第十章 雪女は真夏の路上で俺にさよならと笑う
今回、やたら長いです。そして残り二話……いや、一話とエピです。しばしお付き合いをー。
静菜が右へ左へと駆け回っている店内。
「あの子ね、物心付いた頃にはもう母親が居なかったのよ」
店の外で植木に水をやってるアイちゃんを眺め、悩ましげな溜め息と共にユリアさんが行き成りシリアストークを開始した。
先程の俺の質問――何でお前がここに!――に対する返答らしい。
別に俺はアイちゃんの身の上に関する質問をした覚えは有りませんが?
「……」
とは言わずに氷が解けて薄くなってしまったコーヒーで喉を潤す。
「だからこのお店はね、ケン――あ、アタシの弟であの子の父親ね。普通の、何処にでも居るような、でも真面目な子だったわ、アタシと違ってね」
変化球だった。コーヒー吹きそうになった。世間は狭い。まさかユリアさんとアイちゃんがそんな関係だったとは。そしてケンは恋人では無く何と弟の名前だったとは。ならばユリアさんの本名は……ラオウ? いやいや、流石にそれは――ありえそうだ。あのぶっとい腕ならそれ程名前負けしないだろう。
「まぁ、そのケンが少しでもあの子と居る時間を増やそうと考えて脱サラして始めた――ううん。始める予定だったのよ、このお店。まぁ、勢いが付くまではアタシがこうやって手伝うはずだったんだけどね……」
手伝いじゃなくて店長さんに成っちゃった、と笑うユリアさん。
「『スピカ』も有るから毎日ってわけにも行かないんだけど……それでも今は、ね?」
「……」
秋の日はつるべ落としと言うが、夏だって当たり前だが日は暮れる。茜色の夕焼けを眺めながら寂しげにそんな事を言ったユリアさんはその存在を茜色に溶かしてしまいそうな雰囲気があった。
当然だろう。娘の為に新たな人生を踏み出そうとした弟。その新たな一歩はもう踏み出される事は無いのだ。絶対に、決して。
……少し、気分が悪くなった。
視線を移す。店先、ジョウロを片手に帰るお客に元気良く手を振るアイちゃん。あの子は、もう二度と父親と会話する事は無い。
あぁ、クソッ。何が何でも殺しときゃ良かったな、あのバケモノ。
「無理です、無茶です、無謀です。自分の身の丈を知りなさい、この下等生物が」
たんたん、たん、と隣の席から可愛らしい声でそっけなく並べられた否定の言葉。何度も言うが勝手に人の思考を読まないで下さいセリアちゃん。
「でも、まぁ、貴方は十分良くやりましたよ、ジュウロウ。主も貴方を責める事は無いでしょう」
「……優しいな」
珍しく。
「私は常に慈愛に満ちていますよ? それに弱った貴方を嬲っても面白くないですしね、獲物は活きが良い方が良いですし……」
そっと、祈るように胸の前で手を組んで可愛らしい声のセリア。……後半隠せ、本音でも隠せ。台無しだから。
「でもセリアちゃんの言う通りよ。十ちゃんは――本当に良くやってくれたわ」
お礼よ、と優しげな瞳と共に差し出されるコーヒーのお代わり。有り難い。今まで飲んでいた薄い方を一気に飲み干し、そちらにストローを刺す。味わう様にゆっくりと口に含み――
「あの子の母親代わりとしてお礼を言うわ。あの子を幸せにしましょうね、ア・ナ・タ!」
「ブはっ!」
吹いた。突っ込みどころの余りの多さに。
けふけふけふ。気管に入った。コーヒーが気管に入った。視界が涙で滲む。
「まぁ、素敵。私も神に仕える身。お二人の幸せを祈らせていただきますわ」
知りたくなかった新事実。どうやらセリアの信じる神は同性愛オッケーらしい。
「汝、ユリア。汝はジュウロウを夫とし病める時も、病める時も、それから病める時も互いに慈しみあい共に生きてゆく事を誓いますか?」
「はい、誓いま――」
「誓うなぁぁぁっ!」
ばん、とカウンターを叩いて大絶叫。
「謝れ! ちょっと良い話だな……。とか思っちゃった俺の蹂躙されたピュアなハートに謝れ! あと何で病んでばっかなんだよ?」
良い笑顔のシスターと頬を赤らめた巨漢の漫才を強制終了させる。
「まぁ、ジュウロウに幸せが供給できるわけが有りませんからね。身の程を知れ」
「それは違うわセリアちゃん。女の子はね、好きな人と居られるだけで幸せなのよ?」
「理想論ですね、架空論ですね。現実見て下さい。この貧乏人に人を幸福にする事はできません。それと貴方は男です。むしろ漢です」
「……セリアーナ。てめぇは言っちゃあならねぇ事を言った。覚悟は良いな?」
緊張し、膨れ上がるユリアさんが纏う空気、筋肉、そして闘気。……胸に北斗七星が見えたのは俺だけでは無いはずだ。
「あら、遊びます?」
対し、不敵に笑うセリアの周囲を飛び回る椅子に花瓶。
「代金ここに置いときま~す」「お釣り無い?」「あ、自分が一旦纏めて払いますよ」
そして我先にと逃亡を開始する異変慣れした我が円町の愛すべき住人達!
