢いを殺さず走り続ける。城の反対方向へ。
「離せウォン!妾は、妾は城へ、父さまと母さまの所へ!」
「ダメです……」
「城へ行くのだロータオ!」
ロータオは無言で走り続ける。
「ロータオ、汝は考える頭を持っているのだぞ!パンダではないのだぞ!」
ロータオはシェルパンダという種族である。話せはしないものの、非常に頭の良いパンダで人間語を理解している。
だからこそ、ロータオは止まらない。
「なぜだ……なんでこんな時だけ妾の言う事を聞いてくれない……」
リイルーは涙を零す。
「悔しくないのか…悔しくないのか、ロンレイ・ウォンシンよ!汝は悔しくはいのか!」
その言葉に、ウォンはヒタと表情を固める。
「……悔しくないわけがないじゃないですか、シャオヤン・キコク・リイルー様!この国で、この国を愛していないものなど一人もいない!本当なら、本当なら私も残って戦いたい!だが!だけど!私はあなたを死なせたくないのです!王の命令があってもなくても!」
大人の涙を、リイルーは初めて見た。弱い人間が泣くのを悔しがるのではなく、強い人間が泣けないのを悔しがるかのように、ウォンは歯を喰いしばっている。それを見て、リイルーは泣いた。何もかもが恐くなり、泣き声ではなく叫び声をあげて、リイルーは泣いた。
「姫さま、生きましょう。私達は、桃源郷にはほど遠い」
泣き叫ぶリイルーに、ウォンはそっと声をかけた。
街の南門に付いた時にはリイルーは泣き止んでいた。しかし、いつもの姫ではなく暗い影を落としている。
「姫さま」
ウォンの声に、リイルーは顔をあげる。そこには幾人もの人がいた。
「姫さま、ウチの最高級の酒、持って行って下さい。大人になったら飲んでくださいな」
「これ、寝袋と旅の必需品です」
「保存食とトウガラシです。防虫剤にもなるし、寒いときには身体が温まります」
人々は次々に荷物を渡していく。あっという間に、旅人の装備が全てそろってしまった。
「姫さま」
精気の無いリイルーの手をリュウジュンは取り、袖をまくる。そして、持っていた手甲を付ける。同じく足のスネにも同じように付ける。
「シャオヤン国特製の剛鉄で作られた品です。余程の業物で無い限り、貫けはしませんし、斬れはしません」
通常の物より薄いそれをコンコンと叩き、リュウジュンは袖を元に戻す。
「それでは姫さま、桃源郷でお会いしましょう」
その言葉に、リイルーはハッとなる。
桃源郷。
シャオヤン国に伝わる幸せに死んだ者達が行く場所。
彼等は、自らの死を『幸せ』と受け止めた。
その言葉に、シャオヤン・キコク・リイルーは、静かに、本当に静かに、泣いた。
「……パンダ」
大抵の人間はロータオを見た時にこういう反応を示す。それは逃げ込んだ街、シュカペトルーの酒場兼宿屋の娘も同じだった。目線よりも少し上のパンダと少女を見てしばし呆然とする。
「あ、シェルパンダなので大丈夫です。ところで、部屋は空いてますか?」
ウォンは慣れた様子で説明する。その説明に合わせてロータオは一礼する。その行為で、シェルパンダという事を証明しているのである。
「あ、はい、失礼しました。宿は二階ですので、好きな部屋をお使いください」
彼女はそう言って、カウンター横の階段を示す。それと共に一冊のノートを取り出して記帳をお願いします、と一言。ウォンはふむと頷いて、何食わぬ顔で偽名を書き記す。本名を書いてもいいのだが、念には念を。こんな所で足がついて殺されたりしては、桃源郷には遠い世界への旅立ちになってしまう。
「ハイシャン様ですね。支払いはどうなされます?」
「先払いで」
そう言ってウォンは一泊分の料金を支払う。その間にリイルーとロータオは二階へと上がっていった。
