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死刑執行の日、私に届いた最後の手紙は「愛している」だった――処刑人である私が唯一殺せなかった男の話

作者: uta
掲載日:2026/05/28

「——Loss」


斬首刑に必要な時間は、およそ三秒。

振りかぶり、振り下ろし、刃が骨を断つ音。それだけだ。


私は今日も、誰かの命を終わらせる。


早朝の処刑場には、湿った石の匂いが充満していた。地下牢から引きずり出された男が、震える膝を石床に叩きつけられる。罪状は窃盗と殺人。被害者は三名。


「た、助けてくれ……頼む、俺には娘が——」


男の懇願が、石壁に反響する。

私は何も答えない。答える必要がない。彼の娘のことも、彼の人生のことも、私には関係ない。


黒い外套の下で、剣の柄を握る。

ずしりとした重み。八年間、毎日のように握り続けた感触。


「処刑人リーネ。執行せよ」


司法長官オーギュストの声が、高い天井に響いた。

薄い唇が蛇のように歪んでいるのが、視界の端に映る。あの男はいつも処刑を見届ける。まるで娯楽のように。


「——はい」


私は剣を構えた。

男が泣き叫ぶ。呪詛を吐く。神に祈る。

どれも同じだ。どの死刑囚も、最後は同じことをする。


三秒。


振りかぶり——

振り下ろし——

鈍い音。


赤い飛沫が、黒い外套に散った。


また一人。


これで何人目だろう。数えることをやめたのは、いつからだったか。


「お見事」


オーギュストが近づいてくる。香水の匂いがきつい。吐き気がする——いや、違う。私は何も感じていない。感じてはいけない。


「相変わらず、お前は優秀な道具だ」


道具。


そう、私は道具だ。

王国が必要とする時に人を殺し、必要とされない時は地下の部屋で息を潜める。それだけの存在。


「次の処刑は来月だ。国家反逆罪の大物でな」


オーギュストの黒曜石のような瞳が、愉悦に歪んだ。


「かつての騎士団長、ルシアン・ヴェルトール。聞いたことがあるだろう?」


ルシアン・ヴェルトール。


『黄金の獅子』と呼ばれた、王国最強の騎士。民衆に愛され、騎士たちに慕われた英雄。

その名前くらいは、私でも知っている。


「彼を斬れるのは、お前だけだ。光栄に思え」


「……はい」


私は頭を下げた。

誰を斬ろうと同じだ。英雄だろうと、犯罪者だろうと、私にとっては等しく『処刑対象』でしかない。


——そのはずだった。



       ◆



部屋に戻ると、扉の前に一通の手紙が落ちていた。


珍しい。

私宛の手紙など、処刑執行命令書以外に届いたことがない。


差出人の名前はない。宛名は『処刑人殿』とだけ。

不審物かもしれない。開けるべきではない。


そう思いながら、なぜか封を切っていた。


中には、短い一文だけが記されていた。


『今日の空は、青かったか?』


……は?


意味がわからなかった。

空? 青い? 私に何の関係がある?


気味が悪い。

私は手紙を丸めて、暖炉に放り込んだ。


——それが、全ての始まりだった。



       ◆



翌日も、手紙は届いた。


『昨日、何を食べた?』


……捨てた。


その翌日も。


『眠れているか?』


……捨てた。


さらに翌日。


『お前は、笑ったことがあるか?』


私は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。


笑う。


その行為を、最後にしたのはいつだったか。思い出せない。思い出す必要もない。


「……気持ち悪い」


呟いて、また捨てた。


でも。

指先が覚えていた。あの手紙の、少しざらついた紙の感触を。インクの匂いを。丁寧に書かれた、穏やかな筆跡を。


誰だ。

誰が、こんな手紙を送ってくる。


処刑人に。人殺しに。こんな——こんな、まるで私を人間扱いするような言葉を。



答えは、すぐにわかった。


死刑囚リストを確認した時、私は息を呑んだ。

差出人欄に記された名前。


『ルシアン・ヴェルトール 罪状:国家反逆罪 処刑予定日:三十日後』


来月、私が斬る男。


「……なんのつもり」


騎士団長ともあろう者が、自分を殺す処刑人に手紙を送る? 天気を尋ね、食事を尋ね、笑ったことがあるかと聞く?