時は戦国、世は乱世! どうするどうなる? 円町商店街!
「静菜~帰るぞ~」
「む。だが、未だ仕事が……」
「明らかに店じまいだ。あ、アイちゃんも暫く家に避難する?」
「ん」
煽っといてなんだが、大して興味も無いので放置する事にした真夏の夕暮れ時。
くあぅ、と噛み殺した欠伸で夕日が滲んで見えた。
■□■□■□
八月十一日、土曜日。
『……暑い。暑い、暑い、暑い……溶けてしまうよ……そうだ、北極行こう……』
と、呪詛及びテレビで得た要らん知識を撒き散らして、静菜がバイトに旅立った午前十一時二十分。
寝坊したせいで行動するには不十分な中途半端なその時間を、特に意味も無く窓の外を眺める事で浪費していた。
「お~頑張るね~」
学生時代、夏休み中の土日が振り替え休日に成らないのを学校側に抗議した俺とは異なる人種を発見。予備校にでも行くのだろうか? 制服と私服が混じった学生の群れがわらわらと歩いていた。
「ふはははははぁ~愚かな! このクソ熱い中外出とは無様だな愚民共!」
偉そうに笑ってみた。
ん? 予備校ってクーラーガンガンに効いてるんだっけか? そうなると今の俺よりは良い環境だな。どうだろ? 潜り込めるか? 大きい所だと生徒の全てを把握しているわけでは無いだろうし、何とか――
ヴ、ヴヴヴ、ヴヴヴ
「――はい御影です」
突然震えだしたケイタイをぱきん、と開いて通話開始。
《あ~十? 私、私》
……詐欺だ。ワタシワタシ詐欺だ。この国家権力保持者、遂に本性を表して犯罪に走りやがった! 良し、通話切ろ。
《十、切ったら殺すよ?》
「……」
ちっ。
「……――やだなぁ、切るわけ無いじゃないですかぁ~」
《ふ~ん。まぁ、私は優しいから暫く有った間に対する追求は止めてあげる》
は、良く言う。お前が優しいなら俺は何だ? 慈愛の神か?
「で、何の用ですか?」
仕事ならお断りですよ、三お姉ちゃん。普通の仕事がある以上、あんなデンジャーな仕事を引き受ける気は残念ながら有りません。
《あ~う~ん。まぁ……それなんだけど……ねぇ~……》
「?」
電波が悪いわけでもないのに聞き取りにくくなる三の声。何か言い難い事らしい。ズバズバ、ズケズケ。人の心を平気で蹂躙する三にしては実に珍しい反応である。
「何? そんなにやばい仕事なのか? なら別に引き受けても――」
《いやっ! ……うん、厄介は厄介だけどね……仕事じゃないわ。と、言うか十は最終的に折れるから私みたいのに都合良く利用されるのよ、気を付けなさい》
「今、褒められた?」
《どっちかと言えば馬鹿にされてんのよ、このお人好し。あ~気が抜けた。罪悪感とかも薄くなった。そんな分けで十、お姉ちゃんがお昼ご馳走してあげるから来なさい》
どんなわけ? そして何だ、罪悪感って? 薄くなっちゃ駄目だろ。お前はただでさえ人よりもその感覚が薄いんだから。
《で、十? お返事は?》
「行く」
即答。
男には、罠とわかっていても行かなくては成らない場合がある。
タダ飯を食える時がそれである。 by.御影十郎
■□■□■□
円町商店街の北口。三との待ち合わせのその場所に行った結果――
「……」
ひくひく、と頬が痙攣した。
やりやがった。あの行き遅れ眼鏡、やりやがった。
はぁ~い、良い子の皆、元気かなぁ~? 十郎お兄さんはついさっきまではバリっバリっに元気でしたよ? さて、そんな皆に伝えたい事があります。
うまい言葉には裏がある。
良く覚えておきましょう。引っかからない様にしましょう。特にワインレッドのスーツを着て眼鏡をかけた姉から言われた場合はことさら気をつけましょう。……三、死ね。
「悪いとは思ってるのよ? 思ってるんだけどね~……あ、私、用事あるから帰るね」
じゃっね~、と右手を上げて立ち去る三。
どう見ても悪いと思っている人間の行動には見えないのである。
「……」
あぁ、追いかけて文句を言いたい。思い切りヤクザキックしてあの高そうなスーツに足跡付けたい。でも、けれども、しかし――
「十くん、十くん、十くぅ~ん」
「……」
すりすり、すりすり。愛玩犬もびっくりな勢い撫で回されている今の俺には不可能です。あぁ、人肌って結構暖かいね。真夏にこんな事されると殺意以外出てこないよ。