「ごゆっくりどうぞ」
彼女の言葉を聞きながら、ウォンはリイルーとロータオを追いかけた。
一人と一匹は、どうやら一番手前の部屋を選んだようだ。何かあればすぐに階下に降りることが出来るので、妥当な選択である。
「ふぅ……」
ウォンが部屋へ入ると、リイルーがため息と共にベッドに寝転ぶところだった。部屋の真中にはリュックと寝袋。その横にはロータオが荷物と共にペタンと座っていた。ウォンは荷物を部屋の隅に固めて置き、窓へと近づく。一応、警戒しながらも窓から辺りを伺った。
気になるのは、先程の狙撃主。もちろん、アレで諦めたりはしないだろう。必ず追ってくるはずである。だとすれば、狙ってくるのはこの部屋への狙撃が一番可能性が高い。それをふまえて、ウォンは狙撃ポイントを探す。それなりの、高すぎない高度の建物で、この部屋の真正面にあるような場所。見つけた。街の中心に建つ、時計塔である。時計の下に窓がある。あそこからなら、この部屋が十分に狙える。
問題は時間。狙撃主がこの場所を見つけて狙撃ポイントを探し当てる時間を考えると、恐らくは日が沈むころ。夜更けから夜明けまでを警戒するべきだろう。
単純に、宿に泊まらず向こうの森へと逃げるのがいいのかもしれないが、リイルーの体力、体調を考えるとそろそろ休まなければならない。現に、リイルーはベッドの上で寝息をたてている。
ウォンはリイルーに毛布をかけ、微笑む。姫と言えど、寝顔は子供。可愛らしいものなのだ。
「買い物に行ってきます。姫さまを頼みますよ」
ウォンはロータオにそう告げ、念のために窓際に自分のカバンを置いて外へと出て行った。
人で賑わう商店、露店の近くでウォンは懐から煙草を取り出して吸う。一度肺に送り込んだ煙をゆっくりと口から吐いた。リイルーといる時は我慢しているのだが、ウォンはヘビースモーカーなのである。あの丈夫なカバンの中身も実は数種の喫煙道具で埋まっている。煙管に刻み煙草、葉巻に紙巻、あとはライター、ジッポの類。リイルーに見せた時は、汝は煙草売りでもやるつもりか、と言われた位である。実際に、愛煙家に珍しい銘柄の煙草を売って路銀を稼いだ時もあるが、基本的にウォンが使うためである。
一本をたっぷりと吸い終わると買い物を始める。とりあえずは、保存食の類を重点的に買っていく。あとは、リイルーの服。そろそろ古くなりかけているので、新しい武道服を探す。
袋いっぱいに保存食を持ち、服を売る露店を見てまわったが良い物はなく、仕方なくその場を離れる。先程から、視線を感じるのである。
とりあえず、気にしない振りをしながら街の中心の時計塔に向かった。
「……立ち入り禁止、ですか」
時計塔へは一般人は立ち入り禁止となっていた。何やら学者の集まりで星の動きを研究しているらしい。これでは中の様子を調べることが出来ないが、それは狙撃主も同じことだろう。無理に踏み込めば騒ぎになってしまう。
ウォンは、そのまま再び人の多い露天へと向かう。尾行をまく為である。足早に、複雑に路地を抜けたりしながら進む。夕日が時計塔を照らし、街に一筋の影を作る。ある程度グルグルとしていると先程の視線を感じなくなった。それでも、しばらく足早に歩いてから宿へと戻った。
ウォンが宿へと戻る頃はすっかり日も落ちていた。宿の入り口を潜ると、何やらドンチャン騒ぎの声が聞こえてくる。一階の酒場がやけに盛り上がっているようだ。
「あ、おかえりなさいませ」
宿の娘がお酒を運びながら声をかけてきた。当然ながらウェイトレスもやっているのだろう。店の看板娘というわけだ。
「何の騒ぎなんです?」
ウォンは人垣を指差す。
「あ~、娘さん、多芸なんですね」
そう言って彼女は微笑む。
娘……多芸……?