理解できない。

理解したくもない。


その日届いた手紙を、私は読まずに引き出しの奥に押し込んだ。


——読まなかった。

読まなかったのに。


『返事はいらない。ただ、お前が読んでくれるなら、それでいい』


次の日の手紙には、そう書いてあった。


「……っ」


なぜ、読んでしまうのだろう。

なぜ、捨てられなくなっているのだろう。


私は知らないうちに、彼の手紙を待っている自分に気づいた。


朝、扉の前に白い封筒があることを。

開ける時、少しだけ指先が震えることを。

読み終わった後、無意識に文字をなぞっていることを。


「……関係ない」


声に出して、自分に言い聞かせた。


「私はあの男を殺す。それだけだ。それだけ——」


その夜。

私は初めて、返事を書いた。


『私はあなたを殺す人間です。なぜ、私に手紙を送るのですか』


書いた後、何度も書き直そうとした。こんなことをする意味がない。相手は死刑囚だ。私は処刑人だ。関わる理由がない。


でも、結局。

私はその手紙を、牢番のガルドに託していた。


翌朝届いた返事は、たった一行だった。


『知っている。だから書いている』


……意味がわからない。

意味がわからないのに。


その文字を見た瞬間、私の胸の奥で何かが軋んだ。

錆びついた歯車が、無理やり動き出すような——そんな、痛み。



       ◆



処刑まで、あと二十三日。


『今日は雨だった。お前の部屋には窓があるか?』


手紙を読みながら、私は自分の部屋を見回した。

地下の、石造りの小さな部屋。窓はない。当然だ。処刑人に、外の景色など必要ない。


『窓はありません』


私は返事を書いた。

書いてから、なぜこんなことを答えているのだろうと思った。でも、書いてしまったものは仕方ない。


翌日の手紙。


『そうか。なら俺が教えてやる。今日の空は曇りだが、雲の切れ間から時々日が差している。鳥が三羽、牢の窓の前を横切った。たぶん雀だ』


……馬鹿らしい。

死刑囚が、空の様子を報告している。自分が死ぬまであと何日もないというのに、雀を数えている。


『あなたは、怖くないのですか』


気づいたら、そう書いていた。


『死ぬことが、怖くないのですか』


返事は、いつもより少し遅れて届いた。


『怖くないと言えば嘘になる。でも、お前に会えることの方が、今は大きい』


私は手紙を取り落としそうになった。


会える。

私に。


「……何を言っている」


処刑の日に会うということは、私が彼を殺すということだ。なのに、なぜ『会える』などと——


『お前は俺を殺す。それは変わらない。でも、その前に一度、お前の顔を見たい。声を聞きたい。できれば、名前を呼びたい。贅沢か?』


がたん、と椅子が倒れる音がした。

私が立ち上がったからだ。自分でも気づかないうちに。


心臓がうるさい。

息が苦しい。

なぜ。なぜ、こんな——


「……あり得ない」


私は処刑人だ。

名前を呼ばれていい存在じゃない。顔を見られていい存在じゃない。


でも。

彼の手紙の、最後の一行。


『お前の名前を、教えてくれないか』


震える手で、私はペンを握った。


『——リーネ、です』


書いた。

消せなかった。


翌日届いた手紙を開いた瞬間、視界が滲んだ。


『リーネ。いい名前だ。やっと呼べた』


——泣いている?

私が?


慌てて目元を拭った。

八年間、一度も流れなかった涙が、たった一行の言葉で溢れ出していた。



       ◆



処刑まで、あと十五日。


『会いに来てくれないか』


その手紙を受け取った時、私の足は勝手に地下牢へ向かっていた。


「……リーネか」


牢番頭のガルドが、隻眼で私を見つめた。剃り上げた頭に無数の傷跡、巨漢で筋骨隆々。この男はいつも無口で、必要以上のことは何も言わない。だから、私にとっては比較的——楽な相手だった。


