死刑執行の日、私に届いた最後の手紙は「愛している」だった――処刑人である私が唯一殺せなかった男の話
「——Loss」
斬首刑に必要な時間は、およそ三秒。
振りかぶり、振り下ろし、刃が骨を断つ音。それだけだ。
私は今日も、誰かの命を終わらせる。
早朝の処刑場には、湿った石の匂いが充満していた。地下牢から引きずり出された男が、震える膝を石床に叩きつけられる。罪状は窃盗と殺人。被害者は三名。
「た、助けてくれ……頼む、俺には娘が——」
男の懇願が、石壁に反響する。
私は何も答えない。答える必要がない。彼の娘のことも、彼の人生のことも、私には関係ない。
黒い外套の下で、剣の柄を握る。
ずしりとした重み。八年間、毎日のように握り続けた感触。
「処刑人リーネ。執行せよ」
司法長官オーギュストの声が、高い天井に響いた。
薄い唇が蛇のように歪んでいるのが、視界の端に映る。あの男はいつも処刑を見届ける。まるで娯楽のように。
「——はい」
私は剣を構えた。
男が泣き叫ぶ。呪詛を吐く。神に祈る。
どれも同じだ。どの死刑囚も、最後は同じことをする。
三秒。
振りかぶり——
振り下ろし——
鈍い音。
赤い飛沫が、黒い外套に散った。
また一人。
これで何人目だろう。数えることをやめたのは、いつからだったか。
「お見事」
オーギュストが近づいてくる。香水の匂いがきつい。吐き気がする——いや、違う。私は何も感じていない。感じてはいけない。
「相変わらず、お前は優秀な道具だ」
道具。
そう、私は道具だ。
王国が必要とする時に人を殺し、必要とされない時は地下の部屋で息を潜める。それだけの存在。
「次の処刑は来月だ。国家反逆罪の大物でな」
オーギュストの黒曜石のような瞳が、愉悦に歪んだ。
「かつての騎士団長、ルシアン・ヴェルトール。聞いたことがあるだろう?」
ルシアン・ヴェルトール。
『黄金の獅子』と呼ばれた、王国最強の騎士。民衆に愛され、騎士たちに慕われた英雄。
その名前くらいは、私でも知っている。
「彼を斬れるのは、お前だけだ。光栄に思え」
「……はい」
私は頭を下げた。
誰を斬ろうと同じだ。英雄だろうと、犯罪者だろうと、私にとっては等しく『処刑対象』でしかない。
——そのはずだった。
◆
部屋に戻ると、扉の前に一通の手紙が落ちていた。
珍しい。
私宛の手紙など、処刑執行命令書以外に届いたことがない。
差出人の名前はない。宛名は『処刑人殿』とだけ。
不審物かもしれない。開けるべきではない。
そう思いながら、なぜか封を切っていた。
中には、短い一文だけが記されていた。
『今日の空は、青かったか?』
……は?
意味がわからなかった。
空? 青い? 私に何の関係がある?
気味が悪い。
私は手紙を丸めて、暖炉に放り込んだ。
——それが、全ての始まりだった。
◆
翌日も、手紙は届いた。
『昨日、何を食べた?』
……捨てた。
その翌日も。
『眠れているか?』
……捨てた。
さらに翌日。
『お前は、笑ったことがあるか?』
私は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
笑う。
その行為を、最後にしたのはいつだったか。思い出せない。思い出す必要もない。
「……気持ち悪い」
呟いて、また捨てた。
でも。
指先が覚えていた。あの手紙の、少しざらついた紙の感触を。インクの匂いを。丁寧に書かれた、穏やかな筆跡を。
誰だ。
誰が、こんな手紙を送ってくる。
処刑人に。人殺しに。こんな——こんな、まるで私を人間扱いするような言葉を。
答えは、すぐにわかった。
死刑囚リストを確認した時、私は息を呑んだ。
差出人欄に記された名前。
『ルシアン・ヴェルトール 罪状:国家反逆罪 処刑予定日:三十日後』
来月、私が斬る男。
「……なんのつもり」
騎士団長ともあろう者が、自分を殺す処刑人に手紙を送る? 天気を尋ね、食事を尋ね、笑ったことがあるかと聞く?