そう思いながら、ウォンは人ごみを覗き込む。そこには、スプーンの柄を口にくわえ、その上にビールグラスを乗せ、そのまま逆立ちをしてロータオに乗っているリイルーがいた。ウォンの口はあんぐり。何に驚いたかって、あまりに目立つ行動でもあるし、そんな芸を持っていたことにでもあるし、一国の姫が宴会芸をしていることでもあるし、とにかく全てに驚いてウォンの口が閉まらない。
ロータオはそろそろと進み、一人の男の前で止まる。男はそのままリイルーのくわえるスプーンの上のビールを取る。
「ありがたいねぃ、嬢ちゃん。ほら、駄賃だぜ」
男はヒョイと分厚いステーキ肉を皿ごとリイルーに渡す。
「うむ。有難く貰い受けるぞ」
その言葉使いを聞いて、ウォンは目眩を起こすかと思った。だが、まわりの男たちには受けているようだ。
「な、なにをやっているのですか」
これ以上、見ていられなくなったのか、慌ててウォンは男たちに割ってはいる。
「見ろ、今日の夕飯はすこぶる豪勢ぞ」
「いいから、上に上がりますよ」
「ふむ、仕方ないのぅ。ロータオ、持って上がってくれ」
ウォンに抱きかかえられ、リイルーは暴れる事無く従う。このあたりは子供らしくない。などと思いながら、ウォンは二階へと上がっていった。男たちの、
「嫁に来い~」
という言葉に少しムカツキながら。
「何をしてますか、姫さま。目立ってどうするのです目立って」
部屋へ付いたウォンは取り合えずといった感じで言葉を漏らす。言うなれば、リイルーはすでに姫ではなくただの女の子である。ウォンはお目付け役でもなんでもないので、振舞いなどには文句は言わない。しかし、こういった危険的状況においての目立つ行動というものには、いつも注意をしてきた。
リイルーはいつも明るく振舞う。元々明るい性格だった彼女だが、現在は気丈としか思えない時も多々ある。なにより、ウォンは、リイルーがいつ死んでも構わないという雰囲気があることを薄々と気づいてはいる。だから、目立つことを恐れないのだ。
「分かっておるわ。ほれ、夕飯一食分が浮いたぞ。食べるがいい」
リイルーは開き直っている。美味しそうに鶏肉を食べながら、分厚いステーキをウォンに差し出す。
「……そうですね。私が折角尾行をまいてきたというのに、ノンキな姫はいいですね」
半分いじけながら、ステーキにかぶりつく。
「む……すまない。妾が軽率であった」
リイルーは鶏肉を置き、一応は反省する。
「はい、まぁ、いいでしょう。それより、夜中にはここを抜け出します」
「ふぅ……フカフカのベッドは昼寝だけか」
ため息をついて、リイルーは再び鶏肉を食べ始める。ウォンもステーキを腹に収めると次の栄養源へと手を伸ばした。ロータオだけが質素な食事を楽しんでいた。
「姫さま、姫さま、ひーめーさーまっ」
時間は真夜中。街に明かりはなく、煌々と輝く月だけが地上を照らしている。
「ん……むぅ……もう出るのか?」
リイルーは目を擦りながら伸びをする。しかし、完全に目が覚めた様子はなく、呆としている。夜中は子供の時間ではない、だから眠いのだ、という言い伝えがシャンヤオにはあった。
「ほら、姫さま。とりあえず、ロータオに乗ってください」
「うむ……」
ロータオの背にはすでに荷物を積んでいる。いつものリュックと寝袋にもたれかかるようにリイルーは乗り、再び寝息をたてはじめる。
それを見て、ウォンとロータオは苦笑する。もっとも、ロータオが声をあげたわけではないが。