そんな俺の殺意など微塵も気にせずに頬ずりしてるのは、肩に掛かるセミロングと閉じられた優しげな目元が特徴的な一人の女。俺よりも年上の癖に行動は明らかに幼い盲目の麗人。
その名も桜崎葛八さん、俺とは血の繋がりがある実の姉です。
「十くん、十くん、十くぅぅぅん」
「…………」
見ての通りのブラコンです。俺が猫ならばストレスでエライ事になりそうな可愛がり方です。……姉さん、涎たらさないで。
「――……で、三を利用してまで俺に何の用、姉さん?」
あっち行け、と剥がしながら尋ねてみる。
「お~この状態から会話に持ってくなんて……何か精神的に強くなったね? 十くん」
「……色々ありましたんで」
色々の内容としては、三に利用されて、不死身の食人鬼と殺しあって、ユリアさんに貞操を狙われたりした。
「ん~男の子だね、十くん。お姉ちゃんはますます十くんにぞっこんはぁはぁです」
「……や、実の弟にはぁはぁしないで」
「……お姉ちゃんの人生最大の後悔は十くんに血の繋がりがある事を教えた事です」
「……」
怖い人だ。何が怖いって? 本気でその事を後悔してる所が怖い。
「まぁ、良いや。お姉ちゃんはね、その色々の内容についてキミにお説教しにきたの」
やや怯える俺から軽く離れ、くるっと回って向き直る姉さん。チェック柄のロングスカートがふわり、と弧を描いた。
「そうですか。はい、さようなら」
そんな姉さんから先程の三を見習っての早期離脱。お説教と言われて大人しく聴く気は無いのです。
唯でさえ苦手なのだ。嫌いじゃないけど。この人は。
過剰なスキンシップもそうだが、ふとした瞬間に過去の負い目が鎌首をもたげる事がある。問答無用で謝りたくなる時がある。だから苦手。だから極力遠ざける。
でも――
「あれ? 十くん……本当に帰っちゃうの?」
遠ざかる気配に不安そうな姉さん。
「……卑怯だ」
こんな風に泣きそうな声をだされたらどうしようもないのである。苦手なだけで、基本的には好きなのだから。
■□■□■□
姉さんが行きたい店があると言うので言われた道順通りに誘導した結果の感想は、
「うわぁい、これ程悪意の有る店の選択は初めてだぁ~」
だった。
店の名前を出さずに道順で案内する辺り、姉さんは予想以上に腹を立てているらしい。
「よ! う! こ! そ! お客人!」
「うわぁい、こんなに悪意のこもった『ようこそ』も初めてだぁ~」
『!』の度にメイドのかっこうしたウェイトレスがローキックしてくる。地味に痛い。
「良い身分だの! 御影! わしに働かせて自分はでーとか!」
ふん、と怒りを露にするのは先日からこの喫茶『和』で働き始めた白い奴改め紅い奴。名前を如月静菜と言う。
先程からローを連発しているウェイトレスさんとは同一人物です。
「一週間位ぶりかしらね、静菜ちゃん。元気? 何か十くんに変な事されてない?」
そんな暴力ウェイトレスに笑って挨拶する姉さん。
何で面識あるんだ? あ、そっか。俺が桜崎病院に入院している時に知り合った様な事を静菜が言ってたな。
「あぁ、久しぶりと言う程ではないの、桜崎。元気だったし、深夜に身の危険を感じたのも二回ほどだよ」
「……十くん?」
睨まれた。
「嘘を吐くな、真に受けるな」
相手にするのも嫌なので、放置気味に店内を見渡す。
流石は土曜のランチタイム、繁盛も繁盛、大繁盛と言った感じだ。羨ましいが、静菜一人で大丈夫なんだろうか?
「で? どうかしたかの、御影? 寂しくなってわしに会いに来たのかの?」
「十くんは私とデート中なの!」
「ほぅ……」
うふふ、と笑って腕を絡めてくる姉さん。重さを増すウェイトレスのロー。
「席空いてるか?」
それらをスルーできる打たれ強くて大人な俺だった。
「む。つまらぬ、つまらぬよ、御影」
不満を露にするダメ店員。良いから働け。
「はぁ。少し待つのだよ、ちょうど今一つ空いたはずだからそこを片してくるよ」
「お~何か悪いな」
「ふん。気にするでない、仕事だよ」
――何だ、昨日の今日だが随分と様になってるじゃないか。
てけてけと遠ざかっていく背中を見ながらそんな事を思ったのでした、まる。
■□■□■□
「さて、じゃあ十くん、本題に行ってみようか?」
昼食後、ランチセットに付いて来たコーヒーにガムシロップを入れて掻き混ぜている俺にそんな事を言ってくる姉さん。……本題?