「ルシアン・ヴェルトールに、面会を」


「規則では——」


ガルドが言いかけて、止まった。

長い沈黙の後、彼は重い鍵束を取り出した。


「十五分だ。それ以上は目を瞑れん」


「……ありがとう、ございます」


自分でも驚くほど、声が震えていた。



地下牢の最奥。

重い鉄格子の向こうに、その男はいた。


蜂蜜色の髪。深い翠緑の瞳。鎖に繋がれてなお、背筋は真っ直ぐで——


「——来てくれたのか」


優しい声だった。

あまりにも優しい声に、私は息を呑んだ。


「あなたが、呼んだから」


「ああ。呼んだ。ずっと——ずっと、会いたかった」


彼が立ち上がる。鎖が重い音を立てる。

鉄格子越しに、彼の顔が近づいた。


その瞳を見た瞬間。


私の中で、何かが弾けた。


「——あ」


知っている。

この目を、知っている。


記憶の底から、灰色の過去から、たった一つだけ色を持って蘇る光景。


孤児院の、埃っぽい廊下。

他の子供たちが寝静まった夜に、こっそり窓辺で月を見ていた私のところに——


『また泣いてるのか?』


——優しい声で話しかけてくれた、年上の少年。


『泣くな。いつか絶対、ここから出られる。俺が約束する』


あの時差し出された手。

温かくて、大きくて、私が初めて触れた『優しさ』。


「嘘……」


声が、掠れた。


「あなた、が……あの時の……」


「覚えていてくれたか」


ルシアンが——あの少年が、静かに微笑んだ。


「覚えていないのか、リーネ。お前が孤児院を出る前日、俺にくれた花を」


花。

野に咲いていた、名前も知らない小さな花。


お礼が言いたくて。ありがとうって伝えたくて。

でも、言葉にできなくて——だから、花を摘んで渡した。


あの花を、覚えている?

ずっと?

十年以上も——?


「なん、で……なんで、あなたがここに……」


「お前を探していた」


ルシアンの声が、震えた。初めて見る、彼の感情の揺れ。


「お前が売られた翌日に知った。必死で探した。でも見つからなかった。組織は巧妙で、痕跡を全部消していた。俺は騎士になった。力をつければ、お前を見つけられると思った。でも——」


彼の手が、鉄格子を握りしめた。


「あの組織は、王家と繋がっていた。見逃せと命じられた。俺は——従えなかった」


だから、国家反逆罪。

だから、処刑。


この人は——この人は、私のために——


「やめて」


気づいたら、叫んでいた。


「やめてください……私のせいで、あなたが死ぬなんて、そんなの……」


「お前のせいじゃない」


鉄格子越しに、大きな手が伸びてきた。

私の頬に、そっと触れる。

温かい。あの日と同じ、温かさ。


「俺が選んだんだ。お前を探すことを。あの組織を壊すことを。そして——」


翠緑の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。


「お前の手で死ぬことを」


「……っ」


「泣くな、リーネ」


優しい声。優しい手。


「もう、泣かなくていい」


——ずるい。

こんなの、ずるい。


八年間、凍らせてきた心が。

殺してきたはずの感情が。


この人の前では、全部溶けてしまう。



       ◆



「あらあら、リーネちゃん。顔色が悪いわよ?」


マリエルが、いつものように食事を運んできた。ふわふわの栗色の巻き毛に、大きな琥珀色の瞳。山盛りのパンと、温かいスープ。私が頼んだ量の、明らかに倍以上。


「……食欲が、ない」


「駄目よ、食べなきゃ。ほら、今日は特別に蜂蜜パンも入れといたんだから」


彼女はいつも、こうやって余計なものを足してくる。

最初は鬱陶しかった。放っておいてほしかった。でも今は——


「マリエル」


「ん?」


「……あなたは、どうしてこの仕事を」


「私?」


彼女は琥珀色の瞳を瞬かせてから、少し寂しそうに笑った。


「兄がいたの。冤罪で処刑された。だから——だから、せめて最後くらい、温かいご飯を食べてほしくて」


「……」


「人を殺す側も、殺される側も、みんな誰かの大切な人でしょ? それを忘れたくないの」


誰かの大切な人。


ルシアンの顔が、浮かんだ。

あの穏やかな微笑みが。温かい手が。


「リーネちゃん」


マリエルが、そっと私の手を握った。


「手紙、届いてるんでしょう? あの人から」


「……知って、いたの」


「内緒ね」


彼女はいたずらっぽく笑って、私の手をぽんぽんと叩いた。


「あの人ね、ずっとあなたのこと聞いてくるのよ。『リーネは元気か』『ちゃんと食べているか』『眠れているか』って。死刑囚なのに、自分のことより、あなたのことばっかり」


胸が、痛い。


「ねえ、リーネちゃん。好きな人を殺すって、どんな気持ちなのかしら」


「——好き、なんて」


「違う?」


マリエルの目が、真っ直ぐに私を見つめた。

嘘は通じない。そう悟った。


「……わからない」


「わからない?」


「好きという感情が、どういうものか、わからない。でも——」


私は胸を押さえた。ここが痛い。彼のことを考えると、苦しくなる。


「彼のことを考えると、ここが痛い。手紙が届かない日は、落ち着かない。会いたいと思う。でも会うのが怖い。殺したくない。でも殺さなければならない。……こんなの、おかしい。私は処刑人なのに」


「おかしくないわよ」


マリエルが、優しく微笑んだ。


「それが、恋よ」



——恋。


私が、恋をしている?