理解できない。
理解したくもない。
その日届いた手紙を、私は読まずに引き出しの奥に押し込んだ。
——読まなかった。
読まなかったのに。
『返事はいらない。ただ、お前が読んでくれるなら、それでいい』
次の日の手紙には、そう書いてあった。
「……っ」
なぜ、読んでしまうのだろう。
なぜ、捨てられなくなっているのだろう。
私は知らないうちに、彼の手紙を待っている自分に気づいた。
朝、扉の前に白い封筒があることを。
開ける時、少しだけ指先が震えることを。
読み終わった後、無意識に文字をなぞっていることを。
「……関係ない」
声に出して、自分に言い聞かせた。
「私はあの男を殺す。それだけだ。それだけ——」
その夜。
私は初めて、返事を書いた。
『私はあなたを殺す人間です。なぜ、私に手紙を送るのですか』
書いた後、何度も書き直そうとした。こんなことをする意味がない。相手は死刑囚だ。私は処刑人だ。関わる理由がない。
でも、結局。
私はその手紙を、牢番のガルドに託していた。
翌朝届いた返事は、たった一行だった。
『知っている。だから書いている』
……意味がわからない。
意味がわからないのに。
その文字を見た瞬間、私の胸の奥で何かが軋んだ。
錆びついた歯車が、無理やり動き出すような——そんな、痛み。
◆
処刑まで、あと二十三日。
『今日は雨だった。お前の部屋には窓があるか?』
手紙を読みながら、私は自分の部屋を見回した。
地下の、石造りの小さな部屋。窓はない。当然だ。処刑人に、外の景色など必要ない。
『窓はありません』
私は返事を書いた。
書いてから、なぜこんなことを答えているのだろうと思った。でも、書いてしまったものは仕方ない。
翌日の手紙。
『そうか。なら俺が教えてやる。今日の空は曇りだが、雲の切れ間から時々日が差している。鳥が三羽、牢の窓の前を横切った。たぶん雀だ』
……馬鹿らしい。
死刑囚が、空の様子を報告している。自分が死ぬまであと何日もないというのに、雀を数えている。
『あなたは、怖くないのですか』
気づいたら、そう書いていた。
『死ぬことが、怖くないのですか』
返事は、いつもより少し遅れて届いた。
『怖くないと言えば嘘になる。でも、お前に会えることの方が、今は大きい』
私は手紙を取り落としそうになった。
会える。
私に。
「……何を言っている」
処刑の日に会うということは、私が彼を殺すということだ。なのに、なぜ『会える』などと——
『お前は俺を殺す。それは変わらない。でも、その前に一度、お前の顔を見たい。声を聞きたい。できれば、名前を呼びたい。贅沢か?』
がたん、と椅子が倒れる音がした。
私が立ち上がったからだ。自分でも気づかないうちに。
心臓がうるさい。
息が苦しい。
なぜ。なぜ、こんな——
「……あり得ない」
私は処刑人だ。
名前を呼ばれていい存在じゃない。顔を見られていい存在じゃない。
でも。
彼の手紙の、最後の一行。
『お前の名前を、教えてくれないか』
震える手で、私はペンを握った。
『——リーネ、です』
書いた。
消せなかった。
翌日届いた手紙を開いた瞬間、視界が滲んだ。
『リーネ。いい名前だ。やっと呼べた』
——泣いている?
私が?