「見事に忘れてるみたいだね、お姉ちゃんはそんな十くんが大好きです」
はぁ、と呆れたように溜め息を吐き出された。
「……キズクチと、戦ったって言うのは本当?」
途端、冷めた声、開く双眸。
視ると言う本来の働きをしなくなった灰色の瞳と、背筋が凍りそうな冷たい声が俺を射抜く。
あぁ、忘れてた。この人も《鵺》だと言う事を、忘れていた。
何て殺気、何て怒気。同年代の女性が放つ事は到底不可能な、現代社会では抑制されるべき負の感情が空気の重さをワンランクもツーランクも跳ね上げる。
「私、言ったよね? 危ないことしちゃ駄目だって。普通に生きてくれって」
だが怖いとは思わない。その感情の波に飲まれても、出所が俺を心配すると言うものである以上、俺はその感情に対して本当に怖いと言う思いは抱かない。抱く必要が無い。
「そうは言うけどね、姉さん。俺もさ、もう学生じゃないんだよ。働いてるの、それで悲しい事に仕事を選べる程、ゆとりがあるわけじゃ――」
だから、反論する。反論した。心配性の姉さんを落ち着かせる為にいつもの調子で、そっと告げるように反論した。俺は大丈夫だ、と。
「嘘」
その、本気で寒気がする声に遮られるまでは。
空気が凍る。反射的に背中の相棒のグリップを握り締め、慌てて離す。
やばい、拙い、どうしたんだ? 本気で怒っていらっしゃる。
「それは嘘。十くんなら三ちゃんの部署にも入れた、御影さん達は大学に行っても良いって言ってくれてた、兵団にだって入れた。だから、嘘。私は知ってる。十くんは仕事を選べる立場だった。ううん。別に今の仕事でも構わない。でも、キズクチと関わる仕事なら断るのが当然だよね?」
「……」
抑揚の無い声。人間の声から一切の感情を排除したような淡々とした声。……まぁ、矛盾するが普通の異端者ならキズクチの名を聞いただけで手を引くだろう。幾ら食料が無くても。
「どうして? どうしてそんなに死にたがるの? 目を潰そうとした時もそう。どうしてそんなに自分を傷つけるの?」
「――っ!」
それが一転、心の底から心配した様な、泣きそうな声音に変わる。
心臓が、鷲掴みにされた様な感覚。
あぁ、だって、それは、俺が、俺が姉さんの――
「……――ごめん。言い過ぎたね。でも、もう止めて。あんな、あんな危ない事は……三ちゃんにも危ない仕事させないように頼んでおいたけど……間違ってももう二度とキズクチみたいなのとは戦わないで。お姉ちゃんが言いたかったのは……それだけ」
言い難そうに捲くし立て、しゅっ、と音を立てて抜き取られる伝票。盲目とは思えぬ確かな足取りで、姉さんは俺の前から立ち去り――
後には、馬鹿みたいにぼーっとする俺だけが残された。
■□■□■□
営業妨害も良い所だっただろう。
ランチタイムの真っ只中から、静菜が帰宅する六時までの間、俺は何をするでもなく『和』でぼーっとしていた。
それでも有り難い事にユリアさんは俺をそのまま放置しておいてくれた。
「……」
「……」
帰路。影を背中に長く伸ばしながらゆっくり並んで歩く俺と静菜は互いに一言も喋らない。いや、静菜は時々何か言おうとするが、俺の雰囲気がそれを許さない。
情け無い、とは思う。それでも姉さんの言葉が突き刺さる。
「『どうしてそんなに自分を傷つけるの』か……」
小声でぼやく。
そう、見えるのだろうか? 多分そうだ、きっとそうだ。見えるのだろう、死にたがっている様に、自分を傷付けたがっている様に。
だって――
「御影」
掛けられた声に顔を上げる。夕日を背負った静菜、そして商店街の出口を意味するゲート。
「っ。あぁ……悪い。行き過ぎたな」
駄目だ。ぼーっと歩いていたせいで家を行き過ぎたらしい。
頭を左右に振り、今だ粘りつく様に頭を支配する悩みを追い出す。ゆっくり振り返ろうとし――
「御影、少し寄り道して行こうか?」
その言葉と共にぐいっ、と腕を引っ張られた。
■□■□■□
石段を登った先は茜色の海だった。
円町で一番見晴らしが良いと評判の日崎神社。そこから眺める街並みは、茜色の海に沈んでいた。
「お~見るのだよ、御影、絶景だの?」
「ちょ、ま――何で、そんなに――元、気?」
カラカラと笑い街並みを見下ろす静菜とは対称に俺は呼吸を荒げ、身体を二つに折り曲げている。
何故だか石段を登っている最中に競争になったのだ。
そしてこの結果。まだ全快では無いとは言え……情け無い。
大きく深呼吸を三回、それで何とか呼吸を整え、膝を思い切り押し上げ、姿勢を持ちあげる。
「少しは、調子が戻ったようだの?」
そうして視界に入ってきたのは、白髪を靡かせ悪戯っぽく笑う静菜だった。
気を使わせたらしい。ま、当然と言えば当然か。
「まぁ、な。心配させたか?」
手摺りから乗り出すようにして、街並みを見下ろす。素直に思う。良い、眺めだ。
「まさか、御影は基本的には強い子だからの。ただ――」
ふわり、と静菜の気配が並ぶ様に隣に現れる。
「口惜しかったよ」
そして、本当に口惜しそうにそう言った。
わけがわからない。意味がわからない。何が口惜しかったのだろうか? この白いのは?