十日後に殺さなければならない男に?


馬鹿げている。

でも。


その夜、届いた手紙を開いた時。

私の心臓は、確かに跳ねた。


『今日はいい天気だった。お前にも見せたかった』


たったそれだけの言葉に、涙が溢れた。


会いたい。

会いたい。

会いたい。


でも——会えば、そのぶんだけ、別れが辛くなる。



       ◆



処刑まで、あと七日。


「逃がしてやる」


ガルドが、低い声で言った。


「……何を」


「ルシアン・ヴェルトールを逃がす手筈は整っている。かつての騎士団の仲間が、国境まで送る。お前も一緒に行け」


私は、ガルドの顔を見つめた。隻眼の奥に、静かな炎が見えた。


「あなたは……ルシアンの部下だったのですか」


「副団長だった。あの方が捕まった時、俺は何もできなかった。——今度は、違う」


逃げる。

ルシアンと一緒に、この国を出る。


できる。そうすれば、彼は死なない。私も、彼を殺さずに済む。


「——断る」


声がした。

鉄格子の向こうから。


ルシアンが、静かに首を横に振っていた。


「ルシアン様——」


「ガルド。気持ちは嬉しい。だが、俺は逃げない」


「なぜですか!」


私は叫んでいた。


「逃げてください! 生きてください! あなたが死ぬ必要なんて——」


「リーネ」


彼の声は、どこまでも穏やかだった。


「お前は今まで、何人殺した?」


「……数えて、いません」


「その全員を、お前は『自分の意思で』殺したか?」


私は言葉に詰まった。

自分の意思。

一度もない。全て命令だった。言われたから殺した。そうしなければ自分が罰せられるから殺した。


「違います。全部、命令で……」


「そうだ。お前は一度も、自分で選んだことがない」


ルシアンが、鉄格子に近づいた。


「俺を殺せ、リーネ」


「——嫌」


「お前が俺を殺せば、それは初めて『お前自身の意思』による行為になる。命令じゃない。自分で選んで、自分で決めて、自分で——」


「嫌だと言っている!」


私は鉄格子を掴んだ。指が白くなるほど強く。


「私があなたを殺したくないと思っている、これも私の意思です! なのに、なぜ……」


「リーネ」


彼の手が、私の手に重なった。

温かい。どうしようもなく、温かい。


「お前が俺を殺せなかったら——それでもいい」


「え……」


「殺しても、殺さなくても、それはお前が選んだことだ。俺はただ、お前に選ばせてやりたいんだ。お前を縛る鎖を断ち切る、その機会を」


涙が止まらなかった。


「ずるい……あなたは、ずるい……」


「ああ、ずるい男だ」


彼が笑った。切なくて、優しい笑顔だった。


「でも、お前を愛している。それだけは、嘘じゃない」


愛している。


初めて聞いた、その言葉。


私は泣き崩れた。声を上げて、子供のように。

八年分の、いや、十八年分の涙を全部流すように。



       ◆



処刑当日の朝。


扉の前に、最後の手紙が届いていた。


震える手で封を開ける。

中には、たった四文字だけが書かれていた。


『愛している』


私は長い間、その文字を見つめていた。

何度も何度も、指でなぞった。

インクの匂いを吸い込んだ。

紙を、胸に押し当てた。


——愛している。


私も。

私も、あなたを。


言葉にしたことはなかった。

でも、この気持ちに名前があるなら、きっとそれは『愛』なのだと思う。


会いたい。触れたい。声を聞きたい。

生きていてほしい。笑っていてほしい。隣にいてほしい。


こんなにも誰かのことを想うのは、生まれて初めてだった。


「……行かなきゃ」


私は黒い外套を纏い、剣を手に取った。

いつもと同じ。処刑人としての装い。


でも、今日は何かが違った。

手が震えている。心臓がうるさい。目の奥が熱い。


処刑場への道を歩きながら、私は何度も立ち止まりそうになった。


「リーネちゃん」


廊下の角から、マリエルが顔を出した。その目が赤い。泣いていたのだ。


「……何か」


「がんばって」


彼女はそれだけ言って、私の手を握った。