慌てて目元を拭った。
八年間、一度も流れなかった涙が、たった一行の言葉で溢れ出していた。
◆
処刑まで、あと十五日。
『会いに来てくれないか』
その手紙を受け取った時、私の足は勝手に地下牢へ向かっていた。
「……リーネか」
牢番頭のガルドが、隻眼で私を見つめた。剃り上げた頭に無数の傷跡、巨漢で筋骨隆々。この男はいつも無口で、必要以上のことは何も言わない。だから、私にとっては比較的——楽な相手だった。
「ルシアン・ヴェルトールに、面会を」
「規則では——」
ガルドが言いかけて、止まった。
長い沈黙の後、彼は重い鍵束を取り出した。
「十五分だ。それ以上は目を瞑れん」
「……ありがとう、ございます」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
地下牢の最奥。
重い鉄格子の向こうに、その男はいた。
蜂蜜色の髪。深い翠緑の瞳。鎖に繋がれてなお、背筋は真っ直ぐで——
「——来てくれたのか」
優しい声だった。
あまりにも優しい声に、私は息を呑んだ。
「あなたが、呼んだから」
「ああ。呼んだ。ずっと——ずっと、会いたかった」
彼が立ち上がる。鎖が重い音を立てる。
鉄格子越しに、彼の顔が近づいた。
その瞳を見た瞬間。
私の中で、何かが弾けた。
「——あ」
知っている。
この目を、知っている。
記憶の底から、灰色の過去から、たった一つだけ色を持って蘇る光景。
孤児院の、埃っぽい廊下。
他の子供たちが寝静まった夜に、こっそり窓辺で月を見ていた私のところに——
『また泣いてるのか?』
——優しい声で話しかけてくれた、年上の少年。
『泣くな。いつか絶対、ここから出られる。俺が約束する』
あの時差し出された手。
温かくて、大きくて、私が初めて触れた『優しさ』。
「嘘……」
声が、掠れた。
「あなた、が……あの時の……」
「覚えていてくれたか」
ルシアンが——あの少年が、静かに微笑んだ。
「覚えていないのか、リーネ。お前が孤児院を出る前日、俺にくれた花を」
花。
野に咲いていた、名前も知らない小さな花。
お礼が言いたくて。ありがとうって伝えたくて。
でも、言葉にできなくて——だから、花を摘んで渡した。
あの花を、覚えている?
ずっと?
十年以上も——?
「なん、で……なんで、あなたがここに……」
「お前を探していた」
ルシアンの声が、震えた。初めて見る、彼の感情の揺れ。
「お前が売られた翌日に知った。必死で探した。でも見つからなかった。組織は巧妙で、痕跡を全部消していた。俺は騎士になった。力をつければ、お前を見つけられると思った。でも——」
彼の手が、鉄格子を握りしめた。
「あの組織は、王家と繋がっていた。見逃せと命じられた。俺は——従えなかった」
だから、国家反逆罪。
だから、処刑。
この人は——この人は、私のために——
「やめて」
気づいたら、叫んでいた。
「やめてください……私のせいで、あなたが死ぬなんて、そんなの……」
「お前のせいじゃない」
鉄格子越しに、大きな手が伸びてきた。
私の頬に、そっと触れる。
温かい。あの日と同じ、温かさ。
「俺が選んだんだ。お前を探すことを。あの組織を壊すことを。そして——」
翠緑の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「お前の手で死ぬことを」
「……っ」
「泣くな、リーネ」
優しい声。優しい手。
「もう、泣かなくていい」
——ずるい。
こんなの、ずるい。
八年間、凍らせてきた心が。
殺してきたはずの感情が。
この人の前では、全部溶けてしまう。
◆
「あらあら、リーネちゃん。顔色が悪いわよ?」
マリエルが、いつものように食事を運んできた。ふわふわの栗色の巻き毛に、大きな琥珀色の瞳。山盛りのパンと、温かいスープ。私が頼んだ量の、明らかに倍以上。
「……食欲が、ない」
「駄目よ、食べなきゃ。ほら、今日は特別に蜂蜜パンも入れといたんだから」
彼女はいつも、こうやって余計なものを足してくる。
最初は鬱陶しかった。放っておいてほしかった。でも今は——
「マリエル」
「ん?」
「……あなたは、どうしてこの仕事を」
「私?」
彼女は琥珀色の瞳を瞬かせてから、少し寂しそうに笑った。
「兄がいたの。冤罪で処刑された。だから——だから、せめて最後くらい、温かいご飯を食べてほしくて」
「……」
「人を殺す側も、殺される側も、みんな誰かの大切な人でしょ? それを忘れたくないの」
誰かの大切な人。
ルシアンの顔が、浮かんだ。
あの穏やかな微笑みが。温かい手が。
「リーネちゃん」
マリエルが、そっと私の手を握った。
「手紙、届いてるんでしょう? あの人から」
「……知って、いたの」
「内緒ね」
彼女はいたずらっぽく笑って、私の手をぽんぽんと叩いた。
「あの人ね、ずっとあなたのこと聞いてくるのよ。『リーネは元気か』『ちゃんと食べているか』『眠れているか』って。死刑囚なのに、自分のことより、あなたのことばっかり」
胸が、痛い。
「ねえ、リーネちゃん。好きな人を殺すって、どんな気持ちなのかしら」
「——好き、なんて」
「違う?」
マリエルの目が、真っ直ぐに私を見つめた。
嘘は通じない。そう悟った。
「……わからない」
「わからない?」
「好きという感情が、どういうものか、わからない。でも——」
私は胸を押さえた。ここが痛い。彼のことを考えると、苦しくなる。
「彼のことを考えると、ここが痛い。手紙が届かない日は、落ち着かない。会いたいと思う。でも会うのが怖い。殺したくない。でも殺さなければならない。……こんなの、おかしい。私は処刑人なのに」
「おかしくないわよ」
マリエルが、優しく微笑んだ。
「それが、恋よ」
——恋。
私が、恋をしている?