「まぁ、当たり前の事なのだがの――」
俺の訝しげな視線に気が付いたのか。、バツが悪そうに頬を掻きながら静菜が笑う。
「わしは、御影の事を何も知らぬのだな、と。そう思ったのだよ」
くるり、と周り手摺りにもたれる静菜。そのまま、夕焼けの空を眺めながら自棄に成った様に続ける。
「過去に何が有ったのか知らぬ。桜崎のどの言葉に傷付いたのかも知らぬ。本当に仕事が選べたのかも知らぬ。なにもわしは御影の事を知らぬ。知らぬ、知らぬ、知らぬ。そう――」
一息、夏の暑い空気を味わう様に大きく深呼吸して、
「何故、目を潰そうとしたかも――知らぬ」
寂しそうに、本当に寂しそうに瞳を潤ませ、空を見ながらそう言った。
ざっ、と地面が擦れる音。たん、と静菜は手摺りから離れ、振り返った俺と向き合う様に半回転。
「御影、わしは御影に助けられたよ」
真剣な目、夕日を写した目。静菜のその瞳は、普段の翡翠色とは異なった色彩を放っていた。
その目に、その声音に、思わず反論したくなる。
無理なんだ、不可能なんだ。俺には、出来ないんだ。誰かを守るとか助けるなんて事は……出来ないんだ。
そんな反論。『助けた』。そんな言葉を聞く度に心の中で、或いは口に出して使い続けてきた台詞。今回も、そう言おうと口を開くが――
「だからの、次はわしの番だよ」
射抜くようなその言葉に思わず飲み込んだ。
話せ。話してくれ。俺の過去を、背負ったものを、話してくれ。
そう言ってくる静菜の瞳。静菜の気配。静菜の全て。
「……――はぁ~」
溜め息を吐き出し、頭を掻く。ったく、
「お節介。小さな親切大きなお世話って言葉、知ってるか?」
「む。馬鹿にするでないよ、知っておるよ。良いから話すのだよ」
「俺の中でお前の評価を急降下中だぞ? この調子で訊き続ければ明日にも、家から追い出しそうな勢いだ」
軽い、脅し。見据え、声音を低く告げるが――
「構わぬよ。知らぬ方が辛い。助けになれぬ方が辛い」
即答。揺らぎの無い目と声と気配。……興味本位では無い、と言う事らしい。
「お前の中で……俺の評価が急降下するかもしれんぞ? 軽蔑し、視界から追い出し、俺なんかに助けられた事を後悔……するかもしれんぞ?」
最後の、確認。
受けた静菜は――
「空けが。これ以上の下は無いよ、安心して話すと良いのだよ」
本当に、本当に見惚れる様な笑顔でそう言った。言ってくれた。
あぁ、そうか、それじゃぁ、訊いてくれ。
昔、昔の物語。
昔、昔のお話を。
■□■□■□
「ほい、お茶」
境内、賽銭箱の前の段差に腰掛けた白いのに自販機で買ったお茶を投げ、自分もその隣で炭酸飲料の缶を開ける。
ぷしゅ、っと音。しょわしょわと湧き出す泡。
「贅沢だの、こんなもの」
軽く不満そうに静菜。すっかり家計を気にする様になってしまったようだ。
「まぁ、何か有った方が良いかと思ってな」
言って缶を傾け、喉を潤す。
そう、これから話す内容は決して楽しいものでは無い。面白いものではない。何か有った方が良いのだ。
「……何で、目を潰そうとしたか? だったか?」
「……話してくれるのなら、の」
静かな問いに静かな返答。セミの鳴き声がシャワーの様に降りしきる中での奇妙なその静寂。それを、壊す。