「落とさないようにお願いしますね」
ウォンはロータオに声をかけると、静かに部屋を後にする。その後ろにロータオも続く。階段に少し苦労しながらも気づかれずに外に出た二人と一匹は静かに歩き始めた。丘とは反対方向の森へと歩いていった。
「ん?」
リイルーが目を覚まして、最初に見たのが一面の竹である。密集して生えている物もあれば、まばらに生えている所もある。続いて、やけに嬉しそうにササを食べるロータオ。最後に骨付き肉にかぶりついているウォン。
「あ、姫さま、おはようございます」
「……そうか、夜中に抜け出して来たのだったな」
リイルーはそう言って、大きく伸びをする。太陽はすでに昇っている。子供の時間の始まりだ。
「朝から肉とは豪勢だのぅ」
「昨日の夕飯の残りです。トマトもありますよ」
リイルーはトマトを受け取り、そのままかぶりつく。果汁が零れないように丁寧に食べていく。トマトの次は骨付き肉を食べ、最後に塩を一つまみ舐める。食料が無くなりかけの時に比べると涙が出そうなくらいに豪勢な朝食を終え、二人は手を合わせる。
「「ごちそうさ……」」
二人が感謝の挨拶をしようと言葉を出した瞬間、背中に殺気を感じる。
二人はサッと立ち上がり、後ろを振り返った。
そこには、一人の男。長い髪をザンバラに後ろで結い、上下とも黒い服を着ている。加えて、黒い皮手袋。そして、腰に佩いている一振りの武器。剣ではなく、独特の反りと作り、倭刀である。
二人は感じる。目の前の、この男はマズイ、と。一見、自然と立ってはいるが、本能が伝えてくる。
『恐い』
自然と二人は後ずさりしていた。気づいたのは、背中にロータオが当たった時。見れば、ロータオが最小限の荷物を背に乗せたところだった。
「ふっ、人間よりパンダの方が肝が据わっておる」
男がクッと口を歪ませて笑う。
「ひ、姫さまはロータオに乗ってお逃げください。私は時間を稼ぎます」
「無理だ、そんなことをしては汝が死んでしまうではないか!」
「死にはしません!必ず追いつきます、お逃げください!」
ウォンは言いながらリイルーを抱きかかえ、ロータオに乗せる。リイルーは少し暴れたが結局はロータオの背に納まってしまう。
「必ず、追いつきます」
一歩づつ、ゆっくりとロータオは進みだす。
「あ、あ、あ、ダメだ。ウォン、命令だ。必ず、必ず追いつくのだぞ!」
リイルーの声が後を引きながら小さくなっていく。その言葉、その想いを受け止めながら、ウォンは顔をあげる。
懐から煙草を一本取り出し、ゆっくりとライターで火をつける。そして、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「あんたも呑むかい?」
変化したウォンの気を感じ取り、男はニヤリと笑った。
ぼやける目を、リイルーは必死で拭う。涙が、止まらないのだ。悲しんではいけない。絶望してはいけない。泣いてはいけない。その志はあっても、想いと思い出が勝手に涙を流させる。何度も、何度も何度も目元を拭って、真っ赤になるまで拭って、前方を、ただ前だけを睨みつける。
「……ロータオ、叩き潰すぞ」
走り行く前に、男と同じような服装の人間が四人。先の男と違い、なんの恐怖も感じない。
ロータオは、少しだけ前傾姿勢になり速度を上げる。男は、手にしていた剣を振り上げた。ロータオはそのまま突っ込むかと見せかけ、いきなりブレーキをかける。背中のリイルーは慣性の法則に従って前方へと飛び出す。
「!」