十日後に殺さなければならない男に?
馬鹿げている。
でも。
その夜、届いた手紙を開いた時。
私の心臓は、確かに跳ねた。
『今日はいい天気だった。お前にも見せたかった』
たったそれだけの言葉に、涙が溢れた。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
でも——会えば、そのぶんだけ、別れが辛くなる。
◆
処刑まで、あと七日。
「逃がしてやる」
ガルドが、低い声で言った。
「……何を」
「ルシアン・ヴェルトールを逃がす手筈は整っている。かつての騎士団の仲間が、国境まで送る。お前も一緒に行け」
私は、ガルドの顔を見つめた。隻眼の奥に、静かな炎が見えた。
「あなたは……ルシアンの部下だったのですか」
「副団長だった。あの方が捕まった時、俺は何もできなかった。——今度は、違う」
逃げる。
ルシアンと一緒に、この国を出る。
できる。そうすれば、彼は死なない。私も、彼を殺さずに済む。
「——断る」
声がした。
鉄格子の向こうから。
ルシアンが、静かに首を横に振っていた。
「ルシアン様——」
「ガルド。気持ちは嬉しい。だが、俺は逃げない」
「なぜですか!」
私は叫んでいた。
「逃げてください! 生きてください! あなたが死ぬ必要なんて——」
「リーネ」
彼の声は、どこまでも穏やかだった。
「お前は今まで、何人殺した?」
「……数えて、いません」
「その全員を、お前は『自分の意思で』殺したか?」
私は言葉に詰まった。
自分の意思。
一度もない。全て命令だった。言われたから殺した。そうしなければ自分が罰せられるから殺した。
「違います。全部、命令で……」
「そうだ。お前は一度も、自分で選んだことがない」
ルシアンが、鉄格子に近づいた。
「俺を殺せ、リーネ」
「——嫌」
「お前が俺を殺せば、それは初めて『お前自身の意思』による行為になる。命令じゃない。自分で選んで、自分で決めて、自分で——」
「嫌だと言っている!」
私は鉄格子を掴んだ。指が白くなるほど強く。
「私があなたを殺したくないと思っている、これも私の意思です! なのに、なぜ……」
「リーネ」
彼の手が、私の手に重なった。
温かい。どうしようもなく、温かい。
「お前が俺を殺せなかったら——それでもいい」
「え……」
「殺しても、殺さなくても、それはお前が選んだことだ。俺はただ、お前に選ばせてやりたいんだ。お前を縛る鎖を断ち切る、その機会を」
涙が止まらなかった。
「ずるい……あなたは、ずるい……」
「ああ、ずるい男だ」
彼が笑った。切なくて、優しい笑顔だった。
「でも、お前を愛している。それだけは、嘘じゃない」
愛している。
初めて聞いた、その言葉。
私は泣き崩れた。声を上げて、子供のように。
八年分の、いや、十八年分の涙を全部流すように。
◆
処刑当日の朝。
扉の前に、最後の手紙が届いていた。
震える手で封を開ける。
中には、たった四文字だけが書かれていた。
『愛している』
私は長い間、その文字を見つめていた。
何度も何度も、指でなぞった。
インクの匂いを吸い込んだ。
紙を、胸に押し当てた。
——愛している。
私も。
私も、あなたを。
言葉にしたことはなかった。
でも、この気持ちに名前があるなら、きっとそれは『愛』なのだと思う。
会いたい。触れたい。声を聞きたい。
生きていてほしい。笑っていてほしい。隣にいてほしい。
こんなにも誰かのことを想うのは、生まれて初めてだった。
「……行かなきゃ」
私は黒い外套を纏い、剣を手に取った。
いつもと同じ。処刑人としての装い。
でも、今日は何かが違った。
手が震えている。心臓がうるさい。目の奥が熱い。
処刑場への道を歩きながら、私は何度も立ち止まりそうになった。
「リーネちゃん」
廊下の角から、マリエルが顔を出した。その目が赤い。泣いていたのだ。