「姉さんの目を……光を奪ったのが俺なんだ」
苦い思いを吐き出すように。
「《鵺》の事は少しは話しただろ? その仕事――ある異端者の一族の当主を殺しに言った時の話だ。馬鹿な子供が勝手に慢心して、油断して――へまをした」
浮かぶ。その光景が。
燃える屋敷、月光に照らされた庭。怒声、罵声、殺気、殺意。
「その馬鹿の良い所を教えてやる。ソイツはな、運が良かった。ソイツは馬鹿で、弱くて、本当にどうしようもない存在だったけど、運は良かった。だから、恵まれてた」
そう、その馬鹿が《鵺》として生き残れたのはその恵まれた環境故にだ。
「周りの人に恵まれてたんだ。常に守ってくれた人が居たんだ」
「……」
「そして、そいつはその日――」
みしっ、無意識に握った缶が悲鳴を上げる。
「その守ってくれた人を……見捨てた」
庇うように俺の前にでる姉さん。とっさに伸ばした手。何も掴めなかった手。
“大丈夫だよ、十くん。お姉ちゃんがココに残るから”
今も耳に残るその言葉。
俺は三に引っ張られ、姉さんはその家の異端者に抑えられた。
俺のミスを、自惚れのツケを払う羽目になった、その姿を。
静菜が地下通路で見せた笑顔と重なる自己を捨て他者を優先するその優しく、脆く、ある意味で残酷な笑顔を――覚えている。
「見捨てられた結果が姉さん。その罪の意識で出来たのが――この傷」
指し示すのは十字傷。
助けに行くと喚き散らす俺を黙らせる為に三が抉った左上から右下に走る傷。
“わかった? アンタは弱いの、私にも勝てないの。寝てなさい、十”
押さえつけられ、縛られて聞いた台詞。
罪の意識に耐え切れずに自分で付けた右上から左下に奔る傷。
“何で? 何で? どうしてそういうことするの、十くん?”
初めて涙を見せてくれた姉さん。
「でもな。それでも許せなかった俺は目を抉ろうとした、潰そうとした」
「っ! それはおかしい! それは変だよ、御影! それでは桜崎が何の為に――」
食って掛かる静菜の口に笑顔で人差し指を押し当て、黙らせる。
「言われた。兄弟全員に同じ事を言われた」
だから、今も俺の目は見えている。
ま、俺を嫌っていた七ですら必死の説得に当たってきたのには驚愕を通り越して恐怖したがこれは『当前だよ』と不機嫌になっている静菜には別に言わなくても良いだろう。
「……ふむ、それでは御影はその事で桜崎に負い目を感じている、と?」
「いや、まぁ、そうだけど……」
そんなはっきり言わないで下さい。
「それがとらうまで『助ける』とか『守る』と言う言葉が大嫌いだと?」
「……お前には言ってないよな? 誰に聞いた?」
「む? 月島だよ」
あの眼鏡め。苦しんで死ね。
「はぁ~」
盛大な溜め息。何だ、そのリアクションは? 話したのに反応がイマイチでそのリアクションを取りたいのは俺の方だ。
「御影、御影~」
「ん~?」
「この、大空けが!」
何時の間にか眼前に立っていた静菜にぎゅむ、っと顔を両側から挟まれた。
「空け空けと言うておったがの……これ程までとは思っておらなんだよ。この大空け」
心底『コイツ、どうしようもねぇな』と、言う感じの静菜。すいません。俺、怒られる様な内容を話した覚えは無いんですが?