そのまま男の喉に跳び蹴りを放つ。勢いがついている分、威力は凄まじい。現に、男は蛙が潰れたような声を出して気絶した。着地したリイルーはそのまま爆ぜるように男の懐に飛び込む。
「賦っ!」
小気味よく息を吐くと、ほんの少しジャンプし男の腹に思い切り拳を突き出す。ぐぇ、という悲鳴を聞きながらリイルーは再び地を蹴り、男の顎に膝を入れた。
「この、餓鬼が!」
振り返った瞬間、男が剣を振り下ろす。
「クッ!」
リイルーは歯を喰いしばり、両腕をクロスさせる。ガギンという金属が打ち付けられる音。手甲で受け止めたのだ。甲で受け止めた剣を軽く捻る。男の手から、簡単に剣が抜け落ちた。
「糞!」
男が悪態をつきながら繰り出してきた拳を軽く払い、二の腕を掴んで地面に向かって軽く力を加える。
「?」
それだけで、男の身体がクルリと宙を舞う。男が地面へ倒れる前の中空でリイルーは男の顔面へ蹴りを一撃入れた。妙な方向に首が曲がったまま男は地面へと落ちた。
「ぎゃっ」
男の短い悲鳴に振り返ると、ロータオが一人の男を吹っ飛ばしたあとだった。
「いくぞ、ロータ……」
何か殺気めいたモノを感じ、リイルーはその場を飛び退く。何かの風切り音。少し後ろの竹が爆ぜ、倒れる。
「狙撃主!」
リイルーは叫び、走り始める。竹林をジグザグに、狙撃主に対して縦でも横でもない、ナナメの動きで近づいていく。その横ではロータオがまた同じように走る。怒りを表すかのように獣の咆哮をあげた。段々と弾丸が飛んでくる間隔が短くなっていく。
「見えた!」
狙撃主の姿を確認した瞬間、左肩に鈍痛。恐らく、弾丸がかすめたのだろう。だが、リイルーは止まらず、走り続ける。狙撃主まで二十メートルまで近づいた時、リイルーとロータオは二手に分かれる。大きく膨らむようにまわりこんで行く。狙撃主は冷静にリイルーだけを狙ってきた。だが、
「グオオオオォォォォォォォォ!」
再び、獣の咆哮。その雄叫びに思わず狙撃主は振り向き、一発の弾丸を放つ。だが、それはロータオには当たらず竹を一本切っただけだ。
「しまった!」
狙撃主は思わず叫び、振り返る。ライフルを構えようとした瞬間、ライフルが強い衝撃を受ける。リイルーの裏拳が入ったのだ。リイルーはそのまま狙撃主の左足を踏みつけ、一瞬の動きを奪うと、相手の膝に足をかけながら腹に拳を一撃。そのまま膝を踏み台にして跳びあがり、顔面への廻し蹴りを放つ。崩れ落ちようとする狙撃主の姿が一瞬にして吹き飛ぶ。ロータオの一撃である。狙撃主は七メートル位ノーバウンドで飛び、ボロ雑巾みたいに転がった。
「女……だったようだな」
リイルーはポツリ呟く。しかし、関係はない。道を邪魔されたのだ。退かす以外に方法は無い。
「いくぞ、ロータオ」
リイルーは呟くように言って、歩き出す。望みの薄い未来に向かって。
イイイィィィィン……
竹林に、倭刀を抜刀した時の音が余韻を残しながら響き渡る。遅れて竹が一本静かに崩れ落ちた。
男は、倭刀を中段に構える。
それに対抗してか、ウォンは煙草を前へと差し出す格好で対峙する。
「賦っ」
男が予備動作なしで突きを放ってきた。しかし、ウォンは慌てる様子もなく持っていた『煙草』で刀を払う。払われた刀はそのまま横薙ぎに来たが、今度はそれを受け止めた。何ら力を入れている様子はない。しかし、煙草には紫電が疾っている。男はゆっくりと刀を引いた。
「喫煙術士……『煙葬者』か」
「ほう、その名を呼ばれるのは久しぶりだ」