「……何か」
「がんばって」
彼女はそれだけ言って、私の手を握った。
温かい手。小さな包みを、そっと私の手に押し込んだ。
「後で、見て」
「マリエル——」
「行って。あの人が、待ってる」
私は頷いて、歩き出した。
◆
処刑場は、静まり返っていた。
観衆はいない。国家反逆犯の処刑は非公開だ。
いるのは、オーギュストと数人の役人、そして看守たち。
「さあ、始めろ」
オーギュストの声が、響いた。艶のある黒髪をオールバックに撫でつけ、冷たい黒曜石のような瞳が私を見下ろしている。
地下牢から、彼が連れ出されてきた。
両手を鎖で繋がれ、それでも背筋は真っ直ぐで——
目が合った。
翠緑の瞳が、穏やかに私を見つめていた。
「よう、リーネ」
彼が、笑った。
死にゆく者の顔ではなかった。まるで、久しぶりに会った友人に挨拶するように。
「……ルシアン」
声が、震えた。
「泣くなよ。せっかく会えたんだ」
「泣いて、ない……」
嘘だった。もう、涙が溢れていた。
「処刑人。早くしろ」
オーギュストの苛立った声。
私は剣を構えた。
持ち慣れたはずの剣が、今日は酷く重い。
ルシアンが、跪いた。首を差し出すように、頭を下げた。
「いい空だ」
彼が言った。
「今日の空は、青いぞ。リーネ」
——空。
最初の手紙に書いてあった言葉。『今日の空は、青かったか?』
私は見上げた。処刑場の高い天井に開いた、小さな窓。そこから見える、青い空。
彼は、ずっと私に空を見せたかったのだ。
窓のない部屋で生きてきた私に、世界の色を教えたかったのだ。
「振り下ろせ!」
オーギュストの怒声。
私は剣を——
振り下ろせなかった。
腕が動かない。全身が震えている。涙で視界が滲んで、何も見えない。
「殺せ……ない……」
剣が、床に落ちた。
金属音が、処刑場に響き渡った。
「何をしている! 早く殺せ! これは命令だ!」
「嫌だ」
私は初めて、命令に逆らった。
「私は、この人を殺さない」
自分の意思で。
自分で選んで。
自分で決めた。
「愚か者が……! 誰か、この女を——」
「動くな」
低い声が響いた。
ガルドが、オーギュストの首に刃を突きつけていた。
「よう、司法長官殿。貴様の悪事の証拠、全部揃ったぞ」
「な、何を……」
「孤児売買組織との繋がり。王命を悪用した証拠隠滅。ルシアン様を陥れた偽の証言。——全部、かつての騎士団の仲間が集めてくれた」
処刑場の扉が開いた。
騎士団の紋章を掲げた男たちが、なだれ込んでくる。
「オーギュスト・レーヴェン。国家反逆罪および職権乱用の容疑で、貴様を拘束する」
「ば、馬鹿な……私が反逆罪だと……?」
「お前が組織の黒幕だったんだろう? 子供を売り、騎士団長を陥れ、処刑人すら道具として使い潰す。——恥を知れ」
オーギュストが連行されていく。
薄い唇が恐怖に歪み、高い声で弁明を叫んでいたが、もう誰も聞いていなかった。
「道具は道具らしく、だと? お前こそ、法の道具として裁かれるがいい」
騎士の一人が吐き捨てた。
オーギュストの悲鳴が、遠ざかっていく。
——終わった。
本当に、終わったのだ。
「……リーネ」
声に振り向くと、ルシアンがいた。
鎖を外され、翠緑の瞳で私を見つめている。
その手に、何かが握られていた。
色褪せた、小さな押し花。
「お前がくれた花だ。ずっと、持っていた」
「……っ」
十年以上も。
牢に繋がれても。
死を目前にしても。
ずっと、ずっと——
私は走った。
彼の胸に飛び込んで、声を上げて泣いた。
「ばか……ばか……死んだらどうするつもりだったの……」
「悪かった」
「本当に……本当にばか……」
「ああ、ばかだ。お前に殺されてもいいと思うくらい、ばかだ」
彼の腕が、私を包んだ。
温かくて、大きくて——ああ、これが、守られるということなのか。
「もう離さない」
彼が言った。
「二度と、お前を一人にしない」