温かい手。小さな包みを、そっと私の手に押し込んだ。


「後で、見て」


「マリエル——」


「行って。あの人が、待ってる」


私は頷いて、歩き出した。



       ◆



処刑場は、静まり返っていた。


観衆はいない。国家反逆犯の処刑は非公開だ。

いるのは、オーギュストと数人の役人、そして看守たち。


「さあ、始めろ」


オーギュストの声が、響いた。艶のある黒髪をオールバックに撫でつけ、冷たい黒曜石のような瞳が私を見下ろしている。


地下牢から、彼が連れ出されてきた。

両手を鎖で繋がれ、それでも背筋は真っ直ぐで——


目が合った。


翠緑の瞳が、穏やかに私を見つめていた。


「よう、リーネ」


彼が、笑った。

死にゆく者の顔ではなかった。まるで、久しぶりに会った友人に挨拶するように。


「……ルシアン」


声が、震えた。


「泣くなよ。せっかく会えたんだ」


「泣いて、ない……」


嘘だった。もう、涙が溢れていた。


「処刑人。早くしろ」


オーギュストの苛立った声。


私は剣を構えた。

持ち慣れたはずの剣が、今日は酷く重い。


ルシアンが、跪いた。首を差し出すように、頭を下げた。


「いい空だ」


彼が言った。


「今日の空は、青いぞ。リーネ」


——空。


最初の手紙に書いてあった言葉。『今日の空は、青かったか?』


私は見上げた。処刑場の高い天井に開いた、小さな窓。そこから見える、青い空。


彼は、ずっと私に空を見せたかったのだ。

窓のない部屋で生きてきた私に、世界の色を教えたかったのだ。


「振り下ろせ!」


オーギュストの怒声。


私は剣を——


振り下ろせなかった。


腕が動かない。全身が震えている。涙で視界が滲んで、何も見えない。


「殺せ……ない……」


剣が、床に落ちた。


金属音が、処刑場に響き渡った。


「何をしている! 早く殺せ! これは命令だ!」


「嫌だ」


私は初めて、命令に逆らった。


「私は、この人を殺さない」


自分の意思で。

自分で選んで。

自分で決めた。


「愚か者が……! 誰か、この女を——」


「動くな」


低い声が響いた。

ガルドが、オーギュストの首に刃を突きつけていた。


「よう、司法長官殿。貴様の悪事の証拠、全部揃ったぞ」


「な、何を……」


「孤児売買組織との繋がり。王命を悪用した証拠隠滅。ルシアン様を陥れた偽の証言。——全部、かつての騎士団の仲間が集めてくれた」


処刑場の扉が開いた。

騎士団の紋章を掲げた男たちが、なだれ込んでくる。


「オーギュスト・レーヴェン。国家反逆罪および職権乱用の容疑で、貴様を拘束する」


「ば、馬鹿な……私が反逆罪だと……?」


「お前が組織の黒幕だったんだろう? 子供を売り、騎士団長を陥れ、処刑人すら道具として使い潰す。——恥を知れ」


オーギュストが連行されていく。

薄い唇が恐怖に歪み、高い声で弁明を叫んでいたが、もう誰も聞いていなかった。


「道具は道具らしく、だと? お前こそ、法の道具として裁かれるがいい」


騎士の一人が吐き捨てた。

オーギュストの悲鳴が、遠ざかっていく。


——終わった。


本当に、終わったのだ。


「……リーネ」


声に振り向くと、ルシアンがいた。

鎖を外され、翠緑の瞳で私を見つめている。


その手に、何かが握られていた。


色褪せた、小さな押し花。


「お前がくれた花だ。ずっと、持っていた」


「……っ」


十年以上も。

牢に繋がれても。

死を目前にしても。


ずっと、ずっと——


私は走った。

彼の胸に飛び込んで、声を上げて泣いた。


「ばか……ばか……死んだらどうするつもりだったの……」


「悪かった」


「本当に……本当にばか……」


「ああ、ばかだ。お前に殺されてもいいと思うくらい、ばかだ」


彼の腕が、私を包んだ。

温かくて、大きくて——ああ、これが、守られるということなのか。


「もう離さない」


彼が言った。


「二度と、お前を一人にしない」


私は頷いた。何度も何度も。


言葉にならなかった。

でも、彼には伝わったと思う。


——私も、あなたを愛している。