ウォンは煙草を一口吸う。煙は、まだ吐かない。
お互いに爆ぜるように突き進む。男の刀を煙草で払い、繰り出した拳を避けられ、袈裟斬りを受け止め、逆袈裟を避け、廻し蹴りを刀で防がれる。その瞬間に、ウォンは濃厚な煙を吐く。喫煙術『霧煙』。単純に相手の目を誤魔化す技だ。ウォンは素早く後ろにまわり男の背中を蹴り飛ばす。しかし、さすがの男は追撃を許さない。ほぼ本能的に刀を薙いで来たのに対して、ウォンも殺気だけで刀を止める。紫電を伴った煙草の灰が落ちる。
「勢っ!」
男の声と共に繰り出された刀を一歩下がって避ける。が、ネクタイの先が持っていかれた。そのまま、連続してくる攻撃を避けていく。再び袈裟にきた刀を受け止め、今度は反撃とばかりにウォンは足技を繰り出す。ハイキック、ミドルキック、ローキック、廻し蹴り。その全てを男は裂ける。
「覇っ!」
ウォンの気合い一閃。鞭の様にしなる蹴りを放ち、相手を下がらせると飛び蹴りを繰り出す。右足のそれを男は刀の腹で受ける。だが、男の顔面は大きく右に傾ぐ。地に付く前に左足が男の顔面を捕らえたのだ。
着地したウォンは間髪入れずに男の腹に煙草を持った右手の拳を叩き込む。
喫煙術『牙鋼』!
男はゴボっと大量の血を吐く。そして、自分の腹を見る。有り得ない、そう思った。自分の腹に、柔らかいはずの煙草が、刺さっているのだ。
「く、くくく……くくくくくくくっ」
男は堪え切れないように笑う。
「あなたは恐い人間でしたよ」
「お、前は……全然、恐くなか、った」
ウォンは新しい煙草に火をつける。
「あんたも、呑むかい?」
「あぁ……」
ウォンは男の口に煙草を咥えさせてやる。しかし、男はすでに息をしていなかった。
「美味いだろ、煙草」
ウォンは呟き、ゆっくりと歩き出した。
森を抜けた所で、リイルーとロータオは座り込んでいた。ロータオはただ森を静かに見つめて座っていた。
「う、うぅ……あ、う~……ひぐっ……」
リイルーは泣いていた。どうしようもない寂しさと絶望に、彼女は泣いていた。彼女が泣き伏せている身体は小さく、ただの女の子である。
「お姫様、どうなされました?」
不意に、彼女の耳に聞きなれた声が聞こえた。最初に目に入ったのは少し汚れた革靴。次に、いつも見ていたカバン。そして、半分ぐらいで切れたネクタイ。そして、そして彼の笑顔。
「ウォン……ウォン、ウォン!」
リイルーは跳ね飛び、ウォンの首に腕をまわした。ウォンもリイルーが落ちないように抱きかかえる。
「なぜ、どうして、ぶ、無事なのか?どこか、怪我はしておらぬか?」
リイルーはペタペタとウォンの顔を触る。
「わ、ちょっと姫さま……これでも私、結構強いのですから」
「あ、あの者に勝ったというのか?それならば妾の数倍は強いということだぞ」
リイルーは目を丸くする。
「いえ、姫さまには勝てませんよ」
「ん?どうしてじゃ?」
ウォンはパチリとウィンクする。
「大好きな姫さまに手などあげられません」
ボンという音が聞こえそうなほど、急速にリイルーの顔が赤くなった。
「な、いや、それは、そうなのだが……」
リイルーはシドロモドロにアタフタするが、それをウォンは不思議そうに見る。ロータオは少し言いたげだが、何も言わず歩き出した。
「さ、姫さま生きましょう。桃源郷はまだまだ遠いです」
おわり
某スクエニの短編小説に応募した作品。イラストからストーリーを作り上げる話だったと思う。2004年。約10年前なのでほとんど覚えてない。