私は頷いた。何度も何度も。
言葉にならなかった。
でも、彼には伝わったと思う。
——私も、あなたを愛している。
◆
三日後。
私は処刑人の職を正式に解かれた。
処刑を『失敗』した者に、もうこの仕事はできない。当然のことだった。
でも、不思議と悲しくはなかった。
八年間纏い続けた黒い外套を脱いだ時、肩が軽くなった気がした。
「これからどうするの?」
マリエルが、旅支度を整える私を見て言った。
「わからない。でも——」
私は窓の外を見た。朝日が昇り始めている。
「彼と一緒なら、どこへでも行ける気がする」
「もう、ノロケちゃって」
マリエルが笑って、私の頭をぽんと叩いた。
「幸せになりなさいよ。あなたには、その権利があるんだから」
幸せになる権利。
昔の私なら、そんなものがあるはずないと思っただろう。人殺しに、幸せなど許されないと。
でも今は——
「ありがとう、マリエル」
私は初めて、誰かに心から礼を言った。
「あら、笑った」
「え?」
「リーネちゃん、今笑ったわよ。見た? ガルドさん、見た?」
後ろに立っていたガルドが、無愛想に頷いた。でも、その目元が少し緩んでいたのを、私は見逃さなかった。
「いい顔だ。ルシアン様も喜ぶ」
◆
城門の外で、彼が待っていた。
朝日を背に、金色に輝く髪。
獄中で痩せた体も、自由の空気を吸って、少しずつ元に戻りつつある。
「リーネ」
私の名前を呼ぶ声。
何度聞いても、胸が熱くなる。
「遅くなりました」
「いや、ちょうどいい。見ろ」
彼が空を指さした。
朝焼けの空。茜色と金色が混じり合い、雲の端が輝いている。鳥が群れをなして飛んでいく。
「綺麗……」
「ああ、綺麗だ」
でも、彼の目は空を見ていなかった。私を見ていた。
「な、何を……」
「お前の方が綺麗だと思って」
「——っ」
顔が熱くなる。こういう時、どうすればいいのかわからない。
「からかわないでください」
「からかってない。本心だ」
彼が手を伸ばした。大きくて、温かい手。
「行こう、リーネ。どこへでも」
私はその手を取った。
「……はい」
歩き出した瞬間、彼がポケットから何かを取り出した。
「そうだ、これを渡しておきたかった」
折り畳まれた紙。
手紙だ。
「最後の手紙。ちゃんとしたやつを、書き直したんだ」
私は歩きながら封を開けた。
そこには、こう書かれていた。
『リーネへ。
お前が笑った顔を、この目で見たい。
だから生きることにした。
お前と一緒に朝日を見たい。
お前と一緒に空を見上げたい。
お前と一緒に、何でもない日常を過ごしたい。
これからは、自分の足で歩け。
でも、一人で歩く必要はない。
俺がいる。ずっと隣にいる。
愛している。
今日も、明日も、これからもずっと。
ルシアン』
涙が溢れた。
でも今度は、悲しい涙じゃなかった。
「ルシアン」
「ん?」
「私も——私も、あなたを愛しています」
初めて言えた言葉。
彼は目を見開いて、それから——泣いた。
王国最強と謳われた騎士が、子供のように泣いていた。
「ず、ずるいぞ……そんな顔で言うなんて……」
「ずるいのは、あなたです」
私たちは笑い合った。
泣きながら、笑い合った。
朝日が、二人を照らしていた。
◆
これからどこへ行くのか、何をするのか、まだ決まっていない。
でも、彼の手の温もりがある限り、私は歩いていける。
窓のない部屋で過ごした十八年間。
殺してきた感情。忘れていた笑顔。
全部、取り戻していけばいい。
彼と一緒に。
「リーネ」
「はい」
「いい名前だな、やっぱり」
「……さっきから何度も言ってます」
「何度でも言う。お前の名前を呼べるのが嬉しいんだ」
彼が笑う。
私も——笑う。
これが、幸せというものなのか。
なら、悪くない。
悪くない、人生だ。
青い空の下、私たちは歩き出した。
どこまでも続く道を、二人で。
——終——