       ◆



三日後。


私は処刑人の職を正式に解かれた。

処刑を『失敗』した者に、もうこの仕事はできない。当然のことだった。


でも、不思議と悲しくはなかった。


八年間纏い続けた黒い外套を脱いだ時、肩が軽くなった気がした。


「これからどうするの?」


マリエルが、旅支度を整える私を見て言った。


「わからない。でも——」


私は窓の外を見た。朝日が昇り始めている。


「彼と一緒なら、どこへでも行ける気がする」


「もう、ノロケちゃって」


マリエルが笑って、私の頭をぽんと叩いた。


「幸せになりなさいよ。あなたには、その権利があるんだから」


幸せになる権利。


昔の私なら、そんなものがあるはずないと思っただろう。人殺しに、幸せなど許されないと。


でも今は——


「ありがとう、マリエル」


私は初めて、誰かに心から礼を言った。


「あら、笑った」


「え?」


「リーネちゃん、今笑ったわよ。見た? ガルドさん、見た?」


後ろに立っていたガルドが、無愛想に頷いた。でも、その目元が少し緩んでいたのを、私は見逃さなかった。


「いい顔だ。ルシアン様も喜ぶ」



       ◆



城門の外で、彼が待っていた。


朝日を背に、金色に輝く髪。

獄中で痩せた体も、自由の空気を吸って、少しずつ元に戻りつつある。


「リーネ」


私の名前を呼ぶ声。

何度聞いても、胸が熱くなる。


「遅くなりました」


「いや、ちょうどいい。見ろ」


彼が空を指さした。


朝焼けの空。茜色と金色が混じり合い、雲の端が輝いている。鳥が群れをなして飛んでいく。


「綺麗……」


「ああ、綺麗だ」


でも、彼の目は空を見ていなかった。私を見ていた。


「な、何を……」


「お前の方が綺麗だと思って」


「——っ」


顔が熱くなる。こういう時、どうすればいいのかわからない。


「からかわないでください」


「からかってない。本心だ」


彼が手を伸ばした。大きくて、温かい手。


「行こう、リーネ。どこへでも」


私はその手を取った。


「……はい」


歩き出した瞬間、彼がポケットから何かを取り出した。


「そうだ、これを渡しておきたかった」


折り畳まれた紙。

手紙だ。


「最後の手紙。ちゃんとしたやつを、書き直したんだ」


私は歩きながら封を開けた。


そこには、こう書かれていた。


『リーネへ。


お前が笑った顔を、この目で見たい。

だから生きることにした。


お前と一緒に朝日を見たい。

お前と一緒に空を見上げたい。

お前と一緒に、何でもない日常を過ごしたい。


これからは、自分の足で歩け。

でも、一人で歩く必要はない。

俺がいる。ずっと隣にいる。


愛している。

今日も、明日も、これからもずっと。


ルシアン』


涙が溢れた。


でも今度は、悲しい涙じゃなかった。


「ルシアン」


「ん?」


「私も——私も、あなたを愛しています」


初めて言えた言葉。

彼は目を見開いて、それから——泣いた。


王国最強と謳われた騎士が、子供のように泣いていた。


「ず、ずるいぞ……そんな顔で言うなんて……」


「ずるいのは、あなたです」


私たちは笑い合った。

泣きながら、笑い合った。


朝日が、二人を照らしていた。



       ◆



これからどこへ行くのか、何をするのか、まだ決まっていない。


でも、彼の手の温もりがある限り、私は歩いていける。


窓のない部屋で過ごした十八年間。

殺してきた感情。忘れていた笑顔。


全部、取り戻していけばいい。

彼と一緒に。


「リーネ」


「はい」


「いい名前だな、やっぱり」


「……さっきから何度も言ってます」


「何度でも言う。お前の名前を呼べるのが嬉しいんだ」


彼が笑う。

私も——笑う。


これが、幸せというものなのか。


なら、悪くない。

悪くない、人生だ。


青い空の下、私たちは歩き出した。

どこまでも続く道を、二人で。



——終——

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