「それで、ずーっとウジウジしておって何かわかったのか? 何もわからぬであろう? それで、ぬしは一体どうして欲しいのだ? 罰して欲しいのか? 慰めて欲しいのか?」
一気に捲くし立てる静菜。一応疑問文ではあるが、回答する隙は無い。
沈黙、間。カナカナカナ。セミの声。そして、
「桜崎を――ぬしの姉を馬鹿にしておるのか? あやつは弟に責任を擦り付ける様な女か? この大空け! 誰もぬしを罰する事などできぬのだよ!」
「……」
射抜くような、それでいて泣きそうな怒声。
あぁ、なんて説得力だ。生贄として他者を優先した静菜だからこその言葉。
こいつは死ぬはずだった者。個を捨て、他を優先したその結果に死ぬはずだった者。姉さんの、同類。
「慰めて欲しいのか? なら慰めてやろう。大変だったね。これで仕舞いだよ」
「……投げやりだな?」
思わず苦笑い。
「当然だよ。慰めが有効なのは傷を負った直後、もう立って歩いておる御影にかける優しい言葉はわしには無いのだよ」
無駄な時間だったよ、とでも言いたげな静菜。
話して少しすっきりしたからまぁ、少しは有意義な時間だったな、と思う俺。
立ち上がり、炭酸を一気に飲み干し――
「御影、起こしてくれ」
静菜をひっぱり起こす。
白く、冷たく、細い手を握って。
■□■□■□
「御影、質問だよ」
石段を降り、我が家へ帰るその道中。
前を歩く白い奴が不思議そうに振り返った。
「ん? 何だ? あまりの暑さに溶けそうなのか? 残念ながらこの辺に涼めそうな所は無いぞ」
「む、幾らわしが雪女と言ってもそんな死に方はせぬよ、わしが訊きたいのはの、アレだよ」
すっ、と指差す先にはカラフルな屋根。たこやき、と書かれていた。
何故ここに? と思ったが、直ぐに祭りが近いと言う事を思い出す。
「あ~手伝い行かないとな~」
願い櫓の組みたてとか大変そうだな~、そういや幾ら貰えるんだっけ? 春と同じ位だとすると――
「って、静菜ちゃん。ローキックは止めなさい」
「止めて欲しければ質問に答えるのだよ」
ぶすぅ、と不機嫌そうな白い奴。
「ただの屋台だ、屋台。見れば分かるだろう?」
それ以外に何に見えると言うのだろうか? 逆にこっちがその辺を教えて欲しい。
「屋台……と言うと祭りがあるのかの?」
「お~。あれ? 言ってなかった?」
「聞いておらぬ、よっ!」
一際重いロー。最近の静菜は俺の軸足を潰しに掛かっているとしか思えない。
「来週の土日にあるんだよ、祭りが。ん? それじゃ、俺が設営の手伝いに行くってのも知らん?」
「知らぬよ」
あ、そう。言い忘れてたのか。
ま、昨日はユリアさんのお陰で一時期慌しかったからな。
「……行くか? 一緒に?」
「はぁ、仕方が無い。御影は友人が少なそうだからの、わしが特別に付き合ってやるよ」
やれやれ、と言った感じの白い奴。余談だが、さっき隣で『祭り! 祭り! 祭りか!』とうるさかった。だから誘ってやったのに――
何故に上から目線なんだ、この白!
「楽しみだの、御影! わしは祭りというものが初めてなのだよ!」
本当に楽しそうな静菜。
子供の様に道の先を走り、嬉しそうにこちらを振り返る。
平和の二文字が似合うこの時間。静菜の今後とか、我が御影探偵事務所の財政難とか、色々気になる事があるが、少なくとも今週の土日は俺の隣ではしゃぐのはこいつなんだろうな。
そんな、勘違いをした。
「御、影?」
「――ヅぁ、――」
信じられないものを見たと目を見開く静菜、泣きそうな声を出す静菜。そして、周囲に奔る青い火花、電流。
「第壱種技術異端者、御影十郎。穢れた血を匿った罪により断罪する」
周囲を囲むのは甲冑。画一され、個性を破棄した大量生産品。ファンタジーで主役張れそうな白鋼の軍勢。一様に携えるのは巨大な盾と円錐型の突撃槍。
見覚えは無い。だが、聞いた事ならある。
統一された装備、異端の知識と技術で造られた異端を狩る為の装備。こいつらは――
「兵、団? ――っッ!」
疑問を口にした瞬間、痺れる身体、焦げた匂いのする身体。
責められるべきなのか? 異端者のくせに日常のぬるま湯に浸かり油断した俺を。
褒めるべきなのか? その緩みを見抜き、一気に攻めに転じた兵団を。
いや、そんな事は後で考えれば良い。今、今やる事は一つだ。
「――ッ、」
「御影っ!」
蝕む激痛、引っ張られる皮膚。駆け寄ってくる静菜。身体の芯から俺を責め立てる激痛に歯を食い縛り――
「来るな、っ! 逃げ、ろッ!」
叫んだ。
がふっ、と一際大きな血の塊、それが地面で爆ぜ服に帰ってくる。は、何だ? 俺が喰らったのは電撃のはずなのに、何故、血が出る?
「近づかせるな!」
「っあぅ!」
必死に状況を把握しようとする俺の耳に届く怒声と、苦悶の声。
兵団の怒声と――静菜の苦悶の声。
「ッ、ォ、ォお、、、」
はっ、はっ、はっ。荒れる呼吸。呼吸する度に破裂する細い血管。
喰らった直後から、今の間まで絶え間なく身体を責め立てる痛み。あの電撃は毒に準ずるモノと仮定。
毒ならば下手に動くわけにはいかない。毒ならば大人しくしているべきだ。そう、静菜が殴られたか何だかしらないが、大人しくして居るべきだ。
「っ、ぁ、ぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ――」
無理だ。出来るか、そんな事。叩き付けられる激情感情。動く旅にビキビキ鳴き声を上げ、血管が爆ぜ赤く染まる中、痛みを凌駕するモノで立ち上がる。
「馬鹿な……何故立てる?」
周囲の甲冑共の中から上がる驚愕の声。
「――ろ――す」
それを無視しして、相手にしないで、端的に分かりやすく要求を伝える。
「静菜に、手を……だしたら――殺す」
倒れそうな身体をどうにか起こして、口の周りの血すらも拭えない状況での脅し文句。微塵の脅威も、欠片の凄みも無いその台詞を――
「っ! ば、バケモノめッ! 誰がお前の様な悪魔の言う事など聞くか!」
奴らは下がって聞く。でも、それだけ。
脅しにびびっても、優位は変わらない。ボロ雑巾一つを囲む無数の甲冑と言う構図は変わらない。
「放せ! 御影! 御影! 放すのだよ!」
泣き声混じりの叫び声。押さえられた静菜が泣きながらこっちに来ようとするが、あっさりとその動きを封じられている。
「黙れ!」
「誰がぬしらの言う事など聞くか!」
泣き叫ぶ静菜。暴れる静菜。だが、抑えられるだけで特に危害を加えられる気配は無い。
「……」
冷静に、落ち着いて、現状を把握。
奴の目的は、俺と静菜を消す事では無い。や、最終的な到達点はそこかもしれないが、直ぐにそれを行う分けでは無いと判断できる。消すだけなら、もうやられている。
兵団には別の用事があり、その為に取り敢えず俺も静菜も必要以上に危害を加えられる事は無い。ならば――
「……目、的は?」
「……本当にキミは技術異端なのか? いや、そんな事はどうでも良いか、こちらとしては話を聞いて貰えると言うのは有り難いしな……」
画一された甲冑共、その中の一人がそう言って前に出る。……コイツがこの隊の隊長か。
平等を歌っていても、組織である以上は上下がある。全員同じに見えたが、成程、盾に十字架をあしらう事により差別化を図っているらしい。
「我々、第三大隊の目的はキミと我々との一騎討ちだ。……いや、一騎討ちと言うのもおかしいか……兎に角、キミに負けて貰う為に彼女は人質になって貰う。全ては正義の為だ」
「……負け、てやるか……ら静、菜、放せ」
「出来ないな」
即答。は、用は俺がそっちの要求呑んで負けても静菜殺すって事か? なんて立派な正義なんだ。安っぽくて薄っぺらくて有難迷惑だ。
「まぁ、安心したまえ。抵抗しなければこれ以上のキミにも彼女にも危害は加えないし――私は恋人の別れに花を添える位の器量はある」
■□■□■□
「御影、御影、御、影……っ」
泣きじゃくり、馬鹿みたいに俺の名を呼んで俺に抱きついてくる静菜。
服に、血が付くから止めろ。
「大丈夫か? あぁ、血が……止まらぬではないか……」
胸の穴に当てられる手、凍りだす傷口。
「凍傷にはならぬ様に、するから」
前に倒れそうな俺を支える様に抱きつく静菜。あぁ、冷たいと、体温低いと思ってたけど……何だ。普通に暖かいじゃないか、この白。
「御影、頼みがある」
「……」
深刻そうな声。泣きながら、心の底から懇願する様な声。は、この状況の俺に何が出来ると期待してるんでしょうね、この白は?
笑おうにも笑えない。強がりたくとも強がれ無い。そんな満身創痍の俺に対する静菜の願い。それは――
「助けに……来ないでくれ」
何もするなと言う願いだった。
……。
…………。
あぁ、面白い。ここまで兵団の思い通りだと本気で笑えてくる。ふざけるな、馬鹿にするな、舐めるな。この状況でそう言われて大人しく出来る人間じゃないんだよ。
顔を持ち上げ、無理にでも身体を起こそうとする。
無理にでもその願いを聞かない様にする。
震える足、動かない足。体重すらも持ち上げれないこの身体。
そんな無様な俺の肩に手を置き、静菜の顔が近づき、唇が触れ、離れる。
キス。
「最後だから、これ位は、良いだろう?」
そして、笑顔。
また、この笑みか。
また俺はこの笑顔を見る羽目に成ったのか。
諦め、それでも他人を優先する笑顔を。分かってるのか? 姉さんも、静菜も、その笑顔を向けれた側がどんな気分になるのかを? どれ程自分の無力さを呪う事になるかを理解してるのか?
ゆっくり、ゆっくり、静菜の背中が離れて行く。
ゆっくり、ゆっくり、俺の意識が溶けて行く。
そんな中で聞いた静菜の声は――
「助けてくれて、ありがとう。嬉しかったよ――さよなら、御影」
何故だか、これ以上無く心に響いた。